今日はごいっしょに、祈りを一つのキーワードにして、先週に引き続いて、御霊に導かれることをお話したい。パウロは8章に入り、肉の思い、肉の行いに打ち勝つ秘訣として、御霊に導かれることを教えてきた。パウロは14節で、御霊に導かれることは神の子どもの特権であることを語った。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」。先週はそこまで学んだ。

今日の区分でも、パウロは御霊についてたくさん言及しているが、「神の子ども」ということに重点を置いて語っていることがわかる。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます」(15節)。まず奴隷の言及があるが、奴隷はおどおどしながら主人に仕えなければならない。奴隷は物であって人格を認められていなかった。奴隷を殺しても物を処分したということで殺人には問われなかった。奴隷は叱責や罰を恐れて、恐怖心から仕えざるを得なかった。横暴な主人には恐怖心とともに憎しみをも抱かざるを得なかっただろう。私たちは神に対して、そのような恐怖心を抱きながら仕えるのだろうか。鞭を恐れる奴隷のように。

パウロは、私たちのことを「子としてくださる御霊を受けたのです」と語る。「子としてくださる」という言い回しは、養子縁組を意味する言い回しである。当時の社会は、奴隷というのもありふれた身分であったが、養子になるというのもありふれたことであった。私たちは神の養子とされたということである。養子というのは、法律上、子である身分が保証されるということだが、しかし私たちの場合、そこにとどまらず、実子と変わらない愛情関係をもって、父親である神に相対することができるということである。

「私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます」。「アバ」はアラム語で、幼児が父親を呼ぶときに使う片言のことばである。「アバ」は「おとうちゃん、パパ」に近い呼び方で、親しい父と子の関係を表している。打ち解けた親しい間柄でだけ使うことばである。愛と親しみを込めた呼び名である。ユダヤ人は、神を「アバ」と呼ぶことは決してなかったと言われている。だがキリストは、この呼び名をゲッセマネの園で使った。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」(マルコ14章36節)。キリストは「アバ、父よ」と呼ぶ先駆けとなられた。キリストは神の御子である。公生涯が始まる時、キリストはヨルダン川において、私たちの代表として、また模範としてバプテスマを受けたとき、御霊が鳩のように天から下ってキリストの上にとどまられた。その時、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」という声が天からあったことが各福音書に記されている。私たちも神の子どもであり、子としてくださる御霊を受けた。私たちも、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」と声をかけていただける者とされた。そして今、私たちも御霊によって、「アバ、父よ」と親しく呼びかけることが許されている。キリストは十字架を前にして、あのゲッセマネの園で弱さを覚えていただろう。「アバ、父よ」と祈れることは幸いなことだった。私たちも弱さを覚える時は、「アバ、父よ」と祈りたいと思う。父なる神は、私たちの祈りを聞いてくださるだろう。初代教会時代、エルサレムから異邦各地の教会において、アラム語のままで「アバ、父よ」と祈り、賛美したと言われている。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます」。私たちが、子としてくださる御霊を受けたこと、そして御霊によって「アバ、父よ」と呼ぶことができること、これは大きな慰めではないだろうか。今朝は、このことをまず受け止めていただきたいと思う。

神の子どもの立場は、「相続人」であるということでもある(17節)。子どもは父親のすべてを相続する。私たちは「アバ、父よ」と呼ぶことが許されている父なる神の相続人である。キリストは神の御子であり、私たちの長子であるので、私たちは「キリストとの共同相続人」でもある。実際、何を相続するのかは後でのお楽しみとなるが、それは「栄光」ということばで言い表されている。「私たちがキリストと、栄光をともに受けるために」とある。それはオリンピックで勝者に与えられる栄光とは比べものにならないものである。この栄光のすばらしさについては後で少しふれるが、17節でひとつ心に留まるのは、「私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら」という表現である。苦楽をともにする、という表現があるが、キリストと苦難と栄光をともにするのである。それが定めである。そして、苦難のあとに栄光が開かれているという事実を心に留めよう。だからパウロは続いて言う。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足らないものと私は考えます」(18節)。パウロは、苦難の中を生きる神の子どもたちを励まそうとしている。苦難の後に栄光が開かれている。その栄光と比較するならば、今の苦しみは比較にもならないと言うのである。どんなにつらい苦しみを受けても、あとで振り返れば、蚊に刺された程度のものになってしまうだろう。それぐらいの栄光が待ち受けているということである。苦難の中にいる人にとって、これは大きな慰めとなる。

では私たちが受ける栄光について考えてみよう。ヒントになる表現が、今日の箇所で三つある。「神の子どもたちの現れ」(19節)。「神の子どもたちの栄光」(21節)、「私たちのからだが贖われること」(23節)。今見た三つの表現は、キリストの再臨の時に起こることである。「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです」(ピリピ3章21節)。「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態は明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています」(第一ヨハネ3章2節)。コリント人への手紙第一15章35節以降においては、信仰者がやがての日、栄光あるものによみがえらされ、「御霊のからだ」、そのように呼べるからだを持つことになると証言している。「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです」(第一コリント15章42~44節)。これは、キリストに似せられた栄光のからだである。これはただ単に肉体の変化ではなく、全人格的な変化である。

パウロはこうした神の子どもたちの栄光を、ローマ人の手紙8章においては、被造物の回復という文脈の中で語っていることに特徴がある(18~22節)。「被造物」ということばが何度も現れる。アダムの罪は被造物全体に呪いをもたらした(創世記3章)。汚れ、腐敗、病気、死、不快な環境、災い、破壊、それらすべてをもたらした。パウロは全被造物の贖いを待ち望んでいる。すなわち新天新地の到来を待ち望んでいる。それは神の子どもたちの栄光ともに訪れる被造物の栄光である。「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます」(21節)。神の子どもたちが住むことになる世界は、神の子どもたちの栄光の姿に合わせて、それにふさわしいものに変えられるということである。その日がやがて訪れる。

パウロは、今の被造物全体は、うめきとともに産みの苦しみをしていると言う。「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています」(22節)。現代は地球環境を考えてSDGsが叫ばれるようになった。それはそれで大切なことであるが、一番大切なことを忘れてはならない。うめきと産みの苦しみを終わらせる手段は福音宣教である。SDGsと福音宣教は無縁ではない、というよりも、地球を救うカギは福音宣教にある。キリストは「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから終わりが来ます」(マタイ24章14節)と語られた。だから、教会の第一の使命は宣教である。

パウロは22節で被造物のうめきについて語ったが、23節では神の子たちのうめきについて語っている。「そればかりでなく、御霊を初穂にいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます」。「子にしていただくこと」とあるが、キリストを信じ、御霊を受けた私たちは、すでに神の子どもである(16節)。ここでは、からだが贖われた時の、栄光の神の子どもについて言われている。「私たちのからだの贖われること」であるが、私たちの今のからだは死のからだである(7章24節)。それは罪の道具となってしまうからだである。それは、ただ単に、疲れやすいとか、老化が進行しているとか、病と障害を持っているとか、そういう弱さの問題だけではない。罪と縁が切れないからだなのである。このようなからだだけれども、贖われるという希望がある。

23節では、私たちのことについて「御霊の初穂をいただいている」という表現がとられているが、「初穂」というのは続く豊かな収穫を保証するものである。つまり、「御霊の初穂」という場合、御霊は、からだが贖われ、栄光に至ることの保証であるということである。それまで確かにうめきがある。うめかざるを得ない。年を取ると毎日からだのどこかしら痛く、それだけでうめいてしまう。からだを神のご意志に従わせるのに苦労するという現状があり、うめかない日はない。だが、パウロがここで言ううめきは、ただの悲しみのうめきではないようである。栄光の未来があるからである。神を仰ぎ、待ち望むことと一体となったうめきである。希望を前に置いたうめきである。「神さま~!」と待ち望みつつ、うめく。そのような祈りをもって、日々を過ごすわけである。それが私たちの日常である。パウロは24,25節では、まだ見ていないものを見るようにして待ち望む幸いを語っている。

パウロは今日の区分で、御霊は私たちの祈りを助けることも語る。最後はそのことを見よう。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのようにして祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです」(25,26節)。26節で、私たちのことが「弱い」と言われている。「どのように祈ったらよいかわからない」と言われている。それがここで言われている弱さである。27節では、聖霊は神のみこころにしたがってとりなしてくださることが言われているが、私たちは神のみこころがどこにあるのか全くわからないということがある。助けが必要だろう。だが、多くの場合、みこころのだいだいはわかっている。しかし、詳細はわからない。具体的にどうしたらいいかわからない。それで戸惑う。ある場合は、自分へのみこころは完全にわかっている。だが、そのみこころと自分の考えには、しっくりいかないギャップがあるのを感じたりすることがある。なぜ?という疑問や、どういうことになるのだろうという不安を抱く。ある場合はギャップも何もなく、納得済みで従わなければと思うけれども、それには苦しみが伴うことを思うと、気持ちの中で足踏みをしてしまうということも起こる。キリストのゲッセマネの祈りを振り返ってもそうだろう。十字架にかからなければならないことはわかっていた。しかし、みこころに従うことができるようにと、血の汗を流して祈る戦いとなった。

祈りには二種類あると思う。一つは人生を横のラインで考えた場合である。毎日が体験していない未来に向かって信仰のステップを踏む。未体験の世界に踏み出すには祈りが必要となって来る。もう一つは縦のラインである。神の子どもが栄光に向かって、次のステップ、次のステップと、上昇していく成長のためのラインである。信仰の登山のようなものである。縦のラインと横のラインは交錯し、交わっている。私たちは夢の世界で信仰生活を送るわけではない。現実の世界で信仰生活を送る。越えなければならない山が目の前に立ちはだかっている、あの非常に苦手な人と今日会うことになっている、そういう信仰のチャレンジがある。明日以降のことを神と相談し、ゆだねるための祈りも欠かせない。そしてこれまで学んできたように、神に対して逆らう肉との戦いがある。私たちの信仰の歩みは遅くとも、螺旋階段を上るようにして、上へ上へと成長していきたいわけである。私たちは日々、祈りなしにはやれないとなり、切実に祈るも、祈りのことばに詰まるなどということは幾らでもある。御霊の助けが必要である。

おもしろいことに、26節前半の「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます」の「助ける」の原語は、「共に+代わって+引き受ける」ということばの造語である。御霊は「ともに」という精神を持っていてくださり、「代わって、引き受ける」ということをしてくださる方である。26節後半に「私たちのためにとりなしてくださいます」とあるが、まさしくそういうことである。しかも「言いようもない深いうめきをもって」(「ことばにならないうめきをもって」新改訳2017)。これは悲しみうめくうめきではなくて、助けるための切実なうめきである。真剣なとりなしである。私たちの祈りに御霊の助けがあるというのは心強いではないだろうか。

14節で「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」と学んだ。御霊は、祈りという苦闘する世界でも、導き、助けてくださるのである。祈り終わったあと、平安をくださる、顔を晴れやかにしてくださる。それも御霊の働きなのである。こうして、神のみこころが成るようにしてくださるのである。