今日はアダムとキリストとの比較を通して、神のあふれる恵みに思いを浸したいと思っている。5章20節後半には、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」とある。罪が増し加われば増し加わるほど裁きは重くなる、というのが常識である。それなのに、恵みが満ちあふれるとはどういうことだろうか。15節後半でも満ちあふれる恵みについて言われていて、「神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです」とある。

私たちが神の恵みを恵みとしたのは、キリストを信じる信仰を持った時である。そして神の恵みの大きさというものは、信仰年数が進むとともに実感するようになるのが普通である。自分のたましいの中に、これほど醜いものが根深く巣食っていたのかと気づかされることになる。当初、気づかなかっただけである。そして、このようにたましいが黒く醜くては、救われるのだろうか?との悩みさえ持つ。その時に、満ちあふれる恵みということが実感としてわかることになる。このような者の罪を赦し、また赦し続け、神の子として扱ってくださるとは!と感嘆させられることになる。

「恵み」と対比されることばに「報酬」がある。報酬はその働きにふさわしい対価としてもたらされるものである。それは当然支払われるべきものである。給料という言い方もされる。それに対して、何の働きもない者に与えられるものが恵みである。物乞いに与えられるのは報酬ではなく恵みである。私たち罪人が神さまからいただく救いというのは、報酬ではなく恵みである。私たちは神さまから報酬を頂けるようなことは何もしていないし、できない。ひたすら罪を犯してきた私たち。だから救いは恵みとして与えられるものである。救いに必要なことはすべて、キリストがしてくださった。キリストは罪のない従順の生涯を全うし、私たちの罪の身代わりとなってくださった。私たちはキリストの救いのみわざに感謝して、物乞いのような姿勢で、この救いを受け取るだけである。

12節では、罪の始まり、また原罪について教えている。「こういうわけで、ちょうどひとりの人によって世界に罪が入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったと同様に、それというのも全人類が罪を犯したからです」。「ひとりの人」とは神によって最初に造られたアダムのことである。アダムの創造とアダムの堕落物語は、創世記2,3章に記されている。神はアダムに「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2章17節)と言われた。アダムは神が定めたルールを破り、罪を犯した。善悪の知識の木から取って食べてしまった。彼に死が宣告され、永遠のいのちの木からも取って永遠に生きないようにと、エデンの園から追い出されてしまった。

ここでアダムの罪に関して、「それというのも全人類が罪を犯したからです」と言われている(新改訳2017「こうして、すべての人が罪を犯した」)。「罪を犯した」という動詞は、過去の一時点の行為を示す不定過去<アオリスト>という動詞が使用されている。つまり、過去のある時点で、全人類が罪を犯したというのである。どういうことかというと、アダムが罪を犯したときに、全人類も罪を犯した、ということである。この「全人類が罪を犯した」というのは、地上の歩みの中での、あの時この時の罪ではない。アダムが罪を犯したときに、全人類も罪を犯した、という事実を言っている。聖書の人間の見方は、全人類を一つの集団的人格として見る。アダムのうちに全人類を内包させている。私たちはみな、アダムの人格のうちに、未分化のかたちで内包されていた。したがって、罪を犯したのはアダムだけれども、その時、アダムだけではなく、アダムに内包されている私たちも罪を犯した。いわば私たちは、からだの細胞の一部のように存在していたので、アダムが犯した罪は全人類の罪となった。人類はアダムの一部ということで、アダムの全体性、総体性、代表性、そういった表現がとれるかもしれない。人間の側に視点を移すならば、アダムとの一体性、連帯性といった表現がとれるだろう。

旧約聖書から、参考になる事例を二つ挙げると、一つはメルキゼデクという祭司の記述である。信仰の父祖アブラハムは、神の祭司メルキゼデクに十分の一の献げものをしたことがあった(創世記14章18~20節)。このアブラハムからレビ人と言われる祭壇の奉仕に携わる子孫が生まれることになる。へブル人の手紙の著者は、このことに言及して、レビ人はアブラハムの腰にいて、アブラハムを通してメルキゼデクに十分の一を納めたのだと教えている(へブル7章9~10節)。この表現を借りれば、私たちはアダムの腰にいて、アダムを通して罪を犯した、となる。具体的結果として、私たちは生まれながらにして罪人となった。ダビデは告白している。「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました」(詩篇51編5節)。このように、人間は生まれながらにして罪の性質を持っている。それを一般的に「原罪」と呼ぶ。

もう一つの事例は、盗みの罪を働いたアカンに関する記述である(ヨシュア記7章)。アカンはエリコの町との戦いで、手を出してはいけないはずの金の延べ棒などを盗み、隠してしまう。この罪に対して、神はイスラエル全体に連帯責任を負わせ、次の戦いで手痛い敗北を負わせるのである。これを私たちに適用すれば、アダムは全人類の代表として罪を犯し、罪責は全人類が負ったということになる。「罪責」とは、罪に対する責任ということだが、この場合は「死」である。12節に「こうして死が全人類に広がった」とある。死の記述は、そのあとも続き、17節では、「もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになった」とある。罪の結果は死である。6章23節を見ていただくと、「罪から来る報酬は死です」と、はっきり書いてある。

死は厳密に分けると、三つある。一つ目は「肉体の死」である。肉体の死も死であるゆえに、罪に対する刑罰の一つである。エデンの園の記述から、それはわかる。初めのほうで述べたように、アダムが罪を犯したとき、死を宣告され、永遠のいのちの木から取って永遠に生きないようにと、エデンの園から追い出されてしまった。二つ目は「霊的な死」。神とアダムとの間に不従順の罪が入り、アダムは神から霊的に分離してしまった。パウロは私たちについてこう述べている。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって」(エペソ2章1節)。ヨハネの福音書等において、キリストが私たちにいのちを与えることが強調されているが、それは、私たちが霊的に死んでいるということが前提としてある。三つ目は「永遠の死」である。これは黙示録21章8節で「第二の死」という呼び方がされている。この永遠の死について、キリストはマタイ25章46節で「永遠の刑罰」という表現をとっている。今お話ししたように、「肉体の死」「霊的な死」「永遠の死」、これらの三つの死は、罪の結果である。

参考までに、今述べてきたことと相いれない考え方があるので、ご紹介しておきたい。それは4世紀後半から5世紀にかけて活動したペラギウスという人物の教えで、現代でも引き継がれている。彼によると、アダムの罪は誰にも引き継がれていないということになる。私たちは生まれながらの罪人ではなく、生まれたときは善人ということになる。悪い性質は引き継いでいない。罪を犯さないで生きていける可能性があるということである。アダムのことを持ち出すなら、アダムは単に悪いお手本ということで済まされる。このように受け取りたいのはやまやまだが、パウロの主張と相いれない。18節前半では、「こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められた」とある。19節前半では、「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされた」とある。アダムは単に悪いお手本ではないのである。またペラギウスは、人はもともと死ぬ者として造られた、と言うのである。肉体の死は自然だということである。進化論を受け入れる人たちにも良く見られる主張である。彼らにとって「罪から来る報酬は死です」というのは、肉体の死は入らない。しかし、聖書は死そのものを敵として描いている。パウロはコリント人への手紙第一15章26節で、死を「最後の敵」と呼んでいる。そして同じ15章で、死者の復活について教え、朽ちない復活のからだが信じる者に与えられることを約束している。さらには聖書の最後の書である黙示録を見ると、「もはや死もない」という世界に迎え入れることを約束している(黙示録21章4節)。旧約時代の預言書イザヤは、すでにそれを預言していて、「永久に死を滅ぼされる」と言っている(イザヤ25章8節)。聖書は肉体の死だけを特別扱いして、自然とみなすことをしていない。死それ自体が不自然なもので、滅ぼされるべき敵なのである。

パウロの今日の区分の狙いは、アダムとキリストを比較することによって、キリストを信じる者に、あふれるばかりの恵みが与えられることを伝えることにある。14節後半では、「アダムはきたるべき方のひな型」と言われているが、「きたるべき方」とは「キリスト」を指している。アダムはキリストのひな型であるというのである。先ほども触れたように、アダムは人類の代表である。罪人の代表である。キリストも人類の代表となってくださったのである。キリストは罪人の身代わりとなったのだから罪人の代表でもあるが、罪は犯さなかったので義人の代表とも言えるのである。それはキリストを信じる者が誰でも義と認められるためである。キリストを信じる者にキリストの義が与えられるのである。

アダムとキリストの対比は「ひとりの」という形容詞によって行われている。「もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエスの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです」(15節)。「もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、・・・ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです」(17節)。「こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです」(18節)。「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです」(19節)。このように見てくると、同じひとりでも、したこと、そして与えた影響は、天と地ほどの差があることに気づかれたと思う。先ず、したことだが、アダムは罪を犯し違反した。キリストは罪を犯さず義人として生きた。アダムは神に対して不従順だった。キリストは従順だった。与えた影響だが、アダムによってすべての人が罪に定められた。しかし、キリストによって信じるすべての人が義と認められる。アダムによってすべての人は死ぬ者となった。しかし、キリストを信じる者には永遠のいのちが与えられる。「それは、罪が死によって支配したように、恵みが私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためです」(21節)。

初めのほうで、アダムと私たち罪人は一つであることを見たが、私たちとキリストにおいても同じことになる。キリストを信じた私たちは、キリストと霊的に一つであり、私たちは第二のアダムであるキリストのうちに内包されている。パウロは各手紙で、私たちがキリストのうちにあることを繰り返し述べている。エペソ人の手紙には、「私たちはキリストのからだの部分だからです」とある(エペソ5章30節)。私たちとキリストは一体なのである。それはローマ人の手紙6章でも強調されることになる。「キリストを信じる」という表現は、原語のギリシャ語を直訳すると、「キリストの中へ信じる」となる。キリストを信じることはキリストのふところに飛び込み、キリストのからだの一部とされるようなことなのである。キリストを信じるときに、キリストの義が私たちの義となり、キリストのいのちが私たちのいのちとなる、キリストは私たちのすべてのすべてとなってくださる。

私たちとしては、義と認められ、永遠のいのちを受けるために、何もしていないし、できない。16節に「多くの違反」とあるが、多くの違反を繰り返してきただけである。また20節に「罪の増し加わるところには」とあるが、自分の罪深さを教えられる毎日を送ってきただけである。私たちの一個の罪でも地獄のさばきを受けるに十分である。にもかかわらず、すべての罪が赦され、義と認められ、永遠のいのちを受ける、これは恵み以外の何ものでもない。私たちは、あふれるばかりの罪の中に沈み、罪の呪い、死の力という、その濁流に飲み込まれそうだったわけだが、それをさらに上回る恵みが私たちにやってきた。私たちは沈んでいた罪の泥沼から救い出され、押し流されそうだった死の濁流から救い出された。そうしてくださったお方が、主イエス・キリストである。キリストは罪のない義人としての生涯を送り、十字架の祭壇に我が身をささげ、私たちの身代わりとなり、なだめの供えものとなって、尊い血を流し、罪の処罰を受けてくださった。そして復活によって、罪と死に勝利してくださった。このキリストが、私たちの代表となり、私たちのすべてのすべてとなってくださった。私たち罪人にとって、キリストを通して与えられた恵みに勝るものは何もないのである。

最後に、ジョン・ニュートンの救いの証を簡単にご紹介したい。ニュートン作詞の「アメイジング・グレイス」の讃美は世界的に有名である(福音讃美歌304)。彼の詩は、彼の救いの体験と、今日の箇所であるローマ人の手紙5章20節に基づいている。ニュートンは1725~1807年に生きたイギリス人である。ニュートンはクリスチャンホームで育ったが、母親は6歳の時に亡くなった。その後、彼は、神を恐れない不敬虔な親戚のもとに預けられる。やがて彼は海軍に入隊する。彼の生活は荒れ放題で、不道徳は年とともにひどくなっていった。彼はある時、海軍を脱走してアフリカに向かった。それは、もっと思う存分罪に耽るためであったという。彼はアフリカでポルトガルの奴隷商人の家に住み着くようになる。この商人のアフリカ人の妻は白人を憎んでいた。彼女によってニュートンは犬のようなひどい扱いを受け、鎖につながれることもあった。彼はそこも脱走し、ジャングルを抜け、海岸に到達する。彼はそこで運よくイギリスの商船に拾われる。そこで海軍の経験が買われ、航海士として雇ってもらうことになる。しかし彼の堕落ぶりは相変わらずで、泥酔して海に落ちてしまうこともあった。航海も終わりに近づき、スコットランド付近を通過していた時、悪天候となり、大嵐となり、船はコースを外した。そして浸水が始まった。船は沈みだした。彼は、もう自分のいのちも終わりかと恐怖におびえた。彼は死に物狂いになって水をかき出す作業をしていた。やれることはせいいっぱいやったにもかかわらず、船は海水でいっぱいか、それに近い状態であったという。そうした中、彼はこの恐怖の中で、「主よ。私たちにあわれみを施し給え」と無意識に言ってしまったという。これを機に、彼は船内で自らの罪を反省することになり、自分の罪は赦しがたいほど大きいものだという結論に達する。子どもの時に母親から学んだ聖書のことばも思い巡らすことになる。彼の心に変化が生まれる。彼はたどたどしい祈りをささげるようになり、聖書も読むようになる。そして、それまで愚弄してきたキリストについて真剣に考えるようになる。キリストの死は誰のためであったのかと。このようにして、彼は故国に帰還する前に、船内で回心を果たす。彼は自分がおぞましい罪人であるという自覚は、神の光に照らされれば照らされるほど深まっていった。同時に、神の恵みの大きさを実感するようになっていった。後に彼は船の仕事を辞して、牧師としての人生を歩みだす。神のあふれるばかりの恵みを証するためにである。

神の恵みは私たちを謙遜にする。なぜなら、私たちの救いは、行いによらず、功績によらず、努力によらず、百パーセントキリストにある神の恵みだからである。私たちはただ、恵みによって救っていただいた者にすぎない。私たちは救われるには値しない罪人である。私たちにふさわしいのは死の刑罰であり、ゲヘナにすぎない。だから、救いはすべて神の恵みである。私たちは神の恵みをいつも神の恵みとする者たちでありたい。「今在るは神の恵み」といつも告白できる者たちでありたい。