今日は、神の子どもとされていることを先週に引き続いて喜びたいと思う。パウロは神の子どもの特権を話す前に、7章において、みじめな罪人の姿を描いていた。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(7章24節)。ところがパウロは8章において、そのようなみじめな罪人が、神の子どもとして、神の御霊、キリストの御霊の働きによって、やがて栄光の姿に変えられることを説いていく。パウロは栄光ということば繰り返し使用している。「キリストと、栄光をともに受けるために」(17節)。「将来私たちに啓示されようとしている栄光」(18節)。「神の子どもたちの栄光」(21節)。それを23節では「私たちのからだの贖われること」と表現した。この場合のからだとは物理的な肉体に限定すべきではなくて、私という全体のことが言われている。つまりここでは、全人格的な変化が言われている。ピリピ3章21節では、「キリストは、万物を御自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです」と言われている。つまり、神の子どもたちの栄光とは、キリストの姿と同じ姿に変えられることと言えるのである。それは、本日の箇所の29節において、「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿に定められたからです」からも言えることである。さなぎは蝶になるように定められている。それと同じである。今の私たちは幼虫なのかさなぎかわからないが、やがて栄光の姿に変えられる。

さて栄光の姿に変えられるまで、私たちは地上で様々なところを通らせられる。パウロはそれを意識して、28節を語る。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを(「すべてのことがともに働いて益となることを」新改訳2017 欄外註参照)、私たちは知っています」。有名なみことばであるが、この意味を前後の文脈から考えてみなければならない。心に留めたいことは「益」の中身である。多くの信仰者は「益」の中身を漠然としか捕えていないのではないだろうか。災い転じて福となす、といった程度の受け止めであれば、この世と何ら変わりがない。益の中身は先に述べた「御子のかたちと同じ姿に定められたからです」が暗示している。「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」というのは、神さまは、私たちがキリストに似た者となるために、すべてのことを用いてくださるということである。「すべてのこと」には、自分の失敗やドジも入る。パウロは先の18節では「今の時のいろいろの苦しみは」と言っているが、そうした苦しみも念頭にあることはまちがいない。28節の冒頭で「神を愛する人々」と言われているが、神を愛していても苦しみはやって来る。でもそれは無為な苦しみとはならない。「神のご計画に従って召された人々のためには」と言われているが、神のご意志と目的に従って召されているわけだから、一見、ただの災いにしか思えないようなことであっても、神のご支配と導きの中で、それは益と変えられる。

旧約時代の事例では、ヨブが挙げられる。彼は災害に遭い、難病を患い、友人たちからは寄ってたかって非難を浴びせられたが、この苦難は彼を神に近づかせ、彼は本当の意味で神を知る者と変えられることになる。「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました」(ヨブ42章5節)と告白している。すべては益と変えられた。新約時代は、神を知り、神に似せられるという表現に加え、キリストに似せられるという表現が加えられる。神はしばらくの苦しみの後に、その苦しみをも益と変え、キリストの栄光に与らせてくださる。キリストの姿に似た者としてくださる。私たちはその過程に置かれている。

その事例を一つご紹介しよう。G.L.シッツアーという人が「愛する人を失うとき」という本を書いた。彼はミニバンを運転していた時、反対車線に飛び出してきた酔っ払いが運転していた車と正面衝突する。そしてミニバンに同乗していた6人家族のうち、奥さんと、母親と、四人の子どものうちの一人を一瞬にして失う。「その時、私は妻のリンダと、四歳の娘ダイアナ・ジェーンと、母グレースの意識のない折れ曲がったからだを見た。キャサリン(当時八歳)、ディヴィット(七歳)、それにジョン(二歳)をミニバンの一つだけ開いたドアから外に出したのを覚えている。脈を取り、口からの蘇生術を施してから、死んでいる者を運び出し、生きている者を落ち着かせようとしたのを覚えている。・・・目の前でみんな死んでいるのを見たとき、私のたましいを揺さぶった狼狽する感情を覚えている。それに続く地獄を覚えている。人々はぼかんと見とれていた。救急車のライトがピカピカ光っている。・・・」。彼は暗黒の迷路に迷い込んだ者のようになり、喪失と怒りと孤独と混沌とした闇の中でもがき続けた。「私は苦しみ、調整しなければならないことを悟った。苦しみを避けることも、そこから逃げ出すこともできなかった。出口はなく、ただ前方に地獄があるだけだった」。彼の精神的格闘は大変なものであった。神にも怒りをぶつけた。人々の通り一遍の慰めのことばは空しく響いた。神経衰弱となり、鬱となった。彼は、自分は何に頼っていたのかと考えさせられることになる。自分は健やかな健康や幸せな家庭や意味のある仕事や親密な友情や好ましい環境に頼っていたという気づきが与えられることになる。彼はこうも述べている。「喪失によって、その環境が奪われるとき、私たちの怒りや憂鬱や忘恩が、私たちの魂の状態をあばき出し、実際いかに私たちがちっぽけな存在であるか示してくれる」。そして彼は、本の半ばでこう述べている。「私はあの事故以前、何年もクリスチャンであったという事実にもかかわらず、あの時から神は以前と違って、私には生きた現実となっていた。私の神への確信はともかく以前より静かだが、以前より力強いのである。私は、神に自分自身を認めさせたり、私自身を神に証明してもらおうとする緊迫感をほとんど感じない。しかし、私は全身全霊を込めて神に仕えたいのである。私の人生は、たとえ私が喪失の苦痛を感じ続けるとしても、恵みの深さにあふれている。恵みが私を造り変えている」。彼は神の恵みを肌で感じ、神の恵みを心の底から感じることができる人となった。彼はこう述べているが、すべてが解決して、すべてがハッピーになったという単純なことは述べてはいない。喪失の悲しみは消えない。寂しさを表すことばが家の中を飛び交っていることを記す。彼は終わりの章でこう述べている。「私はまだ『回復して』いないのである。私は、いまでも私の人生が違っていたらと願い、三人が生きていればと願う。しかし、私は変わり、成長している」。これは生々しい苦難の証人の告白である。敬意を払いたい。

もう一人、ご紹介しよう。オーストリアの認知症患者で、クリスティーン・ブライアントという女性である。彼女は認知症になってから世界各地で講演活動を行い、2003年には日本でも講演活動をされた。NHKでも報道され、BSドキュメンタリー番組でも紹介された。本も二冊執筆。このような活動から認知症初期かと思いきや、その時点で中程度の認知症で、脳にかなりの損傷が見られたという。アルツハイマーである。彼女は認知症になって、自分が壊れていくように感じた。自己の喪失の危機を感じた。そのような中で、本当の自分は神とのつながりの中にあるという確信を持った。彼女は正真正銘のクリスチャンである。「自分が何を言うか、何をするかが私なのではなく、私はただ私なのだ」。「私はこの病を持っているけれども、無条件の神の愛によって受け入れられているので、嘆いたり、自己憐憫になったりする必要はない。神のかたちに造られたひとりの人間として神に受け入れられ、愛されている。神にあって尊厳のある自己である」。さらに彼女は、「私は私になっていく」と悟れた。「私は私になっていく」は二冊目の本の題名である。自分が壊れていく?いや、本当の私になっていくということである。パウロは言う。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きなのです」(第二コリント3章18節)。彼女はこれを理解していたということである。彼女は自分の病をプレゼントだとまで言っている。そしてその病を隣人を愛するために役立てようと決めた。彼女は、私はこんなになっちゃったんだから何かをしてよ、と人生から何かを欲しがる生き方ではなくて、与える生き方をしていかなければだめだと言う。今の状態を隣人につなげて、創造主を愛し、隣人を愛して生きていくことこそ、私の生き方であると明言する。自己憐憫に浸り、失われた機能を嘆くだけになりやすいわけだが、残っている機能をせいいっぱい神と人のためにささげる生き方を選択した。

29節は、理由を示す接続詞「なぜなら」ではじまっているが、なぜすべてのことが益と変えられるのか、その理由が述べられている。「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです」。「あらかじめ知っておられる」ということにおいて神の予知が言われ、「御子のかたちと同じ姿に定められた」ということにおいて、神の予定が言われている。神の予定とは、神があらかじめ(予め)定められたということである。この場合は、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたということ。だから神はすべてのことを働かせて、御子と同じかたちに姿を変えようとされるのである。このようにして、神の子どもたちの長子である御子の栄光の中に私たちも引き入れられるのである。

最後の30節に目を移そう。「神はあらかじめ定められた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました」。ここで、予定、召命、義認、栄光といったことが言われている。最初に、「神はあらかじめ定められた人々をさらに召し」と、予定と召命について言われているが、「あらかじめ定められた」で思い起こすみことばがある。「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼(キリスト)にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようとあらかじめ定めておられました」(エペソ1章4,5節)。私たちは世界の基の置かれる前、すなわち天地創造以前に、神の子となるべく選ばれていたということになる。エレミヤが預言者として召される場面では、主のことばとして、「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り」とある。私たちが神の子として召されたというのは、偶発的なことではなかった。天地創造以前からの神のご計画であった。そして召され、キリストを信じる信仰によって義と認められた。義と認められた者は、現在、キリスト教用語で言うと、「聖化」の過程にあり、栄光を待ち望む者とされている。栄光というのはクリスチャンにとって救いの完成を意味し、「栄化」と表現されることもあるが、未来に属するものである。にもかかわらず、ここでは過去形で「栄光をお与えになりました」と表現されている。それで、どういうことなのかと、一瞬戸惑う。「あらかじめ定められた神のご計画である以上、すでに実現したこととしてパウロは述べるのです」(吉田隆氏)。その通りである。栄光を受ける、それは確実な出来事なのである。だから先取りした表現となっている。プロのスポーツ選手のことを考えてみよう。「ものになると思ってスカウトしたけれども、実際ものになる確率は十分の一。あとは本人の努力次第。栄冠を受けられる保証はできない。それどころか、場合によっては数年先にでも解雇だ」。私たちは、このような何の保証もない、誰も確実なことが言えない、本人の努力にすべてがかかっているかのような、行先不透明な世界を生きていくのではない。神のご計画は人知を超えていて、人間にはよくわからないところがあるが、私たちのために立てられた神のご計画は確かであるので、私たちは安心して神の子どもとして生きていける。神に予知できないことなどないし、御霊の導きという助けも備えてくださっている。必要な恵みはすべて備えてくださる。だから、15節で学んだように、私たちは御霊によって、「アバ、父よ」と呼びながら、全き信頼をもって信仰生活を送っていくことができる。それはただただ恵み以外の何ものでもないのである。

これから私たちに何が待ち受けているだろうか。不必要な心配は捨てよう。私たちは神の子どもである。父なる神の確かなご計画、すべてのことを益と変えてくださる恵みを信じ続けよう。