私たちは心の奥底で信頼できる存在を求めている。それは、自分の罪や弱さも打ち明け、自分のすべてをまかせてしまえるような存在である。そして永遠の救いを与えてくださる存在である。聖書は、それがイエス・キリストであると教えている。

9章33節をご覧ください。「彼に信頼する者は、失望させられることがない」。「彼」とは救い主キリストのことであるが、このみことばは、旧約聖書の預言書であるイザヤ書28章16節からの引用である。キリスト到来の700年前の預言である。「彼に信頼する者は、失望させられることがない」は、10章11節でも引用されている。著者のパウロは同胞のユダヤ人を始め、誰であってもキリストを信じることを願っている。「失望させられることがない」と訳されている原語は、「恥をかかせる」「失望させる」という意味のことばから成り立っている。協会共同訳は「主を信じる者は、誰も恥を受けることがない」と訳している。キリストを信じ、信頼する者は、「裏切られた、なんてこった!」という残念な結果には終わらない、ということである。詐欺まがいの謳い文句にだまされて人にも言えないような恥をかかせられる、ということを良く聞く。まさに失望もいいところで、大恥をかいてギャフンである。聖書が自信をもって信じるように勧めているお方は、主イエス・キリストである。まことの人となられたまことの神である。私たちの罪の身代わりにまでなろうとして十字架についてくださったお方である。このお方は私たちを決して裏切ることはない。

実は裏切らないものがもう一つある。聖書は、罪というのは、ある意味、律儀で裏切らない存在であることを説いている。パウロは、6章23節で「罪から来る報酬は死です」と語ったが、罪は律儀に死の刑罰という報酬を支払ってくれる。どこかで聞くように、給料未払いということはない。きちんと支払ってくれる。しかし、その報酬はあまりにも有り難くないものである。私たち罪人は、永遠の死、永遠の滅びという報酬のためにせっせと働いてきたと言えよう。私たちはこの報酬を受け、罪に恥じ入り終わりである。だがキリストは、この有り難くない死の報酬、死の刑罰を身代わりに受けてくださり、それだけでなく、死からよみがえり、私たちの罪を赦し、義と認め、プレゼントとして永遠のいのちをくださる。「彼に信頼する者は、失望させられることがない」は本当のことである。宣伝とは違うまがい物の物件をつかまされて絶望し、恥を見る、というようなことと同じことにはならない。宝の箱だと信じて、家に持ち帰って開けたら、とんでもないものが飛び出してひっくり返ったといった昔話のようなことにはならない。

著者のパウロが心を向けて欲しいのは、今お話しした主イエス・キリストである。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」(13節)のである。救いを求める人は多い。けれども、救われるためにキリストを真の意味で求める人は少ない。それがパウロの心の痛みだった。パウロは同胞のユダヤ人のために願っている。「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです」(1節)。パウロの時代、無神論者は少なかった。無神論であると馬鹿にされるくらいの時代であった。異邦人は多数の神々に手を合わせた。朝、偶像の神に手を合わせて一日をスタートした。パウロと同胞のユダヤ人は神は唯一と信じていたので、偶像の神々に手を合わせなかった。唯一の神のみを礼拝した。神への熱心ということにおいては、異教徒に負けなかった。けれども、熱心だから救われるということではない。パウロはユダヤ人が熱心であることを認めている(2節)。現代も熱心な人たちがいる。熱心に御祈禱し、難行苦行に精を出している人たちがいる。修行の種類は、断食、滝に打たれる、山中を歩く、巡礼(社寺巡り)などいろいろある。修行は自分の心をみがき、きたえることが重視される。心の表面はみがかれるかもしれない。だが私たちの罪は心の奥にまで巣くっているので、虫食いリンゴの表面をピカピカにみがけても、中まではどうすることもできないのと同じかもしれない。そして、キリスト教の異端と言われる方々も熱心である。救いのために、行いの熱心、わざの熱心が要求される。行いによる救いである。

パウロもかつてはユダヤ教徒として熱心であった。「以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした」(ガラテヤ1章13,14節)。彼は熱心であっても、キリストを信じる信仰によって義と認められ、救われるという知識はなかった。パウロは2節後半で、「しかし、その熱心は知識に基づくものではありません」と述べているが、パウロ自身がそうであった。

「というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったのです」(3節)。「自分自身の義を立てようとして」とは、自分の働きと功績に基づいて義を主張することである。私の人生の成績表を見てください、ということである。「自分自身の義」とは、言い換えると「行いによる義」である(9章32節参照)。それはユダヤ人にとっては、律法を行うことによる義である。規則を守って点数をかせいで義と認めてもらおうとするようなものである。行いのポイント稼ぎである。このようにして、私は救われるに値すると自己ピーアールするのである。けれども、真摯に自分を神の律法と照らし合わせれば、照らし合わせるほど、私はもうダメだ、救われるに値しない罪人だ、となるはずである。律法の目的は義を与えるためというよりも、罪を認めさせ、神に対する悔い改めを引き起こし、キリストを信じる信仰による義を与えるためである。律法は私たちに罪を認めさせ、罪を指摘し、救い主キリストのもとに導く役割を果たす。

パウロは律法を持たない私たち異邦人に対しては、善悪を判断する心の機能が律法であると語っていた(2章14,15節)。つまり、律法が心に書かれていると言う。人に教えられたわけでもないのに、うそをつくと良心が痛む、ということなどがそうである。だが、善悪を判断する心の機能はいつも健全に働くとは限らない。子ども以上に大人のほうがダメだったりする。そこで人は、聖書に書き記されている神の律法、すなわち神の戒めに触れることによって、神の御旨というものをはっきり知るようになり、罪というものがはっきりわかるようになり、救い主のもとに導かれる。

律法の目的はキリストのもとに導くためというのは、10章4節で見ることができる。「キリストが律法を終わらせたので、信じる人はみな義と認められるのです」(「律法を終わらせたので」の欄外注別訳「律法の目標であり」。新改訳2017「律法が目指すものはキリストです」)。「終わらせた」「目指すもの」と訳されていることば<テロス>は、「ゴール」という意味も持つことばである。律法はゴールであるキリストを指し示す。神の律法を知り、正しい道を歩もうと生き方を探り求める中で、道を踏み外し、罪を示され、自分の愚かさを嘆き、出口を探し求めて右往左往し、罪からの救い主キリストというゴールにたどりつくということである。ゴールはキリストである。

パウロの願いは一人でも多くの人が、6節で言われているように、キリストを信じて「信仰による義」を持つことである。「しかし、信仰による義はこう言います。『あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。』それはキリストを引き起こすことです。また、『だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。』それはキリストを死者の中から引き上げることです」(6,7節)。ここで、天に上るとか、地の奥底に下るとか言われているが、パウロは何を言いたいのだろうか。これは申命記30章12,13節からの自由な引用だが、これは、どうやったらゴールであるキリストのもとに行くことができるだろうか?ということで考えてみると良い。「キリストのおられる天に上ろうか?」(6節前半参照)。その必要はない。キリストは人となってこの地上に下って来てくださったからである。それが受肉、降誕(クリスマス)である。また、「キリストは十字架で死に、死者の住む地の奥底の世界に下ったというのなら、そこに捜しに行こうか?」(7節前半参照)。その必要もない。キリストは死者の中からすでによみがえられたからである。それが復活である。

パウロの言わんとしていることは、私たちは救われるために、何千キロ、何万キロの彼方まで旅をすることはないのだということ。天に上ったり、地の奥底に下ったりする必要はないということ。救いは天上とかよみの世界とか、そんなに遠い所にあるのではない。救いは近くにある、あなたのそばにあるということである。「では、どう言っていますか。『みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。』これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです」(8節)。「信仰のことば」とは、キリストについてのことばのことであり、福音のことである。それはあなたの近くにある、と言う。

このパウロの説明に、西遊記、孫悟空の物語を思い出す。孫悟空は三蔵法師の弟子として、レアな経典を求めて遠い国まで旅をするという物語である。中国から天竺(インド)まで長旅をし、ついにその経典を手に入れ、幸せになる孫悟空という物語である。

私たちは救いのために、幾つもの山を越えるような、そのような遠い長旅は必要ない。近くにあるキリストについてのことばを信じるだけでいい。ほかに何かをする必要はない。救いのために必要なことはすべてキリストがしてくださった。ことばなる神、永遠のいのちであるキリストは天より下り、まことの人となられた。見える神となって神の愛を現し、聖書の正しい解き明かしをしてくださった。キリストが地上に下られた最大の目的は、私たちの罪の身代わりとして死の刑罰を受けることであった。それがあの十字架である。キリストは十字架の上で私たちの罪を負い、死の刑罰を受けられた。そこで終わらず、三日目に死人のうちよりよみがえり、死を征服し、御自身が約束された救い主であることを証された。私たちはこのお方を信じるだけで救われる。

8節で、「みことばはあなたの近くにある」と言われているが、そのみことばとは、繰り返すが、救いのみわざを成し遂げてくださったキリストについてのことばである。まことの神はまことの人となり、私たちの罪の身代わりに十字架につき、死の裁きを受け、三日目によみがえり、生ける救い主となられた。このみことばを信じる者に救いが与えられるということである。簡単すぎるとある人たちは言う。それよりもキリストがどんなに難しいことをしてくださったかに心を留めたい。誘惑に打ち勝ち罪のない生涯を送ることもそうだが、私たちの罪を一身に負った十字架の苦しみは簡単なことではなかったことを覚えたい。それはどんなに過酷なものであったか測り知れない。肉体的にも精神的にも限界値を超える苦しみだった。それは難しさの極致である。また復活という奇跡も、人ができることではない。これら難しいことは、すべて私たちのためにしてくださったことであった。

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです」(9節)。ここで、イエスに対する信仰告白が救うのだ、ということを覚えよう。「もしあなたの口でイエスを主と告白し」とあるが、「主」という尊称は、異邦世界では偶像の神々と王に用いられていた。それゆえ、「イエスは主である」という告白は、イエスこそまことの神であり、まことの王であり、絶対主権者であるという告白になる。また、約束の救い主が待ち望まれていた背景から、「イエスは主である」という告白は、イエスは救い主であるという告白になる。マタイ1章21節には「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」とある。皆様は、イエスは私の神、私の王、私の罪からの救い主、そのような告白ができるだろうか。

9節の後半では、「あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら」と言われているが、もちろん、「イエスが私の罪のために死んでくださった」と信じることも必要である。十字架のみわざについてはすでに、3章23~25節等で言及されていた。十字架刑というのは公開処刑であったため、キリストの死自体は誰の目にも疑いようのない出来事だった。しかし復活は公開の出来事ではなかった。使徒たちでさえ最初は信じられなかった。この復活を信じるということが一つの試金石となる。私たちが、キリストをまことの神として信じる、神の国の王として信じる、私の罪からの救い主として信じる、というときに、キリストは十字架につきよみがえられた主として信じる、ということが含まれる。死んで終わってしまっただけの人物を神と呼べないし、死に征服されて終わったのでは救い主の資格はない。

キリストを信じたならば、口での信仰告白が求められる。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(10節)。私も、この告白をした。小さなことかもしれないが、9節との違いに触れておこう。9節では、口での告白に続いて、心で信じることが言われている。10節では、心で信じることに続いて、口での告白が言われている。心が先か、口が先か。順番的には、10節のとおり、心で信じることに続いて口での告白となるだろう。心が先で口があと。9節で口が先で心があとになっているのは、8節の旧約からの引用、「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある」(申命記30章14節)の「口、心」の順番に沿っただけのことだろう。大切なことは、心で信じることと口での告白は分かつことのできない一つの関係にあり、両方とも必要であるということである。まれにだが、国内外で、心の中では信じていないのに、口先だけ信じているといって、信者に成りすますというケースがあることを聞いている。また、心ではだいたい信じていても、公に口で告白できないというのは、イエス・キリストを主と認めて従うことに、何らかの抵抗があるということである。口で告白できないのは、まだ自分の罪がよくわからず救われる必要性を感じないとか、キリスト教の教えにおいてまだ釈然としないところがあるとか、信仰告白をして一歩踏み出したら周囲に反対されるとか、この世の楽しみを失ってしまうとか、何か理由があるだろう。だが、「彼に信頼する者は、失望させられることがない」を受け止めて、告白できる人は幸いである。

12節では、「ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです」と言われている。キリストは「すべての人の主」である。私たちも「すべての人」の中に含まれる。そして、この主は、「呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられる」お方である。

13節では、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」とあるが、主の御名を呼び求めた一人の事例をご紹介して終わりたい。何度かお会いしたことのある方だが、チベット宣教師となられたミシル・千代美さんの証を紹介したい。彼女は、それこそ、宗教に熱心だった方である。

「私は広島県尾道市で中学校の英語の教師をしていました。当時、私は生きる意味を探しあぐね、また、絶対的な真理を求め、手に入る書物を濫読していました。仏教にも関心があり、四国の遍路の旅までしました。ただしキリスト教は西洋文化そのものと偏見を持ち、教会もキリスト教も嫌いで避けていました。

そして、その頃、同僚であった森安真由美姉に、教会に誘われました。高島チャペルは、その頃はまだ借家で、私のもつ教会のイメージとは全く違いました。礼拝に出席して、この人達は何を信じ、喜んでいるのだろうか、それまで体験したことのないものを感じました。

納得するまで通ってみようと、背後の祈りに支えられ、教会嫌いだった私が4カ月教会に通い続けました。聖書の語るメッセージもわかるようになりました。

そんなある日、『イエス様に罪を赦していただかない?』という牧師夫人の奨めに、『こんな私が赦してもらえるはずがない』と思わず叫び、泣き出してしまいました。まだ私の中に、キリストが真理か仏法が真理か、わからない部分があったのです。キリストのもとへ飛び込ませない、後ろから引く力を感じました。

その後、夏のバイブルキャンプに参加し、子どもへのお勧めの中で、口を開いて信仰告白のお祈りをしました。実は、隣で聞いている友人の手前もあって祈ったのですが、それまでどうしても口にできなかった“イエスさま”というお名前を呼びました。そして子どもたちと一緒に、子どものように祈りました。そんな告白を主は受け入れてくださったのです。」

千代美さんは、“イエスさま”と主の名を呼び求め、イエスさまを救い主として受け入れる告白をした。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のである。これは真実である。あなたも、“イエスさま”と呼び求め、救いをいただいてください。