パウロは6章に入って、奴隷ということばを一つのキーワードにして話を進めていくが、奴隷という存在は、ローマ帝国にあって身近な存在であった。ローマ人は大きく二つに分類すると、自由人と奴隷に分かれた。奴隷は帝国内に数千万人いたわけだが、奴隷は自由人の所有で自分に関する権利をもたない存在である。法律においては、奴隷は自由人の道具である。前回お話したように、奴隷は雇われ人ではない。サラリーマンではない。奴隷は主人の完全な所有物であり、自分の手も足も、もはや自分自身のものではない。奴隷は完全に主人に服従する義務がある。奴隷として仕える期間は死ぬまでである。奴隷は死んでようやく、法的拘束力から解かれる。主人から解放される。

パウロはこれまで、私たちは罪の奴隷であったけれども、キリストの十字架と復活によって、罪から解放されたことを教えてきた。「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです」(6,7節)。今の私たちは、キリストの十字架の贖いを通して、罪という主人から解放されて、神さまという新しい主人をもった。「このように、あなたがたも、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい」(11節)。「思いなさい」は「認める」と訳せることばで、会計用語であった。自分は罪に対して死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、そう計算し、決算し、心の帳簿に記入しなさい、そのようにして、事実を事実として認めなさい、ということであった。その者は当然、我が身を神に献げて生きることを選び取るはずである。12,13節では、自分自身とその手足を、罪にではなく神に献げるように、神への献身が命じられていた。そしてパウロは14節において、恵みということばを使って、私たちの新しい立場を示した。「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはいなく、恵みの下にあるからです」。今の私たちの立場は、罪という主人から解放されて、罪に定めようとする律法の下にはおらず、恵みの下にある。私たちは、恵みによって、ただキリストを信じる信仰によって、罪赦され、義と認められた。前回、律法は「する」の世界で、恵みは「してくださる」の世界であることをお話した。キリストは救いに必要なことをすべてしてくださった。キリストは誰も送って来なかった義の生涯を送り、その上で、私たちが受けるべき罪に対する裁きを一身に引き受けてくださった。今や、キリストを信じる者すべてに無罪判決が下る。もはや、律法によって死の刑罰が下されると悩む必要はない。

こう述べたパウロは、キリストにある恵みをなお受け入れない人や、恵みを安っぽいものにする人が起きることを案じていく。「それではどうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるでしょうか。絶対にそんなことはありません」(15節)。パウロは、神の戒めなんて無視してしまいなさいと言っているわけではない。ただ、律法の行いによって義と認められることはできない、と主張してきただけである。また、どうせ罪は神の恵みによって赦されるんだから、これまで通り罪を犯しても大丈夫、と言っているのではない。パウロは、「罪を犯そう」というのは罪の奴隷に逆戻りする愚かな行為であるということを論じていく。残念ながら、現代でも恵みを放縦に変えてしまうようなクリスチャンたちがいる。恵みを安っぽいものにしてしまっている。今日の教えに耳を傾けなければならない。私たちは安心して罪を犯すために信仰を持ったのだろうか。そうではないはずである。

そのことをキリストの十字架上の死が物語っている。私たちはキリストとともに十字架で死んだ。罪という主人から解放された。そして今の立場は、死者の中から生かされ、新しいいのちをいただいて、神の奴隷ということである。神の奴隷ということにおいて、真の自由がある。キリストは十字架にかかる前に、「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。真理があなたがたを自由にします。」と語られた(ヨハネ8章31~36節)。キリストは、罪を主人とする惨めな状態から私たちを救うために十字架に向かわれた。十字架でキリストとともに私たちの古い人は死んだ。そして私たちは、キリストのよみがえりのいのちをいただいて、神に仕える身とされた。神に仕えることこそ、真の自由なのである。罪に仕えていると、一時的に欲望が満たされた喜びを覚えることがあるが、空しさや、罪責感や、自己嫌悪が襲ってきて、罪の牢獄に閉じ込められている自分を発見するだけである。しかし、神に仕えていると、真の意味での開放感を味わい、喜びと平安に包まれる。

人間の立場としては、罪の奴隷になるか神の奴隷になるか、二つに一つしかない。どちらの奴隷にもということはない(16節)。奴隷は二人の主人に仕えることはできない。雇われ人であれば、昼はこの会社の主人に仕える、夜は別の会社の主人に仕える、と掛け持ちができる。だが、奴隷はただ一人の主人をもつだけである。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません」(マタイ6章24節)。人は、自分は主人はいらないと言っても、何かに自分を献げていることを知っておいたほうがいい。偶像の神々の奴隷、富の奴隷、欲望の奴隷、虚無の奴隷、偽りの教えの奴隷・・・究極的には、罪の奴隷か、神の奴隷かのどちらかに仕えていることになる。

私たちは意識して罪に献げて生きていないというかもしれない。好き好んで罪を犯しているわけではないという言い訳もする。心の中で抵抗しているというかもしれない。だが、気がついたら、罪に身を献げているという現実がある。そして、自発的に身を献げてしまう場合がある。当時、自発的に奴隷の身分を選ぶこともできた。つまり、このままでは経済的に破産すると、それを避けるために身売りしたということである。奴隷になれば生き延びることができると。しかし、罪は、自分の身の安全のために自発的に選ぶ主人としては最悪である。「罪の奴隷となって死に至り」(16節)とあるからである。このことについては、23節で詳しくお話する。

パウロは、さあ、あなたがたは、罪の奴隷と神の奴隷の、どっちを選択する?と言っているのではない。あなたがたはすでに、神の奴隷とされている、と言っているのである(17,18節)。「伝えられた教えの基準に心から服従し」神の奴隷となったと言われているが、「伝えられた教えの基準」とは、いわゆるキリスト教教理問答である。世界を創造した創造主なる神がおられる。人はみな神にそむき、神の前に罪人である。罪は神と人との交わりを断ち切り、永遠の裁きをもたらす。まことの神がまことの人となり、私たちの罪の身代わりに十字架についてくださった。そして三日目によみがえってくださった。キリストを信じる者には罪の赦しと永遠の救いがある。キリストはやがて再び来られて、この罪の世界を一掃し、御国を完成してくださる。こういった教えである。キリストの福音がその中心である。それを信じ受け止めて、私たちは罪から解放されて「義の奴隷」となった。ここで「神の奴隷」と言わないで、「義の奴隷」と言われているのは、罪が意識されているからである。「罪を犯そう」なんて言ってほしくないからである。

この「罪から解放されて、義の奴隷となった」というのは事実である。「罪から解放されて」という動詞は不定過去(アオリスト)で、つまり、過去の一時点において罪からの解放という決定的瞬間があった、転機があったということである。そして神の奴隷、義の奴隷とされている。「義の奴隷となった」という動詞も不定過去である。もう私たちはすでに、神の奴隷なのである。キリストを信じた時に、そうされたのである。それを信じ、認めることが大事である。すでに罪から解放されて神の奴隷なのに、「罪を犯そう」などというのは矛盾である。

パウロの願いは現在の立場をしっかり認めて、「罪を犯そう」ではなく、聖潔に至るために、自分の手足を義の奴隷として献げることである(19節)。献身がもたらす「聖潔」という表現は罪が意識されているわけだが、19節では対義語として「汚れ」「不法」という表現がある。「聖潔」はそれと反対のことばで、「聖潔」を砕いた表現にすると、「聖くなること」となる。この個所等から「聖化」というキリスト教用語が生まれた。クリスチャン生涯は聖化の途上にあるわけである。それはキリストに似せられていく過程と言えるだろう。ここで、聖化の秘訣は献身にあることが教えられている。聖化は、その手足を義の奴隷として献げるという具体的生活によって得られるものである。神秘体験によって得られるとか言われていないことには注意したい。

20節は、少し意味がわかりにくい。「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については自由にふるまっていました」。これは、最初に述べた奴隷の役割からわかる。奴隷は、完全に主人に服従する義務があった。罪の奴隷であった時は、罪に服従すればいいのであって義に服従する義務はない。義の奴隷ではないから。罪さえ犯していればいい。それが仕事である。義を行わなければならない責任はない。そういう意味では義については自由である。でも、そのようにして義をないがしろにし、罪に服従し、罪にお仕えしていると、とんでもない顛末がやって来る。

最後に21~23節を読んで、罪の顛末を知ろう。また、神の下さる賜物を知ろう。23節は21,22節の要約であり、6章全体の結論として言われている。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」。「罪から来る報酬は死です」とある。悲惨な顛末、結末である。「死」とは以前も説明したように、それは罪がもたらす裁きである。それには三つある。肉体の死、霊的な死、永遠の滅びの三つである。死とは基本的に、いのちの神との分離を意味している。そのような意味で、心臓が動いていても、罪人は死んでいると聖書で言われている。この霊的な死に肉体の死が続き、そして最終的な死が訪れる。それが永遠の滅びである。黙示録20章13~15節では、最後の裁きの様が描写されているが、そこでは「第二の死」と表現されている。パウロが「罪から来る報酬は死です」と言ったときに強く意識しているのが、この第二の死、永遠の滅びのことであると思われる。キリストはこれを「永遠の刑罰」(マタイ25章46節)と呼んでいる。これが罪の報酬なのである。「報酬」とは以前も述べたように、働きに対する対価として支払われるものである。いわば給料である。私たちが罪という主人に仕えるときに、報酬として何がもらえるのか。罪のために多大なエネルギーを費やし、時間を費やし、献身的に仕え、身を粉にして仕え、最終的には、永遠の裁き、永遠の暗闇が待っているだけである。これが罪の奴隷に支払われる報酬である。最悪である。

悪魔は常に、私たちが罪の奴隷にとどまるように誘惑する。罪に誘惑するのが悪魔の仕事であるが、悪魔は私たちの願いや欲望をかなえてくれる親切な存在を装う。悪魔がエデンの園でエバを誘惑した時がそうであった。悪魔は私たちのことを大事に思っているかのように近づく。けれども、悪魔は私たちのことをこれっぽっちも愛してはいない。詐欺師と一緒である。うまい話を持ち掛けて、奈落の底に突き落とす。罪を罪と思わさせずして、私たちを神から引き離してしまうことしか考えていない。そのためには、どんなこともする。甘い言葉をかけ、永遠のいのちも約束するかもしれないが、その反対の死に引きずり込むだけである。

それに対して、神の下さる賜物は何だろうか。それは「私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのち」である。キリストはある時、「人はたとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう」(マルコ8章36節)と言われたが、このいのちが永遠のいのちである。「永遠のいのち」とは、単に、長い長い、いつまでも続くいのちを指すのではない。先ほど、死とは神との分離であることをお話したが、神ご自身が、そして救い主キリストが、永遠のいのちそのものなのである。「わたしは、よみがえりです。いのちです」(ヨハネ11章25節)。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17章3節)。「私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです」(第一ヨハネ5章20節)。この永遠のいのちは報酬として与えられるとは言われておらず、賜物として与えられることが言われている。「賜物」とは、「贈り物」「プレゼント」のことである。それは無料で与えられる恵みなのである。それが永遠のいのちなのである。

罪という主人は、きっちり見合った給料を支払ってくれる。未払いなどという不誠実なことはしない。働きに見合った報酬を十分に支払ってくれる。しかし支払われるものは死の毒なのである。この給料が支払われることを知らずに、多くの人が、汗水流して、罪のためにせっせと働くことしているという現実がある。一生懸命穴掘りをさせられたら、しまいには自分たちの掘った穴に投げ込まれるのと一緒である。それに対して神は恵み深いお方である。私たちを罪の奴隷状態から救ってくださったばかりか、それを受けるに値しない私たちに対して、気前よく、永遠のいのちを恵んでくださるのである。これが神の奴隷として仕えていく者の結末なのである。罪の奴隷に舞い戻るなどというのは、いかに愚かなことであるかがわかる。

最後に、罪の奴隷に舞い戻らないためにも、キリストが私たちのために何をしてくださったのか、二つのことを付け加えさせていただく。一つは、キリストは私たちを救うために、奴隷のようになってくださったということである。奴隷の最期は、多くの場合、哀れだった。体を悪くした奴隷はゴミのように捨てられ、飢え死にさせられたり、ある奴隷は主人の拷問で死んだりした。そして、キリストがかけられた十字架は、奴隷と極悪人を死刑にする手段だった。キリストは私たちのために奴隷のようになった。「奴隷」と訳されている原語<ドゥーロス>がキリストに対して使用されている箇所がある。ピリピ人の手紙2章7節である。ピリピ2章6~8節を読んでみよう。7節で「仕える者」(新改訳2017「しもべ」)と訳されているのが、奴隷を意味する<ドゥーロス>である。キリストが私たちに仕えるために奴隷のような姿をとられたということである。そして私たちの罪をも背負って、十字架で私たちの死を死んでくださった。このキリストの謙卑と十字架の愛のみわざを思うときに、やすやすと罪に手を染めることなどできない。もう一つは、キリストの流した血の代価によって、私たちは神の所有とされたということである。コリント人への手紙第一6章19~20節を読んでみよう。「あなたがのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい」。キリストは十字架の上で大きな犠牲を払い、血の代価をもって、私たちを罪の奴隷状態から買い取ってくださった。今、私たちは、十字架の代価によって神の所有である。私たちは神の所有とされた者たちとして、自分自身とその手足を神に献げて歩んでいきたいと思う。