私たちはしあわせを探して生きる旅人のようなものでしょう。聖書は、しあわせは遠くにあるものではなくて、近くにあることを教えているように思います。

「事の終わりは、その初めにまさり、忍耐は、うぬぼれにまさる。軽々しく心をいらだててはならない。いらだちは愚かな胸にとどまるから。」(伝道者の書7章8~9節)

ここでは死という終わりの日まで、忍耐が必要であることを教えています。「うさぎとかめ」の日本民話がそのままあてはまります。うさぎはスタートは良かったのですが、まさしく「うぬぼれ」のため、かめに逆転されます。かめはくさらず、気短にならず、まさしく「いらだたず」、忍耐をもって一歩一歩前に進んで勝利を得ました。私たちは自分を落胆させ、意気消沈させ、いらだたせるような事に遭遇しても、仕事や結婚や子どもやその他のことで、人に先を越されたと思っても、敗北者のレッテルを自分に貼る必要はありません。本当のしあわせは逃げはしません。私たちがつかむために待ち受けています。反対にうぬぼれからくる将来にイメージが、その人にしあわせな気分を与えてくれていても、事の結末が悪かったらどうしようもありません。「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」(箴言16章15節)

「『どうして昔のほうが今より良かったのか』と言ってはならない。このような問いは知恵によるのではない。」(伝道者の書7章10節)

人はよく、昔の良き日を回顧します。しかし、後ろ向きに姿勢で過去にばかり目をやることは知恵によるのではありません。昔の時代は良かったと、失敗する前の過去にこだわったり、事故を起こす前の過去にしがみついたり、病気にかかる前の自分ばかりなつかしんでいたり、いつまでも必要以上に、過去に心を住まわせているのなら、益はありません。しあわせになれません。

著者は人生の不条理を嘆く人々に、自分の人生と神にぶつぶつ文句を言う人に、すばらしい知恵のメッセージを送ります。

「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。」(伝道者の書7章14節)

後半部分の意味を先に説明しますが、「人が神を非難しないように」「人が神に過ちを見出さないように」、そのような意味であると考えられます。では前半部分ですが、順境の日には素直に喜び楽しめばいいのですが、逆境の日にはどうしますか?神さまを非難しますか?神さまに欠点を見出そうとしますか?違うのです。「反省せよ」とあるように、反省することです。ここでは、へりくだって内省することの勧めです。そうすることによって神さまの恵みと愛を再発見し、しあわせへの道備えができるのです。ぶつぶつ文句を言っていても益はありません。私たちは逆境のときに、自分は神という大いなる恵みなしには生きられない者であり、生かされている者にすぎないということを知ります。そして、それまで自分が心を向けてきたものが、自分を本当の意味でしあわせにしてくれるものではなかったということに気づきます。自分はうぬぼれていたのではないかと内省に導かれます。そして、心がしあわせの本源である永遠の神に向かうのです。

ある人が、「神さまが人間にお与えになっている幸福の量って、おそろしいほど平等なのよ」と言われました。神さまが、すべての人間が神に似せて造られたがゆえに、人間すべてを価値あるものとして平等に見ておられます。また私たちを滅びから救うためにキリストを十字架につけられたということにおいて、その愛は高く平等です。当然ながら、私たちのしあわせを願っておられるということにおいて平等です。聖書の語る本当のしあわせは神にある人生、神との交わりです。私たちはしあわせということを平面的に見たり、一つの形に固定しようとしたり、即物的にとらえようとしたりする過ちを犯してしまいます。しかし、神抜きのしあわせはあり得ません。神は私たちから遠く離れてはおられません。呼び求める者の近くにいてくださいます。そして私たちの幸福そのものとなってくださり、永遠に揺るぐことのないしあわせを与えてくださるのです。