パウロは7章において律法を一つのテーマに話していく。前回の1~6節では、律法は厳格な夫にたとえられていた。細かなところまで正確さを要求する。そこに嫁いだ者は自分のいたらなさを痛感することになる。自分の罪を示されることになる。こうして罪を自覚させられた妻は、あのキリストの十字架に、自分の罪の裁きを見ることになる。そして律法に対して死に、死者の中からよみがえられた新しい夫キリストと結ばれて、キリストの愛と恵みを実感しながら、新しいいのちを生きることになる。

パウロの教えを聞いて、かつて律法の教師であったパウロの一大転換に多くの人が戸惑いを見せたようである。パウロを無律法主義者であるかのような疑いをかけた人たちがいたようである。無律法主義のキリスト教は現代もある。大概、神の愛と優しさを強調する。強調するのはいいのだが、罪は大したことではないといった態度を取る。もしくは、「神は誰でも彼でも救ってくれる」といった主張をし、悔い改めない人にも救いを提供する。パウロを批判する人たちの多くは、律法主義的なキリスト者であったと思う。無律法主義もいけないし、律法主義もいけない。当時、律法の理解について混乱があったことは間違いない。

今日の区分では、「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか」(7節)という問いかけで始まっている。なぜだろうか。5節では「私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いて」と、律法と罪が密接な関係にあるものとして描写されていた。こうしたことなどを受けて、律法は罪なのかと疑問を投げかけられることを想定したのだろう。いや、実際、そういう質問が投げかけられていたかもしれない。しかし、律法は罪ではない。前回お話したように、禁止命令を出されると、私たち罪人はそれを破りたくなる衝動にかられることがある。取ってはいけないと言われると取りたくなる、見てはいけないと言われると見たくなる、してはいけないと言われるとしたくなる、そういった罪の欲情(欲望)が私たちのからだに働く。それは律法と罪が結託しているわけではない。律法とはあくまで神が人間を愛して与えた戒めである。それは、この世の法律や規則を考えてもわかる。海外では新型コロナのパンデミック対策として夜間外出禁止令を出した国がある。それは感染を抑えるためである。交通規則がある。街を歩けば、すぐに目にするのが信号である。事故を防ぎ、いのちを守るためである。また街中にある公園を取りまく柵を考えてみよう。その柵には、ここから先で遊ぶのは禁止というメッセージが込められている。安全のためにである。そこを飛び越えると、車に轢かれるなど、死の危険が待っているからである。こうしたことからもわかるように、神の戒めである律法自体は罪ではない。その逆である。だから、律法によって禁止されたことをしたくなってしまう私たち側に問題がある。

パウロは今日の区分では、律法を擁護しようとしていることがわかる。彼は律法の働きを告げている。最初にはっきりしておきたいことは、罪とは律法違反であるということである。旧約聖書の士師記は、数々の罪を記録した後に、「めいめいが自分の目に正しいと見えるところを行っていた」という文章で終わっている。現代も、こうした混沌とした状況が続いている。別の言い方をすると、罪の定義が自己本位の世界になっているということである。自分が罪と思うことだけを罪にしているという現状がある。人間は自己中心である。ある方が電車に乗ったときに、自分が望む進行方向と反対に走っていることに気づいた。その人は、単に電車に乗り間違えただけなのだが、車掌をつかまえて、「この電車まちがっている。反対方向に走っている」と言ったそうである。また民家が立ち並ぶ30キロ走行の道路で、60キロで走り、スピード違反で捕まったとしよう。捕まった人が、「60キロで走っても問題ない道路だ。交通法規のほうがまちがっている。俺が正しい法律だ」とやっていたらどうだろうか。しかし、笑えない話である。それを私たち人間は神に対してやっているからである。「めいめいが自分の目に正しいと見えるところを行っていた」とあったように、自分が善悪の基準、罪の指標となってしまっている。罪を罪として判定する資格のある審判者は、律法を与えた神であることを忘れてはならない。だから、私たちは律法という神の戒めは知っていなければならない。

これから律法の働きを三つ挙げてみよう。律法の働きの一つ目は、律法は罪を知らせるということである。「ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう」(7節b)。私たちは聖書を読むことによって、自分の罪を知らされることになる。これまで罪とははっきり認めていなかったことを認めざるを得ないようになる。パウロはその一例として、十戒の第十番目の戒めを挙げている。「『むさぼってはならない』と言われなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう」(7節c 新改訳2017「(隣人のものを)欲してはならない」)。出エジプト記の本文はこうなっている。「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない」(出エジプト20章17節)。これを一言で要約すると「むさぼってはならない」となる。パウロはなぜこの戒めを取り上げたのだろうか。この戒めが十戒を要約するような戒めだからである。一番目の戒めは、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」であるが、パウロはコロサイ人の手紙3章5節において、「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです」と語っている。心の欲望が偶像をつくってしまうわけである。ご利益的霊性が偶像を生むのである。むさぼる精神、欲する精神が、ご利益をもたらす偶像を生んでしまうのである。その他、「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「うそをついてはならない」など、みなむさぼりに起因している。むさぼりはブラックホールのようで、自己中心性の毒である。神への愛、隣人愛と真っ向から対立する精神である。このむさぼりが、すべての罪の下地になっている。そしてこのむさぼりが古い人の精神なのである。むさぼりを引き起こす古い人のふさわしい場は十字架しかない。「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた」(6章6節)とあるとおりである。

13節後半には、「罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、極度に罪深いものとなりました」とある。戒めによって、罪は罪として明らかにされ、その罪は重いものであるという認識に至った、ということである。昔ならば、このくらい罪のうちには入らないと思っていたことも、神の戒めに触れて、非常に重い罪として認識するようになった、ということはないだろうか。クリスチャンならば誰でもあるはずである。新改訳2017は、13節後半を「罪は戒めによって、限りなく罪深いものとなりました」と訳しているが、私たちは聖書を読んで、これを体験していく。昔は気にも留めなかったことが、神の前にひざまずいて告白しなければならない、限りなく罪深いものとなり、悲しむことになる。

律法の二つ目の働きは、罪を生きものにするということである(8.9節)。8節前半では、「しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ」と、律法はむさぼりという罪を引き起こす足場になったことが言われているが、8節後半では、「律法がなければ、罪は死んだものです」と言われている。律法がなければ罪は活動しない。死の眠りについている。9節では「私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました」と、罪が生きたことが言われている。「罪が生きる」とは、どういうことだろうか。「生きる」<アナザオー>は、「再び生きる」「いのちを吹き返す」といった意味がある。「罪が生きる」を、「罪がおきあがり」と訳す方もおられる。戒めが来たことによって、罪がむっくりと起き上がってしまった、というのである。これは創世記2,3章のアダムとエバの罪の事件を考えてみればわかる。アダムに戒めが与えられた。「善悪の知識の木からは取ってはならない」と。この戒めによって、むさぼりの罪が引き起こされた。「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった」(3章6節)とある。「好ましかった」ということばは、十戒で禁じられていた「欲しがる」ということばと同じである。戒めの後にむさぼりという罪が起き上がり、二人はその実を取って食べてしまった、ということである。律法によって、罪という眠れる獅子が起き上がってしまう、息を吹き返してしまう、ということが起きる。

律法の三つ目の働きは、私たちを死に導くということである。「それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることがわかりました」(10節)。これも、先ほどのアダムとエバの物語を思い出す。二人には、「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と警告が与えられていた。だが戒めを破って、死が入った。二人はいのちの木から遠ざけられ、エデンの園から追放された。律法の性質だが、律法を全て守ることができればいのちを得る。しかし、律法の一つでも破ればアウトである。「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです」(ヤコブ2章10節)。律法違反の結末は死である。律法は私たち罪人に死の引導を渡す。もうあなたにいのちはないと。この場合の死とは、いのちそのものである神との分離であるが、死の引導を渡すのが、律法の役目である。

11節では、死に導く律法と罪との関係が描かれている。「それは、戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです」。ここでは、戒めを足場にして、戒めを利用して罪が私たちを欺いたことが言われている。どういうことだろうか。罪は実体を隠し、人を欺くために、律法の背後に隠れて人に近づく。罪は私たちが律法を破った瞬間、正体を現し、私たちを殺す。すなわち、「罪から来る報酬は死です」(6章23節)という罪の呪いを実現する。私たちに死をもたらす真の原因はあくまでも罪である。12節で言われているように、「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いもの」である。だが、その良いものの背後で、罪が私たちを襲おうと待ち伏せしている。神はカインに言われただろう。「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている」(創世記4章7節)。こうしてカインは弟アベルを殺してしまうことになるわけだが、「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている」というのは、私たちにも当てはめることができる。罪は律法を隠れ蓑にして、待ち伏せている。

13節前半でも、罪がこの良いものを利用し、私たちに死をもたらすことが言われている。「では、この良いものが私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです」。律法は利用されてしまっている存在で、全くの良いものにすぎない。だが両者は密接な関係にあるわけである。

今朝は、今日の箇所から律法の三つの働きを見てきた。罪を知らせること、罪を生きものにすること、私たちを死に導くこと。だが、これで終わったら私たちに救いはない。実はもう一つある。それは、ローマ人の手紙8章に進めばはっきりわかることなのだが、律法は私たちをキリストのもとに導くということである。8章の講解は先に譲ることとして、今朝は、参考として、ガラテヤ人の手紙3章24節を読もう。「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです」。神さまが律法を与えた大切な目的がここに記されている。それは私たちに罪を自覚させ、死に導き、最終的には、私たちの罪のために十字架で死なれ、よみがえられたキリストのもとに導くためなのである。「養育係」とは、当時の上流家庭の子どもの世話役というか、召使というか、家庭教師というか、そんなところだが、律法はただの死の引導役で終わらない。キリストへ導くための養育係の役目を果たす。キリストの十字架のもとに導き、キリストの死はわが罪のためなりと告白させ、キリストのいのちに与らせる働きをする。

私たちは、キリストのもとに導かれただろうか。キリストは律法ができないことをしてくださる恵みの主である。律法は私たちを罪に定め、死刑宣告を与えるが、キリストは反対に私たちに罪の赦しを与え、義を宣告してくださる。そして、律法を守れない不完全で罪に陥りやすい私たちを助けるべく、人生の同伴者となってくださり、御霊の助けを与えてくださる。そのことによって神の御旨を行わせてくださる。私たちは、キリストに拠り頼む者として歩んでいるだろうか。キリストは私たちにどのような助けを与えてくださるのだろうか。そのことを伝える証を一つ紹介しよう。

ある一人の牧師の証である。「私は非常に短気です。つい最近も、日曜学校で子どもたちに話をしていましたが、いつになくざわついていました。もう少しで怒るところでしたが、上を見上げるように導かれたのです。そこに、静かで優しく、しかも強い救い主が立っておられるのを見たのです。そこで私は、『主よ。あなたの忍耐をお与えください。私の忍耐は切れてしまいそうです』と祈るように導かれました。ただちに主は、私の忍耐を越えたご自身の忍耐を心の中に落としてくれた感じがしました。もう私は、子どもの数が二倍になっても、ざわつきが二倍にふくれ上がっても、自分を見失うことがないと思いました。その時以来、私は同じ方法をやっています。傲慢になるように誘惑されると、『主よ。あなたの謙遜をください』と言い、短気を起こすように誘惑されると、『主よ。あなたの忍耐をください』と祈るんです。こうして、誘惑はかえって、積極的恵みの手立てとなってしまいました。」

この方のように主の御座を仰いで祈る習慣をもつことは良いことである。傲慢、短気の誘惑は誰にでもある。また、為すべき務めがあり、自分の力無さ、弱さにあえぐ時は、聖霊をひたすら求める祈りをすることも良い。また、心が闇に打ち負けそうなときは、「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1章5節)とあるように、光は闇に打ち勝つことを知って、主の光を呼び求めることも良いだろう。「私たちを試みに会わせないで悪からお救いください」と祈る、主の祈りを祈ることも良いことである。自力では罪に勝てず、霊的な無防備さは敗北に至ることを知って、主に拠り頼むのである。神の戒めとしての律法を頭で理解しているだけでは足りない。キリストに対する信仰を働かせるのである。むさぼりがむっくり起き上がってきたら、十字架を仰ぎ、むさぼりに与えられた場所は十字架であることを思い返し、キリストに拠り頼むことである。

律法は神の御旨を行う力を与えるものではない。神の御旨を示すだけである。神の御旨を行う力を与えるのはキリストである。別の表現をとると、律法は神の意志を行う力を与えるものではない。神の意志を示すだけである。神の意志を行う力を与えるのはキリストである。それだから、キリストに信仰を働かせなければならない。パウロは先にこう述べていた。「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです」(3章21節)。キリストに対する信仰は、かえって律法を確立する。パウロの主張は無律法主義でも、自力が原理としてある律法主義でもない。

パウロはキリストに拠り頼む者の生き方を8章において教えることになるが、パウロは、その前に、私たちが真の意味でキリストに拠り頼む者となるために、7章において私たちを立派な罪人に仕立て上げる。そして次回に見る7章14節以降で、自分の罪人としての姿に徹底的に絶望させようとする。8章はローマ人の手紙の最高峰と言われることがあるが、手前の7章は、谷底の泥沼でもがく罪人の描写となっている。それは、みじめな罪人としての姿である。次回は、罪人としての自分の心の地下の暗闇を旅していくようなエネルギーのいる内容で、自然界の絶景を眺めるのとは違って、目を背けたくなるような現実が描写されているわけだが、こうした心の旅がキリストの魅力を再発見するために欠かせないのである。キリストが私たちにとって、すべてのすべてなることが私たちの願いである。