今日は神の主権をテーマに学びたいと思う。神の主権はあらゆる領域に働く。キリストは、「雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」(マタイ10章29節)と言われた。ならば、私たち人間に対しては、ということである。神の主権を正しく理解するときに、私たちは今自分に起きていることも、自分に理解できないこともゆだねていくことができる。

パウロは今日の箇所で、救いということを神の主権の観点から説明している。「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです」(16節)。今朝、注意を払いたいことは、パウロが神の主権というときに、神のあわれみとセットで説明しようとしていることである。

パウロは1~8章で神の福音のすばらしさを論じた後、9章に入り苦悩を見せる(1~5節)。悲しみや心が引き裂かれそうな痛みを表す。それは同胞のユダヤ人が救いを拒んでいるからである。ユダヤ人は神を世界に啓示するために選ばれた神の民のはずだった。幕屋、神殿で神を礼拝してきた。モーセを通して律法が与えられ、数々の約束が与えられた。その約束の中心は、あなたがたの中からメシアが出現するというものだった。それが神のイエス・キリストであった(5節)。ところが約束のメシアであるキリストが出現すると、キリストを拒んでしまった。

ユダヤ人たちはユダヤ人であるという血筋によって救われるかのように思い違いをしていた。それを意識して6節以降から書き始めているが、パウロはそこからもう一歩踏み込んで、神の主権による選びを論じていく。救いはキリストを信じる信仰によるのだけれども、それは選びとかかわっているということである。13節を見ていただくと、イサクの子どもであるヤコブとエサウについて言及されている。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」。これはマラキ書1章2,3節の引用である。これは選ばれた者が救われることの例証である。N.スネイスという学者は、「愛する」<アヘブ>は選びに基づいた愛で、「憎む」<サネー>は、アヘブと対象的で、選ばないという意味であることを明らかにしている。

この選びを人間の浅知恵で捕えてしまうときに、神に対して疑問が湧いてくる。それは二つに分けて考えることができる。一つ目の疑問は、選んだり選ばなかったりと、神には不正があり、不公平ではないのかというものである(14節前半)。しかしパウロは、「絶対にそんなことはありません」(14節後半)と、強く否定する。パウロは神のあわれみを念頭において、そう答えている。15,16節で神のあわれみが言われている。あわれみとは何だろうか。たとえばある会社の入社試験で、100点満点取ったら採用するという選びがあるとする。10人試験を受けて100点を取ったのは1人。この1人が選ばれた。これは公正な選びである。採用基準に満たなかった残り9人は、なぜ私たちは選ばれなかったのかと、後々まで文句を言えない。言うほうが間違っている。しかし試験官が残りの9人も採用したとする。8人は基準未満で、残りの1人は試験会場に向かう時に交通事故に遭ってしまった。彼も選ばれた。これは、あわれみでしかない。これがパウロの言うところの選びである。神の選びは、選ばれる由縁のない、選ばれる価値のない罪深い者たちが対象となっている。だからそれはあわれみである。救いは、神のあわれみ深い主権による、それが今日の教えの中心である。

二つ目の疑問は、神の主権を語るならば、人間には何も責任はないではないか、神は人を責めることができないだろう、というものである。「すると、あなたはこう言うでしょう。『それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう』」(19節)。この質問の前に、17,18節において、イスラエル人を奴隷としたエジプトの王パロ(ファラオ)が神の主権の事例として取り上げられている。パロは神によって心頑なにされた。では、パロに責任はないではないかとも思う。しかし、旧約聖書の預言書を読めば、こうした諸国の悪い王たちは、自分の思うがままに行動したのだから、自分の行動に責任があり、罰せられなければならないとはっきり書いてある。神の主権と人間の自由意志、この二つのどちらを受け取るかではなく、この両者を受け入れ入るのである。神の主権は絶対的なものである。しかし、それは人間の自由意志を奪い去ったり、縮小したりするものではない。

私たちが戸惑うのは、神の主権と悪の問題である。悪も神の主権の範囲外にはない。しかし神はその悪に対して道徳的責任は負わない。責任を負うのは悪を行った者だけである。神が善と悪の背後に立っておられるのは事実である。しかし、その善と悪の背後に同じようなかたちで立っているのではない。善は神から生じるが、悪は神からは生じない。悪が神から生じるならば、神は神でなくなってしまう。神は光であって闇の性質を持たない。悪は神からは生じない。神は悪が生じるのを許されるだけである。だからパロの心の頑なさは、神がパロの頑なな意志に放任されたという言い方ができるだろう。ブレーキをかけなかったということである。

神の主権というものはすべての領域を内包する。人間の心、行動も内包される。神の主権の外側で起きることは何もない。悪の行動でさえも、神の主権の範囲内で起きる。しかし、この神の主権を受け取り違いすると、人間自らの道徳責任、自己責任というものを放り投げて、悪いのは私じゃない、悪いのは神だと、すべてを神のせいにしてしまうことになる。

さてパウロは19節の「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう」の質問に対してどう答えているだろうか。ある人は神の主権は人間の自由を奪うと信じ、「神がすべてを定めている。人間が何をしてもむだだ。なるようにしかならない。人間に自由はない。選択肢はない」と宿命論を唱える。またある人は、その反対に、人間の絶対的自由を説き、人間のしようとすることだけが成ると唱え、神から主権を奪い取る。またある人はその中間的立場で、人間の意志を神の主権に対抗させて、あたかも、それらは綱引きしあっているかのように主張する。しかし、パウロは、そのような答えはしていない。「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか」(20節前半)で始まり、続いて、人は人にすぎず、神は神なのだ、造り主である神には何でもする権利がある、それが神なのだと断言する(20節後半,21節)。私たちは神に造られた作品にすぎず、ちっぽけな人間に神のすべてがわかるなどと言えない。有限な人間が、存在においても知恵においても力においても無限なる神のことを推し量ることなどできない。パウロの主張は、私たちは神のなされることに、とやかく言う資格はないということである。パウロが強調したいことは神のあわれみである。パウロは反抗的になりやすい私たちの目を神のあわれみに向けさせようとする(23~29節)。パウロは23,24節で「あわれみの器」という表現を二度用い、神の主権的選びはあわれみなのだと諭そうとしている。「あわれみの器」ということは、本来、滅ぼされるべき器にすぎなかったということである。22節には「その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか」とある。私たちも「あわれみの器」なのである。

私たちへの神のあわれみは、やはりキリストの十字架で知ることができる。十字架を見上げれば、私たちは本来、十字架で滅ぶべき罪人であったと教えられる。私たちは人と比較して、私はなぜあの人たちと同じようにしてくれなかったのかと、不平を言いたくなることがある。さらに災いに遭遇したとき、なぜ私がこんな不遇な目に遭わなければならなかったのかと、神を非難したくなる。しかし、考えてみよう。私たちは十字架で死ぬべき罪人だったのである。そして、その行先はハデスである。そんな者たちがキリストの身代わりによって救われたのである。それはあわれみである。十字架の刑罰のみがふさわしい者たちが、毎日生かされていること自体、あわれみである。一杯の水が飲めること、ご飯一膳食べられることはあわれみである。もし不遇な目に遭っても、自分のふさわしい場は十字架なのだと知って、あなたのみこころのままにとへりくだれるだろう。そして十字架にかけられたキリストを仰ぎ見ることである。キリストは何の罪もないにもかかわらず十字架にかかられた。こんな不合理なことがあるだろうか。しかしキリストは黙して十字架を忍ばれた。私たちの罪の処罰を受けた。私たちはどんな目に遭っても、キリスト以上に不合理な事態に遭遇することはない。キリストが十字架の苦しみという不合理な苦しみを私たちのために忍従してくださったことに、私たちはただ頭を下げなければならない。私たち罪人は、ちょっといやなことがあると、神さまに、なぜ?と文句を言うが、何の罪もないキリストが私たちのために十字架についたことについては、なぜ?と文句を言うのは聞いたことがない。

私たちが神の主権をあわれみとセットで考えるならば、生まれるのは感謝であり、そして未来の行く末に関しては、ただ信頼となるだろう。

最後に、この信頼を大切に生きている二人の信仰者の事例を挙げて終わりたいと思う。二人とも苦難を体験された方である。一人は以前も紹介した方で、G.L.シッツァーである。彼は家族を乗せてミニバンを運転していた時に、酔っ払い運転の車が正面から衝突して来て、この事故で奥さんと、母親と、四人の子どものうちの一人を同時に亡くしてしまった。彼に待っていたのは言葉に言い尽くせない悲しみと苦しみだった。神に対して怒りもぶつけた。後に、落ち着きを取り戻してから、彼は、神の主権についてこう書いている。「あの事故以来、私はこの見方に疑問を投げかけ始めていた(この見方とは、人間は神のあやつり人形で、自由はないというもの)。神の主権についての理解を広げ始めていたので、その神の主権が人間の自由を無効にするというよりもむしろ内包していることが分かった。神の主権を肯定することができる上に、なお、あやつり人形どころか人間であることができると理解するようになった。神の主権についての私の見方はがかつてはあまりに狭すぎた、といまでは信じている。神の主権は、人生のすべてを取り囲んでいる。例えば、それは悲劇的な体験だけではなく、その体験に私たちが応えることも含まれているのである。神の主権は、人間の体験のすべてを包み、より大きな全体へとそれを統合している。だから、人間の自由さえもが神の支配の下にあることになるのである。まるで神が小説家であるかのようである。自分たちがする決断が正真正銘自分たちの決断であると思えるほどあまりにもリアルに登場人物たちを作り出してしまった小説家である。小説家として神は物語の外側に立ち、作者者としてそれを「支配している」。しかし、小説の中の登場人物として人間は行動し、自分自身の運命を決めたりすることは自由である。だから、神の主権は人間の自由を超越し、それを無効にはしない。両方とも現実であり、違った局面で現実であるにすぎない。」

このように述べた彼は、神は支配者として単なる遠い存在ではないことを、次のように述べている。「私が知る神は、苦痛を体験された。それゆえ神は私の苦痛を理解してくださる。神は私の苦しみから遠く離れているのではなく、私が苦しむとき私の近くに寄り添ってくださる。神は、人々の苦しみに敏感で、あわれみ深く、深い悲しみをご存じである。神であるイエスは、この世の悲しみを感じ苦しまれる主権者である」。このようにして彼は神の主権を受け入れている。しかし、彼は神の主権を完全に理解できるとは思っていない。ある時、彼は、あの交通事故の時に、神が事故現場にいたことを悟った。神は愛する三人を天国に迎え入れるためにそこにいたと気づいた。しかし、こうしたことも、深い悲しみを消しはしなかったし、あの事故がなぜ起こったのかという質問の答えにはならなかった。しかしながら、彼は神の主権は祝福であり呪いではないと信じ始めていた。神への畏敬と信頼の精神を彼は持ったのである。

次は、娘の足を病気で切断した牧師の例である。彼はその体験と苦悩を次のように綴っている。「娘は15歳の時、膝の調子が悪いと訴えました。一年半の間医者回りをして、ラボ・テストやスキャンを繰り返しました。発見された腫瘍の生検も徹底的に行われました。・・・とうとう、ある晩、かかりつけの医者が家まで訪ねてきて、胸の張り裂けるような一報を告げたのです。娘のベッキーの腫瘍は悪性で、足を切断しなければならないというものでした」。この方は人生の最も暗黒の時と感じていたようである。人々の元気づけようとしての無知丸出しの説明や軽々しいコメント、そしてみことばの安易な引用は、いらだたせるばかりであった。「手術後何日かして、とあるレストランで一人の人に会いました。彼はテーブルについていましたが、横を通りかかると手を伸ばし、私のコートをつかんでこう言いました。『ジム、こうなることは神がお許しになったと思うんだ。何しろおかげで、教会にリバイバルが起こったんだから』。私はすぐにやり返してしまいました。『じゃあ、このリバイバルが下火になったら、神は次に何をするんだい。今度はベッキーのもう片足を切るのかい。そして腕を一本、そしてもう一本かい。もしこんなことが起きなければリバイバルがないのなら、教会を霊的に生かしておくには、娘のからだ一つでは足りないね』。このように、安っぽい答えで片付けようとすると、実際に生身の人の心を踏みにじってしまいます。・・・この体験の過程で学んだ重要なことは、つまるところ、私には二つに一つの選択肢しかないということです。一つは神に対する怒りをそのまま持ち続け、私がしていたように絶望の路線をまっすぐに走ることです。もう一つは、神を神として『主よ。すべてがどうつながるのか、私にはわかりません。なぜ、こういうことが起こらなければならなかったのかも、理解できません。もう説明すら求めません。あなたは神であられます。私はあなたのしもべであって、その逆ではないという事実を受け入れます』。私はそのように祈りました。・・・選択は、絶望するのか、神の主権を受け入れるのか、二つに一つなのです」。この牧師は旧約聖書のヨブ記のヨブと同じ決断をした。物事の理由はわからなくとも、その理由がわからないままで、神の主権を受け入れ、信頼することができた。

神の主権を信じるときに、偶然の出来事はなくなる。すべては理由のある出来事なのである。しかし私たちは、その理由ある出来事が、どういう理由なのかを知ることはできない。一部は後に知るということもあるだろうが、多くはわからない。そのような中で、私たちにできることは、主権者である神を信頼して歩むことなのである。表面的には神のあわれみを覚えることができなくとも、神を神とするのである。その時に、神の主権は祝福であって呪いではないと知るようになるだろう。神などいないと、自分が神であるかのようにふるまっている人は、神の主権を侮ってはならない。神の力強い御手の下にへりくだらなければならない。