ローマ人への手紙のテーマは一言で述べると「福音」であることをお話した。福音とは、キリストを信じる者に救いが与えられるというグッドニュースである。今日の区分は福音のクライマックスとも言える箇所で、パウロは、キリストを信じている者はどんなことがあっても必ず救われる、救いの完成に至るのだということを、気持ちを高揚させながら、一気に昇りつめるような調子で話している。

「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(31節)。怒涛のように何が襲いかかってきても、神にあって勝利者となれるというイメージをもつ。31節は、「では、これらのことからどう言えるのでしょう」で始まっているが、「これらのことから」というのは直接的には28~30節のことであろう。28節は、神のご計画が意識されていて、神のご計画に従って召された人たちのためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださり、29節にあるように、あらかじめ定められていた御子のかたちと同じ姿に、すなわちキリストと同じ栄光の姿に変えてくださるということだった。神のご計画の確かさは30節でも繰り返され、救いに予定されていた人たちは、召しだされ、義と認められ、栄光を受けるのだと言われている。30節では「栄光をお与えになりました」と過去形で表現されているが、義と認められた人々は未来に栄光を与えられることは確実なので、すでに、そのことが実現したかのような書き方をしている。神はご計画どおりに、私たちに栄光を与えてくださる。それを妨げることができるものは何もないのである。

パウロのこの事実から、信念をもって、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」と話し始める。詩篇にも同じような表現がある。「主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう」(詩篇118編6節)。漢字の「味方」の語源を調べると、これは当て字で、「ミカタ」とは、もともと天皇の側を意味することばであったようである。そこから天皇の軍勢の加勢があるといった意味となり、今日に至っているようである。私たちの場合、神が味方である。心強いことではないだろうか。しかし、「味方」と聞いて、私たちが正しくても間違っていても、神はいつでも私の肩を持ってくださる、私の願いは全部受け入れて下さると勘違いする人はいないと思うが、そういうことではない。また、味方なのだから、災いも病も障害も全く遭わないようにしてくださる、ということではない。神が私たちの味方であるというのは、神が私たち、神の子どもの側について、どのようなことが襲いかかろうとも、最後まで信仰の旅路を守り、すべてのことを益と変えて、栄光に至らしめてくださるということである。救いの完成に至らしめてくださるということである。

神が私たちの味方であるならば、救いの完成に至るまで必要なものもすべて恵んでくださる。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(32節)。この個所は私が大学生の時、信仰を持ったばかりの頃、信仰に生活に不安を抱く私に対して、友人が教えてくれた箇所である。たいへん励ましとなった。前半で、神が私たちすべてのためにしてくださったことが、ご自分の御子を惜しまずに死に渡されたことであると言われている。「死に渡された」とはあの十字架での出来事だった。「死に渡された」とは、罪の宣告によって死刑執行に渡すという意味を含んでいる。ここが大切である。神は御子イエス・キリストを私たちの罪のために死刑執行に渡された。しかも、「惜しまずに」である。神は私たち罪人のために、惜しまずに愛する御子を身代わりとして死に渡してくださった。旧約時代、神にささげるいけにえは、傷のないものでなければならないと定められていた。罪のためのいけにえもそうである。しかし人の側で、それをささげるのはもったいないと惜しんで、足のなえたものや病気のものをささげていた事実がある。しかし父なる神は、私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに十字架の死にまで引き渡された。「ご自分の御子をさえ惜しまずに」という事実に神の偉大な愛を覚える。パウロは、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡されたのならば、神は出し惜しみすることなく、御子といっしょにすべてのものを恵んでくださらないことがありましょうかと語りかける。恵んでくださる「すべてのもの」とは、神の子どもたちが救いの完成に至るまでに必要な助け、配剤、霊的力、形あるものないものを含む一切合切、文字通りすべてのものが入るだろう。私たちは、このみことばを体験して生きていくことができる。

さて、31節で、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」と、信仰者の勝利を主張したパウロであったが、さらに、33節以降で、三つの問いを連ねて、いわば連射するようにし、信仰者の勝利を謳うのである。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか」(33節)。「罪に定めようとするのはだれですか」(34節)。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか」(35節)。では三つの問いを順番に見ていこう。

一つ目は、神に選ばれた人々を訴えるはだれですか(33節前半)。訴えると聞いて、最初に思い浮かぶのがサタンである。「サタン」の意味は「訴える者」である。サタンは黙示録12章10節において、「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」と言われている。ヨブ記1章を見ると、サタンは地を行き巡る者とされ、神によって「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが」と言われていたヨブをも、神の前に訴えようと試みている。神はヨブを擁護してくださった。神が私たちをどのように擁護してくださるかは33節後半に記されている。「神が義と認めてくださるのです」。なぜなら、私たちには、キリストを信じる信仰によって、恵みの賜物として、キリストの義が与えられているからである。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(第二コリント5章21節)。ゼカリヤ書3章では、よごれた服を着ていた大祭司ヨシュアをサタンが訴えようとしたことが記されている。ヨシュアは、よごれた服を脱がされ、礼服をまとわされる。その際、御使いにこう宣告される。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう」(ゼカリヤ3章4節)。これは、サタンの訴えを却下するためである。礼服をまとうというのは、キリストの義をまとうことを思い起こさせる。「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」(ガラテヤ3章27節)。神はこの衣をまとわせてくださった。訴えてくる存在は私たちの惰弱さを良く知っている人間かもしれない。私たちの過去に犯した罪を指摘し、なんでお前に救いが与えられるんだと非難してくるかもしれない。だが、キリストが私たちの義となってくださるのである。

二つ目は、罪に定めようとするのはだれですか(34節前半)。「罪に定める」と聞いて、8章1節の「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」を思い出していただけたなら幸いである。「罪に定められる」とは罪の宣告を受けることとともに死刑の宣告を含むことばであることをお話してあった。死刑判決の宣告である。私たちは本来、死罪に定められ、死刑判決を受けて、死の処罰を受ける身であった。しかし、キリストは身代わりに十字架についてくださり、私たちの罪をすべて清算してくださった。ご自身のいのちで償ってくださった。死刑執行はキリストが受けてくださった。34節後半を見ると、そのお方がよみがえって、「神の右の座に着いて、私たちのためにとりなししていてくださる」という。私たちは救われたといえども、なお罪人なので、この地上で生きている限り、罪を犯す可能性は消えない。使徒ヨハネもこれを知って、こう書いている。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです」(第一ヨハネ2章1節)。キリストが天の御座でとりなしをしてくださるというのは、言い方を変えると、弁護人を務めてくださるということである。「私はこの者を弁護します。この者は死罪をまぬがれない罪人であることを認めますが、私はこの者の罪のために十字架で処罰を受け、血を流しました。ですから、この者の罪は赦されます」と弁護してくださる。刑法で死刑判決を言い渡されて死刑に処せられた二人の強盗がいた。ルカの福音書23章にその記述がある。強盗のうちの一人は十字架上で回心し、キリストから、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と宣言を受けた(ルカ23章43節)。この犯罪人のように、私たちの罪はキリストのとりなしのゆえに赦されるのである。

三つ目は、私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか(35節前半)。キリストの愛、キリストにある神の愛は強力なのである。それは絶大な力で、とてつもなく強力なので、この愛に立ち向かえるものは何もない。何ものも、この愛から私たちを引き離せない。それくらい強力なのである、神は永遠の愛をもって私たちを愛し、天地創造以前に私たちをキリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めてくださり、キリストの十字架の贖いによって私たちを召し出し、義と認めてくださった。そして神の子としての栄光を受けるまで、ご計画通りすべてのものから守ってくださる。ここでは「キリストの愛」と言われているが、十字架において私たちを命がけで救おうとしてくださったキリストは、途中、何があっても私たちを見放したりはしない。決して私たちから手を離したりはしない。これがキリストの愛である。第二コリント5章14節ではこう言われている。「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです」。この愛は強力な防壁である。パウロは私たちをキリストの愛から引き離そうとするものの実例を、35節以降たくさん挙げていく。「患難」(新改訳2017「苦難」)とはプレッシャーを感じる逆境のことである。「苦しみ」(新改訳2017「苦悩」)とは、狭いところに閉じ込められるという概念があり、四面楚歌の状況に追い込まれることである。八方塞がりとも言えよう。そこから来る内面的な苦しみである。「迫害」とはキリストを信じる信仰のゆえに受ける害である。「飢え」とは、ききんの結果というよりも、迫害の結果、起こることだろう。仕事がもらえなくなって食べ物が買えなかったり、食べ物がもらえなくなったり。「裸」とは、まともに着るものがないという貧しい状態を意味している。「危険」とは、暴行とか虐待とか、危険一般を表している。「剣」は、より大きな危険を意味していて、それは死のシンボルである。軍隊の剣というよりも、刺客を向けられるような危険である。36節のカッコ内のことばは詩篇44編22節のギリシャ語70人訳からの引用で、死と隣り合わせの描写となっている。殉教の死を予感させるような描写である。

私たちはどのような種類の苦しみであっても、それらに打ち負かされて、神の子の身分を失い、栄光を手にしないで終わるということはない。37節は心の目を引く宣言である。「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」。この「圧倒的な勝利者となる」というのは、すごい表現である。負けない、というだけではない。単に勝つということでもない。直訳すると「勝利者以上である」。文語訳は味のある訳となっている。「勝ち得て余りあり」。余りが生まれてしまうほどの勝利。勝利者以上。灰にまみれ、いじめられていた女性が王妃となる物語、灰かぶり姫(シンデレラ)の物語があるが、それと同じように、パウロは信仰の大逆転劇を表現している。私たちは様々な苦しみを経験した後に、やがて、キリストの栄光に与るのである。パウロはこの日を思い見て、「圧倒的な勝利者となる」「勝ち得て余りあり」と言っている。

パウロは最後に、「私はこう確信しています」と述べ、たたみかける。「死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(38,39節)。パウロは、どのような苦しみも、キリストの愛から私たちを引き離せないことを述べた後に、最後は、あらゆる存在がキリスト・イエスにある神の愛から引き離すことはできないことを述べる。

初めに「死」が挙げられている。36節までの流れを意識したのだろうか。雅歌8章6節に「愛は死のように強く」とあるが、愛は死よりも強いのである。「いのち」とは、私たちがこのからだをもって生きている間に経験するすべてが入るだろう。「御使い」は天使一般を指す。「権威ある者」とは、堕天使を指すものと思われる。「今あるもの、後に来るもの」とは、時間軸で存在するものすべて。「力ある者」とは、超自然的な力を行使できる者であると思われる。「高さも、深さも」とは、天高く輝く星や、正反対の地下にある未知の存在とも解釈できるが、天上界、地下界といった、そこに住む霊的な存在を言わんとしているのかもしれない。そして「そのほかのどんな被造物も」、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできない。

この絶大な力をもつキリストの愛、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛を、パウロが感じているように私たちも感じたい。そうでないと、つらい日々を送っている時、神は私の味方なのか、敵なのか、どちらだ?となったり、神は私に無関心なのか?となったりしてしまう。神の愛を確信する窓は、やはり十字架である。37節で、「私たちを愛してくださった方によって」と、神が私たちを愛してくださった事実が言われているが、それは歴史上で示された十字架の愛である。もし、この十字架に神の愛を見ることができないならば、人生は灰色である。モノトーンのイメージになるだろう。神は味方と感じることができなくなるだろう。しかし、十字架に神の愛をしっかり見てとれるならば、日常の一つ一つの出来事の中にさえ、神の愛を感じ取ることができるだろう。たとい貧しくとも、一日一日を満ち足りた気持ちで歩み、神に感謝し、賛美を捧げ、平安をもって床に就けるだろう。苦しみをも益と変えられることを信じていける。

21世紀は激動の時代になりそうである。私は全世界各地で主にある兄弟姉妹が苦難に遭っていることを聞くたびに、今日の箇所を思い起こす。「私たちはキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか。苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、剣ですか・・・しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべての中にあっても圧倒的な勝利者となるのです。」(35,37節)。もちろん、苦難などに遭わないことに越したことはない。しかしパウロは、あなたがたが苦難などに遭わないように願っているといった書き方ではなく、苦難があるということを前提とした世界で、福音を信じ、神の愛を信じて生きるように呼びかけている。神は私たちの味方であり、圧倒的な勝利者となることができる、それは真実なのである。ため息が出るような毎日と思う時にこそ、神の愛に心を向ける私たちでありたい。