昔、「愛国心」ということがキリスト教界でも何度か話題に上ったことを思い出す。あるキリスト者は、愛国心は必要ない、と言った。おそらく、戦時下の愛国心が念頭にあったのだと思う。「お国のために」という戦争言葉がよく使われたわけである。「お国のために」は、真に「国民のために」であれば愛国心は正当化されるだろう。しかしながら、愛国心は誤解を招きかねない表現であることはまちがいないので、今日のタイトルは、あえて「同胞愛」とさせていただいた。

私たちキリスト者は二重国籍をもっている。私たち日本人であれば、国籍は日本と天の御国である。私たちは御国の民であることを誇るとともに、真の意味で日本を愛する責任がある。今朝はそうしたことを考えてみたい。

1節を読んでみよう。「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります」。パウロは、「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています」と、これから述べることは、みじんも偽りのない真実だと、自分のユダヤ人に対する思いを告げようとしている。それは同胞愛である。このように誓いにも似たことばで始めているのは、パウロは同胞のことをどれだけ真剣に考えているのだ?と疑いを持たれていたからだろう。パウロはユダヤ人だった。しかし異邦人への使徒として働いていた。同胞のユダヤ人たちと対立することもしばしあった。「パウロは自分がユダヤ人でありながら、ユダヤ人を省みず、時にはユダヤ人を非難し、異邦人のために一生懸命働いている。一体何なんだ」という非難が、ユダヤ人から、またユダヤ人キリスト者からあっただろう。誤解があったということは疑いえない。私たちの場合、日本人だったら神道だろう、仏教でしょう、と言って、私たちの主張やふるまいが非難されることがある。

ではパウロの心中を探ってみよう。「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります」(2節)。これまでパウロは、どちらかと言うと喜びを強調してきた。「神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます」(5章2,3節)。パウロは第一テサロニケ5章16節では「いつも喜んでいなさい」と命じている。だがここで、大きな悲しみがあることを告白している。そして、いつも喜んでいる、ではなく、「絶えず痛みがあります」と絶えず痛みがあることを告白している。いつも喜んでいると同時に、絶えず痛みがある。これはおかしなことではない。

パウロが先に「患難さえも喜びます」と言ったとき、それは信仰から来る喜びであったわけである。ほめられて嬉しい、成功して嬉しい、お腹いっぱい食べることができて嬉しいといった、誰でも喜ぶ喜びのことが言われていたわけではない。苦しいことも神は益と変えてくださる、私たちには栄光に与る望みがある、そのように信じることから来る喜びである。いつも喜ぶことができるのも、神がすべてのことを益と変えてくださると、神を信頼してのことである。ここでの悲しみ痛みも、誰でも持つ悲しみ痛みではなくて、キリスト者ならではのものである。

まず原語を見ると、「大きな悲しみ」とは、心の悲しみを指すことばである。「絶えず痛みがあります」の「痛み」とは、心身を貫くような苦痛である。どうしてこのような悲しみ痛みがあるのだろうか。それはキリストにある同胞愛から来ている。そのことを次節以降で見ていきたいが、同胞のユダヤ人の多くがキリストを信じず神に敵対していて救いに与っていない、ということが悲しみを引き起こしていることは疑いえない。パウロは自分だけ救われればいいとか思っていないし、神に敵対するユダヤ人たちを冷めた目で見ていたのではない。断腸の思いで見ていた。

ある西洋人と東洋の賢人の会話が心に留まった。西洋人がこう質問した。「あなたは幸せですか」。これに答えている間、涙が賢人の頬を伝い落ちた。「いや、幸せではない。純人間的な見方からすれば、わたしのような人間は胸が張り裂けるほど孤独になることが多いものだ。わたしは人々を愛しているが、それでも彼らにしてあげられることがいかに小さいかがわかるのだ。深い悲しみがここにある。全世界が幸せになるまでわたしは幸せになれないのだ。その目標に達するまでには長い苦難が、限りなく長い苦難が前途に横たわっているのだよ」。「全世界が幸せになるまでわたしは幸せになれないのだ」、このような世界観というか幸せ観はパウロももっていたはずである。そしてパウロは、人の幸せの秘訣を誰よりも知っていた。パウロは、当時、世界の西の果てと言われていたスペインまで福音を携えようとしていたが、パウロにとって全世界の人が幸せになってもらうために、最も大切だったことは、キリストを知り、信じてもらうことであった。それは同胞のユダヤ人に対してもそうであった。

「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです」(3節)。キリストを信じる信仰を強調してきた彼が「キリストから引き離され」ることを願うとは、不信仰に陥ったのか?そうではない。また、自分が「のろわれる者となることさえ願いたい」と、自虐的な発言とも受け取れるが、自暴自棄に陥ったのか?そうではない。「のろわれる者」とは、この文脈からわかるように、キリストから引き離された者のことを言う。原語<アナセマ>だが、もとは「供え物」の意味で、それは、神が忌み嫌い拒む供え物で、のろわれて滅ぼされるべき供え物を意味した。しかしここでは、民の身代わりにのろわれた者となることを願う精神を見て取ることができる。

出エジプト記32章30~32節のモーセの祈りを読んでみよう。ここは、神とイスラエル人との間に立った、モーセのとりなしの祈りである。彼らが贖われるためならば、「あなたがお書きになった書物から、私の名を消し去ってください。それでもいいです」と、自分自身を贖いの供え物として差し出す祈りである。民が救われるためならば、自分はのろわれる者となっても構いませんという祈りである。ガラテヤ人の手紙3章13節でパウロは言っている。「キリストは私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれた者である』と書いてあるからです」。キリストはご自身を十字架の祭壇にささげ、私たちのためにのろわれた者となってくださった。パウロは、モーセと同じ精神で、またキリストと一つになって、彼らの救いを願っている。そこにあるのは同胞に対する自己犠牲的愛である。一人でも滅んでほしくないと、そのためには自分はどうなっても構わないと、キリストにある愛である。

誰でも民族愛を持っている。たとえばオリンピックで自国の選手が出場すれば、自国の選手を応援するのは自然だろう。自国の食文化を愛するにもふつうである。他国に住んでいても祖国の安全と平和を願うだろう。それはふつうの感情である。パウロの場合、それプラスアルファである。同胞の罪からの救いを願っている。

「彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。父祖たちも彼らのものです」(4節,5節a)。パウロは民族的誇りといったものを挙げていく。「彼らはイスラエル人です」~「イスラエル人」という名称を意識して使用しているが、歴史的には、大雑把に分けて、バビロン捕囚までが「イスラエル人」と呼び、捕囚以後は「ユダヤ人」と呼ぶ。しかし、ここではあえて「イスラエル人」という名称を選択している。それには理由があるだろう。「イスラエル人」とは民族の自然的名称ではなく、神に選ばれた契約の民ということを意味する尊称である。「子とされることも」~契約の民であるということは子(養子)であるということでもある。「栄光も」~神は幕屋や神殿で、民に対してご自身の栄光を現わし続けた。「契約も」~原文は複数形となっている。神は、ノア、アブラハム、モーセを代表とするイスラエル、ダビデなど、度々契約を結ばれた。「律法を与えられることも」~これはモーセがシナイ山で律法を与えられたことを指す。律法はイスラエル人に啓示された神の法である。「礼拝も」~イスラエル人は神の啓示に応答して、荒野で、天幕で、神殿で神を礼拝し続けてきた。それは選びの民の証である。「約束も彼らのものです」~「約束」は原文で複数形である。旧約聖書には神の約束で満ちている。それはメシア預言の成就という救いの約束が中心である。「父祖たちも彼らのものです」~「父祖たち」とは、アブラハム、イサク、ヤコブのことである。ダビデもそれに加えることができるかもしれない。こうした先祖たちを持っていることはイスラエル人の誇りだった。

誇れるものがあることは素晴らしい。ただ、だからといって、それだけであるなら空しい。6節において「イスラエルから出るものがみなイスラエルなのではなく」とあるように、イスラエル人がみな真のイスラエル、すなわち神の民となるのではない。7節において「アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく」とあるように、血肉の子孫がみなアブラハムの霊的子孫、すなわち神の子どもとなるのではない。バプテスマのヨハネも、「『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神はこの石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです」(マタイ3章9節)と警告している。律法に関しては、パウロは先に、「律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか」(2章23節)と忠告している。

パウロは誇れる事実として、「またキリストも、人としては彼らから出られたのです」(5節b)と語る。キリストは、肉においてはアブラハムの子孫、ダビデの家系から生まれたユダヤ人である。このように、ユダヤ人には宗教的には誇れる要素がたくさんある。しかしながら、キリストを信じないのならば意味をなさない。27節にあるように、「たといイスラエルの子どもたちの数は、海辺の砂のようであっても、救われるのは残された者である」と、自分がイスラエル人というだけで、また約束されていたメシアが同じイスラエル人であっても、キリストに対する信仰を働かせなければ救いに与ることはできない。

私たち日本人も誇れるものはたくさんある。伝統文化、モノ作り、礼節、キレイ好きなところ、四季の美しさ等々。だが、日本人は何を信じ、何を拝んでいるのだろうか。ユダヤ人は神は唯一という神観をもっている。日本人はそれすらない。信教の自由が認められ、繰り返し宣教は行われていても、キリストを信じる人の少なさゆえに、世界の中で未伝地扱いにされてしまっている。

パウロは自分がいのちをかけて伝えているキリストをこう紹介している。「このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン」(5節c)。キリストが神として紹介されている。実は、この個所は新約聖書の中でも解釈が難しい箇所として知られている(別訳:欄外註参照)。しかしながら、この新改訳の翻訳が自然でふさわしい訳であると思う。つまり、キリストを神として明示することである。キリストを神と述べている箇所は他にもある。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(ヨハネ1章1節)。「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れ・・・」(テトス2章13節)。新約聖書において、キリストを「神」ではなく「御子」と称する場合が多いが、5節であえて「神」と称する理由について、次のような説明がある。「パウロがなぜここで『神の子』ではなく『神』と語ったのかといえば、一つは直前でイスラエルもまた神の「子(=養子)」(4節)と言われたからでしょう。さらに、万物を越えていく圧倒的なキリストの愛の力が述べられた八章の直後では、『神の子』という称号はキリストを余りにも矮小化するように感じられたからなのかもしれません。実際、そのようにキリストを矮小化して誤解したことに、ユダヤ人の問題はあったからです」(吉田隆氏)。キリストを矮小化する、すなわち小さくしてしまう危険というのは、いつの時代も、どの民族でも起こりえることである。それは救いから遠ざかってしまうことである。救いはキリストを信じる信仰によるが、そのキリストを矮小化することは許されない。キリストを霊的進化を遂げた神々の一人というキリスト観もあるし、キリストを小さい神とする異端もある。パウロは、キリストを単に神的な方とみなしてほしくないし、キリストから神としての属性の一つでも奪ってほしくないだろう。キリストは天においても地においてもいっさいの権威を持つ、万物の上におられる主なる神なのである。同胞の救いを願っているパウロは、救いはキリストを信じる信仰以外にはないと確信しているので、キリストを神としてふさわしく高め、あがめている。「キリストは万物の上にいます神である。彼はとこしえにほむべきかな」(私訳)。

私たちもパウロと同じくキリストを賛美する精神で、同胞のために苦悶していきたい。単なる祖国愛、民族愛で終わらない同胞愛を、私たちはキリストにありて持てるはずである。いや、持たなければならない。滅びに向かっている同胞に対して何もせずにいるわけにはいかない。

最後に、「中国奥地伝道団」の創立者、ハドソン・テーラーのメッセージを一部紹介したい。テーラーは1865年9月、スコットランドのキリスト教の大会で、満場の聴衆を前に演説する機会が与えられた。彼はその時、上海から寧波に行く船旅で起こったハプニングの話をした。連れの若者が足を踏み外して海に落ちたと知った。彼は衣服を脱いで海に飛び込んで捜したが見つからなかった。船に戻ると、近くで網を打っている漁船に救助を頼んだ。「網をこのあたりにすぐ打ってください。人が沈んでいます。」「今、手が離せないからだめだ。」「人がおぼれているのです。すぐやってください。」「今は無理だ。」「あなたがたが獲る魚代は僕が払います。すぐ網を打ってください。」「いくら払うのか。」「そんな交渉をしている時間はない。五元だ。」「少ない。二十元ならやってもいい。」「そんなお金は持っていない。人の命がかかっているんだ。僕が今持っている金を全部払おう。」「いくらある?」「だいたい十四元くらいだ。」

「それで彼らは魚の網を打ち、沈んでいた若者を船に引き揚げました。私は彼を必死で人工呼吸しましたが、時間が経ちすぎていたので、彼は回復しませんでした。私は漁夫に、君たちの行為でこの若者を殺してしまった。もうお金は払わないよと言うと、彼らはブツブツ文句を言いながら去っていきました」。ここまで話してテーラーは静かに会場を見渡した。怒りの感情を表している人、驚きあきれたという表情の人たちがじっと視線をテーラーに集中していた。テーラーはことばを継いだ。「肉体はたましいより尊いでしょうか。われわれは今この漁夫を非難しています。たしかに彼らは地獄に落ちてもいい罪人です。すぐに助けられる網を持っていたにもかかわらず助けなかった。ひるがえって思うに、今中国の何億という人たちが救われずに暗黒の海に沈んでいます。今後何年も何年もです」。テーラーはこの後、中国の宣教の現状を報告した後、最後に、こう締めくくった。「先ほどの漁夫はおぼれる人を救える網を持っていたにもかかわらず見殺しにしました。私たちはこれと同じではないでしょうか。福音を伝える力があるにもかかわらずです」。テーラーはこう締めくくって、宣教師募集のアピールをした。

今、お伝えしたのは海外宣教のお話だが、国内でも同じく、福音を必要としている同胞がいる。真の意味で同胞愛を発揮する私たちでありたいと思う。