いよいよ8章に到達した。8章は山にたとえると、ローマ人の手紙の山頂にたとえられるような章である。三回に渡って学んできた7章は、律法を前にしてのみじめな罪人の姿を描写していた。7章でパウロは、律法は聖なるもので、正しく、良いものだけれども、私たちを絶望に導くことを語ってきた。律法は何が神の意志にかなうのか、何が正しいのかを教えてくれる。何が罪であるのかを知らせてくれる。けれども私たちを救う力ない。私たちには律法を守る力がない。結果的に、律法は私たちを断罪し、罪に定めるのである。7章24節で言われているように、「私は、ほんとうにみじめな人間です」という告白が生まれるのである。

パウロは7章において、律法を守れず、罪のとりこにされているみじめな私たちの姿を描いていただけではない。実は、一筋の希望も与えていた。4節では「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです」と、私たちは厳格で厳しい律法という夫に対して死んで、死者の中からよみがえられた恵み深いキリストという新しい夫と結ばれていることを語った。私たちは人生の再スタートを切ったのである。このキリストについていけば大丈夫なのである。それは、具体的には、キリストの御霊によって歩む生活である。パウロはこのことを8章に入って教えようとしている。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることはありません」(1節)。かつて律法の下で生きていたときには考えられないことが起きた。罪に定められることがないというのである。「罪に定められること」とは法用語であるが、有罪判決を受けることである。有罪宣告を受けることである。原文の冒頭には「ない」ということばが置かれ、罪の宣告は決してない、全くないという事実が語られている。無罪判決が言い渡されるということである。そして、「罪に定められること」ということばは、有罪宣告を指すことばであるとともに、さらに死刑の宣告を含むことばである。「罪に定められること」の動詞が、3節では「処罰する」と訳されている。罪には死の刑罰が伴うわけである。その宣告がないと1節で言われている。以上のようなことから、1節は、罪の宣告も死刑宣告もない、ということである。死罪の判決はなく、死刑はない、ということである。無罪放免である。積極的には、義の宣告を受け、永遠のいのちを受けるということになるだろう。

このような恩恵を受けるのは、キリスト・イエスのゆえであり、十字架の贖いのみわざ抜きには考えられないことなのだが、パウロは、キリストの十字架の贖いのみわざを語る前に、キリスト・イエスにある新しい律法を示すというかたちで、話を進めていく。

「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」(2節)。ここで「原理」と訳されていることばは、「律法」と同じで<ノモス>である。新改訳2017では「律法」と訳している。「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したのです」。欄外に別訳として「あるいは『原理』『法則』」と脚注をつけている。そして、新改訳2017が「律法」と訳すのに対して、協会共同訳は「法則」と訳している。2節で<ノモス>をどのように訳すのが最善なのか、キリスト教界において見解は分かれている。律法がふさわしい、いや法則・原理がふさわしいと。しかし、あえて、どの訳が最善なのかというのなら、「律法」だろう。なぜなら、パウロは7章1節ではっきり言っていた。「私は律法を知っている人たちに言っているのです」(1節後半)。パウロは「律法<ノモス>を知っている人たち」を意識して語っている。パウロは彼らになじみのある律法<ノモス>ということばを駆使して、なんとか彼らをキリストに結合させようと語っていく。パウロは7章において、律法ということばを、モーセの律法である「神の律法」を語るときに用いたが、良く見ると、それだけではなく、7章23,25節では、罪の力を表すのに「罪の律法」という表現も使った。「ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」(25節後半)。罪の律法は神の律法に戦いをいどんでいる。私たちはこの罪の律法のとりことされ、それに仕えているという実態がある。8章においてパウロは、この罪の律法から私たちを救い出すために、新しい律法を提示しようとする。その新しい律法は神の律法と親和性のあるもので、神の律法に協力的な律法なのである。それが「いのちの御霊の原理(律法)」なのである。いのちの御霊の律法は、神の律法に非常に協力的で、良きパートナーである。

「いのちの御霊の律法」を見ていく前に、先に、2節後半の「罪と死の原理(律法)」の説明をしておこう。パウロは「罪と死の律法から、あなたを解放したのです」と言っているが、解放されることが必要な「罪と死の律法」とは何だろうか。それは、今お話しした「罪の律法」と同義である。2節では「罪と死の律法」とあり、「罪の律法」に「死」が加えられているわけだが、パウロは6章23節において「罪から来る報酬は死です」と、罪は死をもたらすという法則を告げていた。まさしく「罪の律法」は「罪と死の律法」なのである。この律法のもとにある限り、罪に定められてしまうだけである。すなわち、有罪宣告と死刑の宣告を受けるだけである。日々の生活においては、神の律法を守ることができず、罪の力のとりこにされ、自分のみじめさを嘆くだけの人生で終わってしまう。「私は、ほんとうにみじめな人間です」という告白しかできない。この「罪と死の律法」からは解放されなければならない。

そこで登場したのが新しい律法、「いのちの御霊の律法」である。「いのち」と聞くだけで心が躍らないだろうか。それは罪に打ち勝ついのち、死に打ち勝ついのちなのである。いのちが死を飲み込んでしまうのである。このいのちをもたらすのがキリストであり、キリストの御霊なのである。キリストを信じ、キリストの御霊を受けている者は、罪と死の律法から解放されている。

3節では、キリストにおいて行われた、この解放のみわざが記されている。「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです」。注意深くこの節を観察しよう。前半の、「肉によって無力になったために、律法にはできなくなっていること」とはどういう意味なのだろうか。まず律法に注目すると、律法は無力とされ、できなくなっているというのである。何ができないかというと、私たちを救い出すことはできないということである。律法は私たちを罪と死の支配から解放する力はない。律法は神の御旨を示してくれる。神の意志を教えてくれる。律法は罪とは何であるかを知らせ、罪の自覚を与えてくれる。しかし、救うには無力なのである。

しかし、律法自体は何も悪くない。本来ならば、律法を守ると、いのちを得ることができる。しかし、私たちの肉の性質のゆえに、私たちは律法を守れず、律法は私たちにいのちを与えることはできなくなってしまった。律法は、ただ断罪し処罰することしかできない。悪いのは律法ではなく私たちの肉である。「肉によって無力になってしまったため」の「肉」とは、私たち罪人の人間性だが、7章17,18節で学んだように、そこには罪が住みついいる。罪が巣食っている。罪が寄生している。肉と罪は、密接に結合している。どこからどこまでが肉で、どこからどこまでが罪なのかわからないほどに、肉に罪は浸透している。ということで、分析すると、諸悪の根源は肉に住みついている罪にある。7章17~18節を改めて読んでみよう。「ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうちに、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです」。

神さまは、パウロも言う「私のうちに住みついている罪」を処罰しようとされた。罪の住みかである肉において罪を処罰されようとした。具体的には、3節後半にあるように、「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしに」なることによって、御子の肉で罪を処罰されたのである(新改訳2017では「罪のために」を「罪のきよめのために」と訳出)。大切なポイントは、神は御子キリストを、罪深い肉と同じような形でお遣わしになったということである。前にもお話ししたが、使徒ヨハネはヨハネの福音書1章14節において、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」とキリストの受肉を証言したが、「ことばは人となって」の直訳は「ことばは肉となった」ということであった。キリストは私たちと同じ肉の姿をとった。文字通り肉となった。私たちとの違いは罪がないということである。そして、この罪がない肉の姿で罪のためのいけにえとなってくださった。旧約時代の罪のためのいけにえは、傷のない完全なものでなければならなかったが、キリストは罪のない完全ないけにとなってくださった。キリストは私たち人間と全く同じ肉の姿だったが、罪はない。第二コリント5章21節では、キリストは「罪を知らない方」と言われている。へブル7章26節では、「きよく、悪も汚れもなく」とある。それが私たちとの違いである。そして、あの十字架で、私たちの肉の代表となって、きよい血潮を流して救いのみわざを全うしてくださった。

「罪を処罰された」という表現にも注目しよう。「罪を処罰された」とはどういうことだろうか。パウロは罪を擬人化していることがわかる。「処罰された」という動詞を名詞にしたものが、1節の「罪に定められること」であると、先に紹介したが、こうしたことから、「罪を処罰された」は、「罪を罪に定めた」「罪を断罪した」「罪に有罪宣告を下した」、または、「罪に死刑宣告を下した」「罪に死刑判決を言い渡した」と言い換えることができるだろう。罪は死刑は確定なのだが、今は猶予期間である。死刑は時間の問題なのだが、今はまだ猶予期間なので消滅していない。しかし、今、私たちを支配する罪の力はキリストにあって失われてしまったのである。罪はもはや私たちをとりこにしておくことはできない。私たちを死に服させることもできない。なぜなら、キリストは罪と死に打ち勝たれ、私たちは今、罪と死に打ち勝たれたキリストの御霊の中にあって生きることが許されているからである。

この恩恵の積極面が4節に記されている。「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためです」(4節)。パウロは無律法主義者でも何でもない。律法なんて、もうどうでもいいとは言っていない。律法は良いものである。正しいものである。聖なる神のご意志である。私たち生まれながらの罪人は、肉の中にある者は、この律法の要求に応えられないのだが、パウロは、いのちの御霊に従って生きるならば、神の律法の要求に応えられるのだと言っている。肉にはできないことができると言っている。パウロは7章で、律法の要求に応えられない自分の情けなさ、みじめさを実例に挙げた理由は、いのちの御霊の働きに、私たちを目覚めさせるためである。

いのちの御霊の働きが必要なことを、4節の「肉に従って歩まず」ということばからも確認しておこう。残念ながら、私たちは何の努力もしなくとも、肉に従って歩むことができる。むしろ、肉に従わないように努力しても、気づけば肉に従っている現実がある。だから、どうやったら肉に従って歩まなくなるのか、それが課題となってくる。そこでキリストの御霊の登場である。私たちはキリストを信じて、キリストに結び合わされ、新しい人とされているので、キリストの御霊に導かれ、そしてこの御霊に従い歩むことができる。その秘訣を習得していきたいと思う。

最後に、御霊に従うことができるようになるために、いのちの御霊の働きについて、鳥を例に考えてみよう。私たち人間は神に従うように造られているが、鳥は空を飛ぶために造られている。飛んでこそ、造られた要求を満たす。そして、そこに自由がある。だが、いのちを失った鳥はどうだろうか。地に伏せったままである。「飛ぶのがあなたの務めで、あなたの責任だ。それがルールだ。さあ飛べ!」と言われても、死んでいたら、その要求に応えられない。要求そのものは間違っていない。だが大声で、「飛べ!飛べ!飛べ!」と、いくら言われても、飛べないものは飛べない。飛ばす力はその声にはないし、鳥そのものにもない。死んでいるわけだから。だが、その鳥にいのちを与えることが仮にできたら、その鳥は大空高く飛ぶことができるだろう。だが、もしその鳥が、いのちをいただいていたとしても、「私が新しいいのちをいただいたはずはない。これは夢だ。私は死んでいるのだ。私は以前のままだ。飛べるはずはない」と新しいいのちにゆだねようとしないならば、やはり、飛び立てないだろう。生きているようで死んでいるような中途半端さがそこにはある。

パウロは私たちに飛べない鳥のようになってほしくないわけである。飛べない鳥として知られているものに鶏がある。本来は飛べる。しかし、ほぼほぼ飛べない鳥と言われている。その原因は飛ぶことを要求されなくなったということがある。食べるために飼育される。飛ぶことではなく太ることが要求される。体重増加で飛びにくいからだとなってしまっている。羽も大して使わないものだから、退化してしまっている。鶏自身も、飛ぶという意識が薄れている。飛ぶ必要がない。またケージ飼いの場合、狭いスペースに閉じ込められてしまっているので、飛び立てない。一種のとりこ、捕虜である。仮に、鶏を外に放しても、最初はバタバタで終わりである。それは今挙げたような理由があるだろう。飛ぶ意識が低い。これは以前に実例を挙げたように、サーカス小屋の檻の中で飼われていたクマなどがそうである。檻から出して野生の世界に放しても、最初はサーカス時代の習性のまま、狭い範囲をぐるぐる動き回るだけだったそうである。檻から出してあげた人たちは、「広い所に出してあげたのに、何やっているんだ」と最初は見ていたそうである。しばらくして、ようやく、森のほうに移動したそうである。鶏の場合は、上方に飛ぶ意識が働かない。それプラス食べて太ることだけ要求されて飛ぶ習慣がないものだから、飛ぼうとしても大して飛べないという現実もある。実家で鶏を飼っていたので、鶏が飛ぶ様子を観察したことがあるが、鶏小屋から逃げ出し、飛んだと思ったら、電柱の2メートルぐらいの高さまで飛んで、バタッと落ちた。それでも、鶏にしては飛んだなと、子ども心に関心して見ていたことを記憶している。

神さまは私たちに、死んで地に伏せったままの鳥、あるいは、ケージ飼いで飛べない鶏のような鳥になることを望んではおられない。また飛んだとしても、バタバタ、ドスンの瞬間飛びで終わることを望んでおられない。真の自由を与えたい。私たちは死からいのちに移された。そして、もはやとりこの身ではない。古い自分は死んで新しくされたので、神のデザイン通りに羽を広げて飛ぶことができる。だから、どうせ飛べるはずないとか、そこにとどまることを望んでおられない。私たちは、飛ばせてくださる神さまに期待を寄せたいと思う。

ここで、イザヤ書40章31節のみことばを読んでみよう。新改訳2017の訳で読んでみよう。「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない」。このことばは、文脈的には、この世の力に飲み込まれそうな神の民に対するメッセージとなっている。信仰生活は神の力によることを教えている。飛べない鳥のような者たちが飛べるようになるのは、主がくださる新しい力のおかげである。この力は新約の民の場合、「いのちの御霊」によって与えられると受け取ることができるだろう。いのちの御霊の力である。しかし、この力は、生活の現場で自動的に働くわけではないようである。イザヤ書の表現で言えば、私たちは主を待ち望むという信仰を働かせるのである。この「待ち望む」ということばは、受け身でぼーっとしていることを指すことばではなく、棚から牡丹餅で待つ姿勢ではなく、前がかりになって期待することである。どうせ無理だではなく、飛ぼうとする姿勢を作り、主の力に期待することである。これを意識してするということである。前がかりになって期待する、飛ぼうとする姿勢を作る、と言っても、ガチガチに緊張していたら始まらない。体に走る緊張、心に走る緊張を緩め、ゆだねる思いで、主の力に期待する。それが待ち望むことであり、信仰である。その時、私たちはいのちの御霊の力に与り、いのちの御霊の働きにゆだねている自分を発見するだろう。そして真の自由を得ているだろう。束縛しようとする罪の力から解き放たれ、神のみこころの世界を飛翔しているだろう。実に、いのちの御霊は、死からいのちへ導き、うずくまっている者を起こし、ぐるぐると同じことを行うだけの悪習慣を断ち切らせ、みこころの大空に飛び立たせてくださる。

来週以降も引き続き、ローマ人の手紙8章から御霊について学んでいく。今年のテーマは「御霊に導かれて」である。私たちそれぞれが、いのちの御霊の働き与る経験を、日常生活の現場で積んでいこう。