今日のタイトルは、今年度の目標となっている。8章に入って、ずっと御霊について学んでいるが、御霊は9節において、「神の御霊」また「キリストの御霊」と呼ばれていた。神、キリスト、御霊という三位一体の関係を見ることができる。この御霊と対立するのが肉である。けれども、パウロは、私たちが御霊と肉の狭間でもがいている人として位置づけさせない。そういうふうに自分を位置づけているだけなら、敗北が続くだけである。前回、御霊について教える時に使われることがある、白い犬と黒い犬のたとえを紹介した。白い犬が御霊で、黒い犬が肉。その間に私たちがいて、どちらの犬にエサをやるかで、勝敗が決まって来ると考える。これであると、結局は私たちのがんばりにかかっているのかと勘違いしてしまう。

パウロの教えは、私たちは御霊と肉の間に立っているではなくて、「御霊の中にいる」であった。「あなたがたは肉の中にいるのではなく、御霊の中にいるのです」(9節)。

私たちの霊は引っ越した。霊の環境が変わった。前回お話したように、空気が汚れていて光化学スモック注意報が発令されるような地域から、空気が澄んでいて青空が高く突き抜けるような地域に引っ越したようなものである。霊的空気が変わった。私たちは、御霊の支配の中で生きている。

さらに御霊は、9節また11節をご覧いただくと、「御霊があなたがたのうちに住んでおられる」と言われている。御霊の内住である。ここで「住んでいる」ということばは、つかの間の滞在を意味することばではなくて、「住み込むこと」を意味することばである。生涯あなたと一緒に生活していきます、そしてあなたを助けていきます、ということである。大きな恵みである。この御霊の内住に関して付け加えると、「御霊があなたがたのうちに住んでおられる」とは、さらに言い換えると、キリストがあなたがたのうちにおられるということである。10節において、「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら」とある。キリストは御霊を通して私たちのうちにおられる。そして、私たちのすべてのすべてとなってくださる。ある方は次のように言う。「キリストは愛、謙遜、力、自制など、すべてのものになってくださいます。今日、忍耐に対する必要があれば、主は私たちの忍耐となられます。明日きよさに対する要求があれば、主は私たちのきよさとなられます」。キリストは御霊によって、私たちのすべてのすべてとなってくださる。御霊はまさしく、キリストの御霊である。キリストの御霊は私たちにできないことをしてくださる。それは4節では、「それは肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです」と表現されていた。それまでのパウロは、神のみこころである律法の要求に応えることは、肉の人である私たちにはかなわない、と言い続けてきた。心では神の律法は大切だとわかっていても、罪に仕えてしまっている私がいると。けれども、御霊によってできなかったことができると言うのである。御霊が強くなるようにと、私たちが御霊にご飯をあげたり、御霊のめんどうをみるのではなくて、御霊が私たちのめんどうをみてくださる。

では12節をご覧ください。「ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません」。パウロは何を言いたいのだろうか。パウロは、私たちが肉に仕える責任も義務もない立場に置かれていることを伝えたいようである。12節を理解するために、パウロが6章において、あなたがたは罪の奴隷から解放されたと主張したことを思い起こしてみればわかる。罪の奴隷から解放された者は罪に仕える責任を負っていないということだった。奴隷というのは主人に対して服従する義務と責任がある。奴隷というのは基本、死ぬまで主人に仕えていく責任がある。死ぬまで主人の要求に従い、これを満足させる義務がある。では私たちは死ぬまで罪の奴隷なのだろうか。実は奴隷から解放される方法がある。奴隷は死んでしまえば、奴隷としての義務と責任から解放される。パウロは、あなたがたの古い人は十字架につけられ、死んで、罪の奴隷から解放されたと教えた(6章6,7節)。古い人とはキリストを信じる前の私たちのことである。回心する前の罪深い私たちのことである。死んだので、罪の奴隷から解放された。さらにパウロは、あなたがたはキリストとともに十字架につけられ、罪に対して死に、キリストとともによみがえり、神に対して生きた者であることを認めなさい、と教えた(6章11節)。つまり、あなたがたは罪という主人に対して死んで、今やキリストにあって、神という新しい主人に対して生きているのだと計算し、決算し、そのように心の帳簿に記入し、事実を事実として認めなさいと教えた。その後も、パウロは、あなたがたは罪の奴隷から解放されて神の奴隷となったと言う教えを繰り返した(6章22節、他)。罪の奴隷として死んで、今、神の奴隷とされているということが事実ならば、もう罪に仕える義務も責任もない。雇い人であれば、昼間はこちらの主人に仕え、夜はパートで別の主人に仕えるということがあるだろうが、奴隷の場合は二人の主人に仕えることはあり得ない。私たちの主人は、罪から神に代わった。ということは、私たちは罪に仕える義務も責任もない。

今述べたことは、肉に対しても同じである。「肉」とは十字架につけられた古い人の本体である。それは罪に染まった人間性である。肉と罪は本来別々のものであるわけだが、肉には罪が住んでいる、寄生している、肉に罪が染み込んでしまっている。どこからどこまでが肉で、どこからどこまでが罪なのかわからないほど一つになっている関係である。肉と罪は密接に結びついている。だから、罪の奴隷というは、言い換えると、肉の奴隷ということでもあり、それが肉の中にいるということである。だから、パウロは7章5節で言っている。「私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いて、死のために実を結びました」。では、今、私たちは肉の支配の中にあるのだろうか。私たちは今、肉の中にではなく、御霊の中にいるわけである。「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです」(9節前半)。もはや、肉が私たちの主人ではない。だから、今は肉に対して何の責任も負っていない。肉の欲求に従い、これを満足させる義務はない。決してない。

にもかかわらず、なお肉に従おうとするならば、どうなるのだろうか。死に至る。「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです」(13節前半)。この死とは、単なる肉体の死ではなく、永遠の刑罰としての死、「第二の死」(黙示録20章14節)を意味する。

続けてパウロは、死ぬことではなく、生きることを言う。「しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです」(13節後半)。「御霊によってからだの行いを殺す」と言われているが、どういうことだろうか。「からだ」であるが、からだそのものは悪いものではない。からだ、それは外的な人間存在の表現である。パウロは、第一コリント9章27節において、「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます」と言っている。からだは飢え渇き等、様々な欲求を持つだけでなく、疲れを覚えやすく、年とともに弱ってきて、思うようにならないところがある。それ自体は邪悪なものではない。問題は、このからだは罪と肉の支配を受けてしまっているということにある。だから、「からだの行い」は「肉の行い」と言い換えることができる。

参考として、ガラテヤ5章を開き、最初に19~21節を読んでみよう。「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色・・・ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちが神の国を相続することはありません」。ここでは、「からだの行い」が「肉の行い」と言い換えられている。肉の行いのリストの一部が挙げられている。

この「肉の行い」を殺すものが御霊である。ガラテヤ書5章24節に進んでみよう。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」。先ほど、古い人の本体が肉であると説明した。だから、古い人が十字架についたというのも、肉が十字架についたというのも同じことである。そして、この十字架での「磔殺」を私たちの生活において現実的なものとするのが御霊の働きなのである。ここが肝心なポイントである。殺すのは御霊の働きなのである。だからパウロは続く25節で、「もし私たちが御霊によって生きるなら、御霊に導かれて生きようではありませんか」と述べている。今日のローマ人の手紙8章14節と同じことが言われている。

ではローマ人の手紙に戻って、8章14節を読もう。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」。私は、「神の御霊に導かれる」とはどういうことを意図しているのか、それは何を意味するのか、分かったようでわからなかった。けれども、13,14節を丁寧に読んで、謎が解けてきた。13節と14節はつながっていることを見落としていた。実は、14節の原文の文頭には、「なぜなら」とか「というのも」を意味する接続詞がある。それは理由を述べる接続詞である。訳出されていないだけである。14節の文頭に「なぜなら」を挿入して13,14節を読んで、つながりを確かめてみよう。「なぜなら」を挿入して読むと、神の子どもが神の御霊に導かれるというのは、前節で言われている、からだの行いを殺すことに関係していることがわかる。御霊の導きとは、今日何をするか、明日は?といった物理的な導きに限定してとらえているのなら、まちがいである。御霊は、霊の戦い、信仰の戦いといったことの導き手であるわけである。7章では、御霊によって生きることがわからずに、自分の力で罪との戦いに勝利しようとする涙ぐましい努力が描かれていた。結果は敗北で、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの、死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(7章24節)という告白となった。からだの行いを殺すどころではない。パウロは8章に入り、勝利の秘訣は御霊に導かれることであることを教えたい。

この、導かれる側の人の態度もまちがって受け取られることがある。棚ぼた式で、ただ受け身で待っていればいいという思い違いがある。13節の「からだの行いを殺す」というのは能動態で、キリスト者の主体的決断と行為を意味する。「からだの行いを殺す」の主語は誰かと言うと、原文で「あなたがたは」となっている。日本語では訳されていないだけである。「あなたがた」と言われるキリスト者の主体的な意志と決断がなければ事は動かない。もちろん、殺す力はキリスト者の私たちにはない。殺すのは、私たちのうちに住んでおられる御霊による他はない。「御霊によって」とある通りである。ただ、私たちが信仰を働かせる気がゼロであると、先ほどガラテヤ人の手紙で見たような罪が生産され続けることになる。だから、殺さなければならないという主体的意志をもって決断し、その上で、御霊の導きにゆだねるという信仰を働かせるのである。「殺す」は能動態であったが、「神の御霊に導かれる」の「導かれる」は受動態である。自分の力ではできないことを御霊がしてくださる。だから、私たちが御霊の支配の中にいることを覚えて、意識的に御霊の働きにゆだねる、ということである。その時に必要な導きと助けと力が与えられる。

前々回は、信仰生活を鳥にたとえさせていただいたが、以前、信仰生活を車の運転にたとえたものを読んだことがある。運転はキリストにまかせるようにと書いてあった。その時は、なるほどと思った。助手席に座るのは私たちである。だが、私たちはキリストをお抱え運転手にして、助手席に座っていればいいのだろうか。人生を主体的に生きるのは私たちである。そこで皆さん、私が運転席に座って主の道を進むのだと考えてみよう。エンジンをかけようとして、スイッチを入れるのも私の主体的意志と決断である。ただスイッチを押す時、14節から言うならば、聖霊の導きで進むのが私たちという自覚がないと、信仰のスイッチは押せない。信仰のスイッチを押したならば、キリストは、また御霊は、エンジンという動力となり、ガソリンという燃料となり、暗闇を照らすライトとなり、また私たちの頭脳と心に力強く働きかけるナビとなり、減速するブレーキとなり、加速するアクセルとなり、安全装置となり、すべてのすべてとなってくださる。ハンドルを握り運転しているのは私なのだが、完全にコントロールしているのはキリストであり、キリストの御霊である。人生を運転する私たちは、車の中にいなくとも、キリストの御霊の中にいるのである。この信仰による運転の時に、キリスト、またキリストの御霊が、絶対頼りになる真実な教官として隣の助手席に座っていることをイメージしてもいいだろう。

信仰を発揮し、御霊に導かれた実例を挙げよう。インドの宣教師であったエミー・カーマイケルが、ミモサというインド婦人の物語を書いている。ミモサは宣教師たちと一緒にいた時間はごくわずかで、神さまのことを少し聞いたに過ぎなかった。その状態のまま、彼女は宣教師たちから別れ、怪しい神々を祭るヒンズー教社会の中に、また女性を卑しめるカースト制度の中に、一人置かれることとなってしまう。彼女が幾多の試練に遭遇したことは想像に難くない。彼女は祈り方を一度も教えてもらったことがなかったが、彼女はどんな試練に直面しても、「神さま、私はあなたにつまずきません」という祈りをささげ、神さまに信頼を表し続けたそうである。夫や村人からの心ない態度にもくじけなかった。ヒンズー教社会の中で直面するのは、やはり偶像崇拝の問題が大きい。生活のあらゆる面に神々が登場してくる。彼女は偶像についての学びをしたわけでもないのに、偶像の習慣や迷信に染まらなかった。偶像の宮での太鼓の音、奇妙な音楽、そうした雰囲気の中では落ち着けず、皆と行動をともにすることができなくなった。神々に香を焚く儀式や、額にシバの神に献身したことのしるしである灰を塗ることなど、他の女性たちがしても、彼女はそうしたことをできなくなった。彼女は聞こえざる声に従っていた。彼女は御霊に導かれる神の子どもだった。

御霊に導かれ、そのコントロールを受けるというのは、一見、抽象的な世界のようにも思えるが、今年に入り、盲人のソプラノ歌手のインタビューに心が留まった。彼女は重度の視力障害で生まれ、十代の時に全盲になった。その方はドイツ人で、指揮に合わせて、難度の高い歌も見事に歌いきる。リズムもぴったりである。彼女はこんな質問を受けた。「指揮者を見ることができないのに、どうしてそれができるのですか?」この質問は、私も映像で彼女を見ていて、ずっと疑問に思っていたことだった。指揮者と息がピッタリなのである。彼女は、こう答えている。「指揮者を感じ取ることができます。私は同調し、呼吸とからだの動きを通して彼とつながりを求めます・・・」。そこには私たちの理解を越えた世界があるが、彼女は目に見えない指揮者とつながるための訓練をしたようである。呼吸法、その他。私たちにも指揮者がいる。そのお方は主キリストであり、キリストの御霊である。そのお方に心を向け、信仰のまなざしを注ぐ訓練の中に、今の私たちはある。同調し、つながり、コントロールを受けることができる。

最後に一つのことを付け加えて終わりたい。聖霊を口で強調しながら、悪霊に従っているのか、ただ自分の霊に従っているだけなのか、何なのかわからなく見える人たちがいる。ご本人たちもわからなくなっているのではないだろうか。痛手を負って、あとで、あれは間違っていたと反省の声が聞こえてくることがある。ご存じのように、聖書の真の著者は聖霊である。御霊である。御霊の導きはみことばと矛盾しない。御霊はみことばを通して語りける。だから、日々、みことばに聞く姿勢も忘れてはならない。みことばによって、自分のものの見方、考え方、ふるまいを検証したり、導きを求めることを尊びたい。キリストは荒野の誘惑において、みことばによって、悪魔の誘惑を振り払った。悪魔はみことばを誤用して、みことばはこう言っているではないかと欺こうとしたこともあった。たが、キリストは、これにだまされることなく、みことばを正しく用い、誘惑を退けた。私が求道時代、求道者会でこんな質問を受けた。「斎藤さん。『人はパンだけで生きるのではない』という有名な聖書のことばがありますが、その後のことばを知っていますか?」。私は知らなかったので、「いいえ」と言うと、「神の口から出る一つ一つのことばによる」です、と答えてくれた。このことばは、荒野の誘惑で、キリストが悪魔の誘惑を退けた時のことばである(マタイ4章4節)。パウロは、悪魔の誘惑を意識して、戦う武器として、「御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい」(エペソ6章17節)と勧めている。神のことばは、御霊の与える剣なのである。みことばを知らないと、剣が抜けないので、バッサリやられてしまう。よって、みことばに注意深く聞く姿勢をもって、真理のみことばに慣れ親しむことが大切である。

次回も御霊について学ぶことになるが、御霊に導かれることは神の子どもの特権であることを覚えて、それを学習していこう。私たちは御霊の支配の中におり、信仰を働かせることにより、御霊に導かれて、罪と肉と悪魔に勝利できる。私たちは御霊に導かれる体験を通して、神の子どもとして成長していこう。