今日は、私たちがキリストと結ばれたことをはっきりと自覚する時としたい。7章を三度に渡って学ぶ予定だが、7章は「律法」という表現が目立っている(23回 原語<ノモス> 21節「原理」<ノモス>を含む.新改訳2017別訳「律法」)。パウロは今日の区分で何を意識させたいのだろうか。それは、私たちが律法から解放されて、キリストと結び合わされたということである。

パウロが律法という表現を多用する前提は、6章14節を見ていただければわかる。「・・・あなたがたは律法の下にはいなく、恵みの下にあるからです」。この節の解き明かしのときに、私は律法をスポーツの審判員に、または警察にたとえた。律法は厳しい目で私たちを見て、私たちをルール違反、規則違反と判定し、私たちを罪に定め、罪の裁きに服させる。だが恵みは、キリストにあって私たちの罪を赦し、私たちを義と認め、永遠のいのちを与える。

だが、これを素直に受け入れない者たちが現れることもパウロは想定した。特にユダヤ人たちのことを意識したのだろう。ユダヤ人たちは律法を持っていることを誇りとしてきた民族である。律法をないがしろにしていいとでも思っているのか、という批判が聞こえてきそうである。また、安心して罪を犯してもいいんだなという屁理屈が聞こえてきそうである。そこでパウロは6章15節で「それではどうなるのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません」と、罪を犯すことを奨励しているのではない、罪を犯そうなどというのは罪の奴隷に舞い戻るような行為だ、と戒め、あなたがたは罪の奴隷ではなく、すでに神の奴隷なのだよ、あなたがた自身とその手足を義の奴隷として献げなさい、と命じた。

パウロは7章に入り、なおも、律法を重んじてきたユダヤ人、また律法主義に陥りやすい人たちを前提にして語っていく。6章との違いを一つ述べると、6章ではパウロは奴隷のたとえを用いた。あなたがたは、主人が罪から神に代わったのだよと。7章に入ると、今度は結婚のたとえが用いられている。

1~4節を読むと、結婚関係の律法を述べて、そして今の私たちの立場を結婚関係にたとえて語っている。しかも、再婚ということが意識されている。再婚はいつ可能なのだろうか。夫をもつ女性が他の男のところに行けば、不貞の妻とされてしまう。二人の夫をもつ重婚など許されないからである。結婚関係を終わらせ、再婚が許されるのは、夫が死んだ時だけである。死が結婚関係を終わらせるのである。死が奴隷の主人との主従関係を終わらせるのと同じである。パウロは、今日の区分において、私たちは律法と死別し、キリストと再婚したことを語っている。

「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対して死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです」(4節)。よく見ると、私たちがキリストと再婚するために、律法が死んだのではないことがわかる。私たちが「律法に対して死んでいるのです」と言われている。どうやって死んだのか。それは「キリストのからだによって」と言われているが、キリストのからだが十字架につけられて死んだ時、私たちも死んだ。私たちはキリストにあって、キリストともに死んだ。「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた」(6章6節前半)。そして今、死よりよみがえられたキリストに結び合わされた。キリストと結ばれた私たちである。夫が、主人が新しくなった。

では、律法という夫と、キリストという夫を比較してみよう。まず律法という夫である。非の打ちどころのない人物である。そして厳格な完全主義者である。ここに嫁ぐことになる。夫は厳格なので、細かな点まで正確さを要求する。家事は完璧でなければ許されない。ごみ一つ落ちていたら指摘される。ごみ箱の中にごみがあることさえ許されないような雰囲気である。着るものも、滲み一つ、皺一つ許されない。完璧な洗濯とアイロンがけが要求される。料理は塩分、糖分の匙加減にうるさく、味、栄養バランスの失敗は許されない。そして、身だしなみ、所作もいちいちチェックが入る。徳高いことももちろん要求され、夫、子ども、姑、隣人に対する優しい気遣いや、おしんのような忍耐も求められる。かつ、早朝起きて夜床に就くまで、働き者でなければならない。妻はしんどくなってしまうが、冷徹な目で見ると、夫の要求は何も間違っていないことに気づく。そして、自分はぐうたらであると悩む。

江戸時代の面白い話を読んだ。ある日、さる道学者が妻と二人でいたとき、ふとしたはずみで妻のたもとからコロコロと、白い糸玉と黒い糸玉が転がり出た。あわてて拾う妻のそぶりがどうも怪しいので、夫は「それは何のことだ」と問いただした。妻は、やや顔を赤らめながら話した。「あなたの妻としてふさわしいよう、私も自分の行いを、教えにかなった正しいものにしなければと思い、日々、自分の行いを省みて、良いことをしたと思うときには白糸を一玉巻き、悪いことをしたと思うときには黒糸を、というようにしてみました。ところがお恥ずかしいことに、このとおり、白糸の玉はさっぱり大きくならず、黒糸の玉ばかりがズンズンふくれてくる始末です」。

律法という夫は、では大変だろうと、要求のレベルを下げることはしない。妥協は一切なしである。だから、全てが几帳面で正確でなければならないし、完全な徳を持ち合わせていなければならない。妻は厳格な夫の要求に応えられず、悩みは深まるばかりである。夫の要求は、言い知れない耐えがたい重荷となっていく。ああ、もうだめだ!

だが、ある時、律法に対して死に、ということが起こった。そして主イエス・キリストという新しい夫に仕えることになった。こちらの夫も非の打ちどころのない人物である。罪は全くなく、聖く正しい。福音書を読めば明らかであるが、キリストの倫理道徳基準は、律法学者のそれより厳しかった。キリストは、たとい行いに表れなくとも、心の中に悪を思うだけで罪であると教えられた。にもかかわらず、罪人、収税人と呼ばれる罪深い者たちが、キリストを慕って集まってきた。では、キリストは律法という夫とどこが違うのか。それは、一口で言うと、恵みがあるということである。失敗、過失、罪に対する赦しがある。それは罪に妥協するということではない。赦しがあるということである。完全な赦しがある。それにまた、弱さをおもんぱかって助けの手を差し伸べてくださる。キリストは言われた。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイ11章28~30節)。「くびき」は牛が荷物を引っ張るときに首につけるものであるが、キリストはくびきをともにしてくださり、重荷を軽くしてくださる。それは愛のくびきである。キリストがこのことばを語られた時、特に、律法主義の重荷に疲れてしまった人たちを念頭に置いていたと思われる。パリサイ人たちは多くの規定を考え出して、律法のくびきを重荷にしてしまった。だがキリストのくびきを負う者には安息が来るのである。それは愛のくびきだからである。

そして、キリストと結ばれた生活を送っている者は、4節後半で言われているように、「神のために実を結ぶように」なる。キリストがぶどうの木のたとえで語られたことを思い起こす。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」(ヨハネ15章5節)。

キリストと結ばれた生活を現実のものとし、神のために実を結ばせてくださるのが、6節で言われている「新しい御霊」である。御霊とはキリストの御霊であり、キリストの臨在の霊である。この御霊による歩みは8章で論じられていくので、詳しくはそちらに譲ろう。

5節に目を落とそう。「私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いて、死のために実を結びました」。パウロは、キリストという夫と律法という夫がもたらすものを比較している。キリストと結ばれると、今見たように、神のために実を結ぶようになる。では律法という夫と結ばれていたときはどうであったかというと、「死のために実を結びました」ということである。6章23節の「罪から来る報酬は死です」を思い起こす。「死」とは罪に対する処罰である。では、律法は罪と結託しているのか?そうではない。律法という夫の命令や指摘は正しい。しかし、それによって数々の罪の欲情をかきたてられるということが起こる。律法が悪いのではなくて、罪の欲情がかきたてられてしまうという私たちのほうに問題がある。律法という夫が、これをしてはならない、あれをしてはならない、と禁止命令を出したとする。それに対して、分かりましたと口では言うも、頭では分かっているも、禁止されたことをしたくなるのが人間の性(さが)である。日本民話に舌切り雀がある。雀のお宿に押しかけたお婆さんは、欲張って大きなつづらを強引に受け取った際に、「家につくまでは開けてはなりません」という注意を受ける。しかしお婆さんは家路に向かう途中、何が入っているのか見たくなり、「家につくまでは開けてはなりません」という約束を破り、開けてしまう。中から魑魅魍魎や虫や蛇が出てきて、お婆さんは腰を抜かして気絶してしまう。してはいけないと言われると、罪の欲情がかきたてられてそれをしたくなり、それをかなえようと行動に出てしまうことになる。結果、いいものは何も得ない。そして、愚かにも、同じことを繰り返してしまうのである。

5節では、このように罪の欲情と関係づけられているのが「肉」である。「私たちが肉にあったときは」と言われている。「肉」<サルクス>は単純に「肉」「肉体」という意味ももつが、「肉にあったときは」とは、ダイエットする前の肉付きがいいときの体の状態を言っているのかというとそうではない。ヨハネの福音書1章14節では、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」と、キリストの受肉について言われている。「ことばは人となって」は、直訳すると、「ことばは肉<サルクス>となって」である。キリストが人間存在となられたことを「肉」<サルクス>で言い表されている。では、キリストは悪い存在になられたのだろうか。肉そのものは、悪い存在ではない。ただ弱い存在である。罪に陥りやすく、自己中心になりやすい弱さ、脆さがある。キリストは肉となられたゆえに、飢え、渇き、悪魔からの誘惑も受けたことが福音書に記されている。しかし、罪は犯されなかった。では、私たちの肉はどうであるかと言うと、キリストのそれとは少し違う。私たちの肉には罪が巣食っている。罪が寄生している。つまり、原罪を宿しているということである(5章12節)。パウロが5節で「肉」という場合には、罪が住み着き、罪に汚染されてしまった人間存在について語っているようである。18節前半も、そのことを言っている。「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています」。

肉との戦いはクリスチャンになっても続くことになる。それは7章後半、8章の記述からも明らかなのだが、パウロは5節では、なぜか「肉にあったときは」と、あえて過去形で語っている。なぜだろうか。その答えは8章9節にある。「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるからです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」。肉というのは、キリストとともに十字架につけられた古い人の本体である(6章6節、ガラテヤ5章24節参照)。キリストを信じた者は、今、肉の中にいるのではなく、キリストの御霊の中にいるのである。キリストと結び合わされているこの霊的立場をパウロは意識させたい。パウロは、罪に負け、律法の要求に応えられず、肉的生活を送ってしまう私たちに、キリストという存在を思い起こさせ、キリストと結び合わされたことを思い起こさせ、キリストの御霊の働きに与らせようとしている。

今日の区分では特に4節に心を留めたい。「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対して死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです」。私たちは、キリストと結ばれた者たちであることを認めよう。さて、キリストと結ばれた者のあり方とは何だろうか。キリスト眼中になしで、独り身のように生きていくことではないだろう。私たちは、キリストを「主」と呼んで仕える身とされている。「主」とは主人の意味であるが、私たち日本人が考える以上に強い意味を持つことばである。それは聖書の世界において、神に対する称号として使われていることからわかる。キリストを主とするということは、自分の人生のあらゆる領域において、キリストの主権を完全に認め、このお方に従って生きる、このお方の御旨に沿って生きる、ということである。しかしながら、キリストという主人は、律法という主人とは違うということである。キリストは律法という夫とは違って、恵みの主であるということである。まず、キリストの十字架の愛を覚えよう。キリストは私たちの罪を赦すために十字架に向かってくださった。「父よ。彼らをお赦しください」と祈って、赦しのささげものとなり、快く赦してくださった。いやいやながらでもなく、仕方なくでもなく、愛をもって赦そうとしてくださった。しかも、軽い罪だけ赦そうではなく、罪の一部を赦そうでもなく、すべての罪を赦してくださった。どんな醜い罪であっても赦してくださった。今も赦してくださる。そのために、御自身を十字架の上で犠牲にしてくださった。そして日常の生活において、私たちの弱さを知って、私たちを御霊によって内側から助け、人生のすべてに介入し、二人三脚で歩んでくださる。このキリストを見失ってはならない。

私は、バッハのカンタータの日本語訳を読んでいて、単純な一節に感動したことがある。それは、「信仰はイエス・キリストを見つめます」。単純だけれど、偉大な真理だと思った。「信仰はイエス・キリストを見つめます」。使徒ペテロはガリラヤ湖上で、大嵐を経験したときに、吹き荒れる波風に目と心を奪われ、沈みかけたという逸話がある(マタイ14章後半)。最初はキリストに焦点を合わせていた。キリストを見ていた。でも最初だけだった。そして沈み始めた。彼は波風に目を奪われただけではなく、自分の無力さにも気を取られ、緊張が走ってしまったのだろう。

私たちは、自分と主キリストとの関係を、みことばが告げているように認めることから始めたい。私たちはキリストとともに十字架につけられ、キリストとともによみがえった。今の私たちは、今日のたとえではキリストと結ばれた花嫁である。キリストと一心同体とされている。それは事実である。それに不服はないはずである。では、キリストの愛のうちにとどまろう。そしてキリストから目を離さず、必要な助けと力をキリストからいただき、神のために実を結んでいこう。