ローマ人の手紙7章の講解は今日で三回目である。前回は7節以降から、律法の働きについて学んだ。律法は私たちに罪を知らせ、罪を生きたものとし、私たちを死に導く。最終的には、十字架で死なれたキリストのもとに私たちを導く。律法は十字架の輝きを増し、私たちをキリストに結びつけてくれる。

今日の区分でも律法について語られているが、律法を守れない私という存在の問題性によりシフトしていく。それは、さっそく14節で言われている。「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にあるのです」。パウロは14節で「律法が霊的なもの」であると告げている。霊的、つまり、神に属する良いものであるということである。霊的の反対は肉的であるが、実は、「私は罪ある人間であり」を新改訳2017では「私は肉的な者であり」と訳してして、原文に近い訳となっている。直訳すると、「私は肉の人であり」である。それはただ、肉体を持っているだけでなくて、罪を宿してしまっているという意味が込められているわけである。それで新改訳第三版は「私は罪ある人間であり」と訳した。そして驚くのは、「売られて罪の下にあるのです」と告白していることである。これは罪の奴隷とされているということの、婉曲的な表現である。それで、えっ、どうしてだ?という疑問をもつことになるわけである。というのは、パウロは6章で、キリストを信じる者は罪の奴隷から解放されていると力説していたからである。「しかし、今は罪の奴隷から解放されて神の奴隷となり」(6章22節 18節,7節参照)。それなのにパウロは、「私は、売られて罪の下にある者です」と語っている。この罪の奴隷とされている現状を、続く15節で語っている。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているのです」。これは、まことにみじめな告白である。そこで、「これはクリスチャンの姿ではない。パウロはキリストを信じる前の、回心する前の、過去の自分の姿を語っているのだ」という解釈がある。それに対して、「いや。パウロは現在のクリスチャンとしての自分の姿を語っているのだ」という解釈があり、両者は対立している。回心する前の姿なのか後の姿なのか、過去の姿なのか現在の姿なのか、ノンクリスチャンの経験なのかクリスチャンの経験なのか。皆さんはどう思われるだろうか。私たちクリスチャンは、クリスチャンとしての自分の内面を探るときに、罪との戦いがいつもあることを認めている。罪との戦いは生涯続く。そして罪に敗北することも経験する。

7章を読んで、気づくことは、7節から主語が「私は」に切り替わっていることである。それまでは「私たちは」と二人称で語ってきたのに、7節から「私は」と一人称に切り替わっている。パウロは「私は」と語り、また「私に」「私を」と、自分の経験を語りだす(7節、8節、9節、10節、11節、13節)。そして、今日の14,15節では、パウロの「私は」というみじめな告白は、過去形ではなく、現在形で語られている。ご確認ください。パウロはりっぱに現在の経験として語っている。それも、その内容はふがいないものとなっている。使徒してのパウロを思うと、ほんとうに現在の自分の経験を語っているのかと、疑いたくなる。この彼のみじめな告白は、7章の終わりまで続く。

私は、このパウロの告白を、過去か現在かという時間軸だけにこだわって見るだけでは足りないと思っている。パウロが「私は」「私は」というときに、罪人としての私の経験を語っているということに注目する必要がある。彼は現在形で語っているので、確かに現在のクリスチャンとしての経験を語っているのだろう。しかし、過去のことなのか、いや現在のことだと、時間軸で見るよりも、もっと実存的に見るべきである。つまり、ここに今ある私、罪人としての私、「ここに今ある罪人としての私」として語っているのである。過去の自分はこうで、現在の自分はこうで、というのではなく、「ここに今ある罪人としての私はこんなにもみじめなのです」と告白することによって、みじめな自分に一縷の望みも置くことを止め、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと認めなければならないこと、そのようにしてキリストの御霊によって生きていかなければならないことを教えたい。そうでないと、私たちが肉的なクリスチャンとして歩んでしまうことになるから。律法に糾弾されて敗北の生活を送るだけになるから。律法は神の意志を教えてくれも、それをする力は与えてくれない。そして私たちにも律法を守る力はない。パウロは7章で罪人の無力さ、みじめさを語った後に、8章でキリストにある勝利の生活を教えることになる。7章で自分を例に挙げながら、罪人という存在を完全に叩きのめし、罪人のすべてのプライドをはく奪した後、8章でキリストにある勝利の生活、キリストの御霊に導かれる生活を教えることになる。

クリスチャンたちが川へ泳ぎに出かけ、一人の人が足にけいれんを起こして溺れだしたそうである。クリスチャンたちの中に泳ぎの得意な兄弟が一人いた。彼は助けに行くように求められても、なぜか助けに行くそぶりを見せない。「溺れていることがわからないのか」と大声で叫ばれても、彼はじっと立ったまま。しかし、溺れている兄弟が力尽きて沈み始めたタイミングで、彼はすばやく泳いで行って、助け出した。この救出劇を間近で見ていた人は、彼に対して、なぜもっと早く助けに行かなかったのかと、まくし立てて非難した。しかし、彼はこう反論したそうである。「私がもっと早く行っていれば、彼は私を力いっぱいつかみ、二人とも沈んでいたよ。溺れる者が全く疲れ果て、自分を助けようともがく力がすっかりなくなったときに、初めて救うことができるんだ」。彼の「溺れる者が全く疲れ果て、自分を助けようともがく力がすっかりなくなったときに、初めて救うことができるんだ」は意味深である。私たちがパウロのようにもがきにもがき、自分の力が尽き果てるときに、キリストが差し伸べる御手のありがたさと、その力強さがわかってくる。

パウロは16,17節で、律法は良いものであり、問題は「私のうちに住みついている罪なのです」と語っている。罪はドンパチと、その時に出現する花火のようなものではなく、私のうちに住みついているものと言われている。パウロは原罪を意識しているのだと思われる。生まれながら人間がもっている罪の性質である。「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました」(詩篇51篇5節)とダビデは告白している。

18節では、「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています」というパウロの告白がある。肉のうちには善は住んでおらず、罪が住んでいる、罪が巣食っている、罪が寄生している。そういう肉が私の本性なのだと言いたいわけであるが、パウロが一番問題にしたいのは罪である。それは続く19,20節からわかる。「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分したくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住む罪なのです」。19節は15節と同じような告白となっているが、自分でも自分が理解不能のような状態に陥っているわけである。自分をのぞき込むと、分裂している不可思議な姿が見えてくる。善を願っていても悪を行う自分がいる。愛そうという思いはあるのに、冷酷さに傾く自分がいる。これが罪人の現状、私たちの現状である。分裂した自己、ゆがんだ自己である。パウロは、自分から逃げず、まっすぐ、そして深く、自分自身の内側に降りて行き、勇気ある自己観察をしたわけである。この世では、天使と悪魔が同時に自分に宿っているといった表現をとることもあるが、これが私たちのありのままの姿である。パウロはこうなってしまう原因を、19節で「私たちのうちに住む罪です」と明言し、真の問題は、この罪にあることを明らかにしている。罪とは私たちが抗しがたい客観的な実体なのである。それが私たちを苦しめ、引き裂いている。

パウロはこの罪の現実を、21節以降、「律法」という用語を使いながら説明していく。21節で「原理」と訳されていることばの原語も「律法」と同じ<ノモス>である。新改訳2017の欄外の別訳では「法則」と「律法」が挙げられている。<ノモス>は法律といった意味合いとともに法則・原理という意味合いをもつことばなので、場面、場面でどう訳すのが最善なのか難しい問題がある。ただ、原語は同じであり、パウロは<ノモス>ということばで、人間が罪にとらわれている現実を語ろうとしている。

21~23節を読もう。「そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理(その律法)を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中に異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私をからだの中の罪の律法のとりこにしているのです」。21~23節は何を言いたいのだろうか。人間存在に働いている法<ノモス>と言えるものを伝えたいようである。それはどの国に住むか関係なく、人間に共通している法と言えるだろう。ことばの説明から始めると、22節の「内なる人」とは、人の心によって代表される内面的部分である。その内なる人は神の律法を喜んでいる。23節のからだの中にある「異なった律法」とは、同じ節後半の「罪の律法」のことである。同じく23節の「心の律法」とは、心が神の律法を受け入れている状態を指している。それは、からだの中にある罪の律法と対立するものである。つまり、心では神の律法を受け入れ、それを喜んでいるのに、からだは罪の律法に支配されていて、私をとりこにしていると伝えている。自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っている理由はここにある。「罪の律法のとりこにしている」の「とりこにする」とは戦争用語でもあり、「罪の律法の捕虜にしている」と訳せるだろう。罪の奴隷という表現をパウロは使ってきたが、ここでは罪の捕虜である。それは自由が利かない状態である。からだの中で罪の律法が働き、その力に押し切られ、悪を行ってしまう。まさしく捕虜である。からだそのものは悪いものでも何でもない。悪いものではないが、そのからだは24節で、「死のからだ」と言われているように、「罪から来る報酬は死です」の法則を実現させる罪の道具となってしまっている。

パウロが21節以降で伝えたかったことは、人には神の律法という善なる法と罪の律法という悪法が働いているということである。二つの法の間で罪人は苦悩するも、結局は罪の律法に服従することになるということである。「罪の律法」は罪の力と言い換えることができるだろう。結局、私たちは罪に対して無力なのである。からだの中に働いている罪の力に敗北してしまうのである。だからパウロは「私は、ほんとうにみじめな人間です」(24節前半)と告白せざるを得なかった。パウロほどの人でさえも。そうであるなら、なおさら私たちもみじめな人間なはずである。また、パウロがこうした告白をした背景には、彼が神の律法を守ることに熱心だったということがあるだろう。律法に注意深くあればあるほど、他の人には些細にしか思われないことでも罪として認識され、律法を守ろうとすればするほど、罪は生き生きとしたものとして感じられ、罪との戦いは激しくなる。そして「罪から来る報酬は死です」という現実を突きつけられることになる。敗北、敗残、惨死である。

最後の節を味わおう。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」(25節)。後半の文章の「ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」とは、「私は」で語りだしたパウロの経験のまとめの文章である。分裂した自己の姿である。二つの律法の間の板ばさみとなり、罪の律法に敗北するのである。

私が小学生のときに、死ぬほど苦手だったものに習字がある。お手本を見せられ、理性ではお手本通りにと思っても、手が言うことを利かない。それは私にとって絶望の時間だった。何枚書いてもだめだった。パウロはこれを倫理道徳の領域というか、神と我という次元の領域で話を進めてきた。理性で認めて、分かって、それを求めていても、古い人の肉は罪と密接に結びついているがためにそれをさせず、相反することをさせてしまう。

しかし、この25節後半の絶望的なまとめの文章と、24節までの絶望の告白の間に、なぜか、文章のつながりとは破格な文章が挿入されている。25節前半の文章である。唐突に思えてしまう文章である。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」。前後の文章はダークで、なぜか挟まれている一文は明るい。パウロは絶望の闇の深さから、その闇が深いからこそ、救いの一条の光を一瞬にして感じ取り、その感謝を口にし、口述筆記した感がある。

25節の原文では、冒頭に置かれていることばは「感謝」である。いきなり「感謝」となっている。パウロは、いきなり「感謝」と言って、感謝の叫びを上げている。その辺りを汲んで訳すと、「ただ神に感謝!私たちの主イエス・キリストのゆえに」である。あふれる感謝の理由は、イエス・キリストのゆえである。キリストは私たちの罪を赦し、義と認めてくださった。それだけではない。パウロは6章6節で、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれから罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています」と語ったが、神は私たちが罪の奴隷として万年罪に敗北する生活を送ることがないようにと、十字架体験によってこの罪から解放され、キリストとともに生きる道を開いてくださった。今の私たちは新しくされ、罪に対して死に神に対して生きている者、キリストのうちにある私である。キリストによる勝利の生活は、8章では、キリストの御霊による歩みとして具体的に語られていく。キリストに結ばれている者は、御霊の導きと助けがある。さらに8章では、未来には、私たちの罪のからだ、死のからだは、キリストご自身の栄光のからだと同じ姿に変えられることも約束されている。たましいだけではなく体もあがなわれる。これらがすべて感謝の理由である。

私たちは先ず、みじめな罪人としての私をしっかり観察してみよう。他人の目のちりにばかり心を向けている暇はない。自分の意識の表面の下の地下室に降りていって、そこに何があるのかを探ることが必要である。私の実家に地下室ではないが、蔵があって、もちろん中は真っ暗で、子どもの時に、斎藤家のまだ余り知らない未知の空間ということで、たまに入った。独特の匂いと空気感があり、昔の物品がほこりを被って眠っていた。江戸時代のものと思われる珍しい物も色々あった。古銭、機織り機、農機具・・・。タイムスリップしたような心境になる。明治、大正、昭和の初期の書物もあった。また、蛇の抜け殻なども発見することになるわけであるが、そこは普段暮らしている居間とは全く違う空間である。ある人が、自分を知ることが最も難しいといったが、それは本当である。私たちは意外にも、自分の意識の表面しか見ない。その奥に眠っていること、感じていること、動機、得体の知れない感情、そうしたことに概して無頓着である。不可思議な自分、愚かな自分と向き合うことが必要である。ある真面目なクリスチャン主婦の証だが、ショッキングな夢を見たそうである。一生懸命に仕えていた家族に対して、殺意を抱いて殺すという夢である。その夢は彼女の意識の奥に閉じ込められていたものが現れたものであった。彼女は、このことを通して、それまで自分でも気づいていなかった自分の姿に気づかされ、キリストの恵みに拠り頼むことを教えられることになる。21節で言われていたように、「私に悪が宿っているという原理(その律法)を見いだすのです」と正直に告白できるまで、まっすぐに自分を見つめなければならない。その上で、そこから進んでキリストに焦点を定め、十字架を仰ぐ。そこにあるのは罪の赦しだけではない。古い人はキリストとともに十字架で死んだという事実がある。そして、私たちは、キリストが私のうちに生きておられるという告白にまで導かれるのである。