伝道者の書の著者は、この地上の世界でしあわせの探求を試みた人です。彼は鋭い観察眼を働かせて、人々のしあわせ度数を計りました(伝道者の書6章1~12節)。その結果はこうです。
 1)富、財産、誉れを手にしてもしあわせになれない人がいる(2節)。しあわせの三大要素とみられるものを手にしてもしあわせになれなかったというのです。実は、不思議なことに、金持ちであればあるほど、平民よりしあわせ感が薄いというという調査結果も出ています。
 2)子どもに恵まれ、長生きしたけれどもしあわせになれない人がいる(3~6節)。多産と長寿はどの国においても祝福とみなされていますが、そのどちらも、その人にしあわせを約束しません。
 3)労苦したけれどもしあわせになれない人がいる(7~9節)。著者の観察では、人は生きていくために労苦するというよりも、食欲のために労苦すると映っています。
 では本当のしあわせとは何でしょうか? やはり神との関係なしには、しあわせはありえないでしょう。著者は、「神が与えてくださる生活で満足せよ」というメッセージに対する反論を予測して語っています(10~12節)。私たちはつぶやきます。夫婦関係のこと、親子関係のこと、兄弟関係のこと、仕事のこと、環境の善し悪しのこと。人間は限られた知恵で、短い人生経験で、狭い視野でしか物事を見ることができず、何が人にとって善いことなのかを完全に判断することができません。ですから、永遠の視野を持ち、深い知恵を働かせられる神の主権に服す姿勢が必要となります。
 「やませ」という冷たい北風が吹く八甲田山の近くで、全国の作況を上回る収穫をあげてしまう小林さんの話を聞いたことがあります。小林さんは「やませが吹くところでは、元気な苗づくりが一番と言い、意識的に苗をいじめるような育て方をします。「ぎりぎりのところまで水を与えない。苗を必死になって根を伸ばし、水をつかまえようとする。ここで根が伸びるんです」。また基肥は少なくしてしまうといいます。すると根は縦に横に根を伸ばし、ひげ根も増えるというのです。この管理は、農協や農業改良普及センターの技術指導に逆らうものだったそうです。技術指導の専門家に言わせれば、「なぜ善いことをしないのか」となるでしょう。また稲が口を利けるとすれば「小林さんは、なぜ私たちをいじめるのか」となるでしょう。けれども小林さんは先を読んでいました。小林さんの稲は葉が小さく、丈も短い。しかし秋になると実の入りはどこにも負けませんでした。
 私たちは、神のように先まで読むことはできません。だから、つぶやくのはやめて、私たちを育成してくださる神の御手にゆだねていくことです。神の愛を信じていくことです。神の愛は完全です。愛が完全でなかったら、神はもはや神ではありません。神は神であるかぎり、神の愛はいついかなるときでも完全です。その神の愛は十字架を通して証されています。私たちはすべての状況を十字架を背景において見ていきたいものです。十字架において神の愛は輝いています。私たちは十字架を通して神に信頼していくことができます。