イースターおめでとうございます。主イエス・キリストの十字架と、死からのよみがえりによって、私たちの数えきれないほどの多くの罪がすべて赦され、義と認められ、永遠のいのちが与えられた恵みを感謝します。今日は、この地上生活において、キリストとともに生きる秘訣を学びたいと思う。

今日の区分は、「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか」(1節)という問いかけで始まっている。パウロはこれまで、人が罪から救われ義と認められるのは、人間の良い行いや努力によらず、ただキリストを信じる信仰によることを教えてきた。人の側の罪は数えきれないほど多く、積り積もっている。それは人の手によってはどうすることもできないものである。パウロは、これらがすべて赦され、義と認められ、永遠のいのちが与えられる恵みについて語って来た。5章20節後半では「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」とある。こうしたパウロの話を自分に都合よく受け取って、罪が増し加わるところに恵みも満ちあふれるのだから、どうせ罪は赦されるんだから、安心して罪を犯そうと言い出す人たちが出ないとも限らない。そこでパウロは、キリストの十字架の死とよみがえりは、キリストを信じた者にとってどのような意味があるのかを考えさせる。

1節では「私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか」と訴えている。これは、罪を意識的に、継続的に犯すことを当たり前にしていいのか?ということである。パウロは2節で「絶対にそんなことはありません」と否定して、「罪に対して死んだ」という表現をとっている。この表現は11節にもある。パウロは何を言いたいのだろうか。例えば、強盗の親分に対して死んだとなれば、その親分との関係は終わったということである。死んでしまったのだから、強盗の親分の命令を聞いて人の屋敷に侵入する義務はないし、親分に恩義があると、あれやこれやすることはない。死んだら関係終了、親分と子分の関係は終わりである。パウロは罪に対して死んだという表現をとることにより、罪に中にとどまる昔の生き方を引きずることをしないように願っている。もちろん、私たちは、この地上に生きている限り、肉の弱さから罪を犯してしまうことはある。けれども、罪を主人として生きて行く謂れはない。

パウロは信仰を持った者たちの、キリストとの新しい関係に気づかせようとしている。それは罪の中にいるのではなく、キリストの中にいるということである。3~4節では、バプテスマを通して、そのことを教えようとしている。「バプテスマを受ける」<バプティゾー>は「~に浸す、~に沈める」という意味である。当教会はバプテスト派であるが、洗礼は水に沈める儀式を行う。このことはあることを象徴している。それはキリストと一つになること、キリストとの一体化を表している。3節の「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた」の直訳は、「キリスト・イエスの中に沈められた」である。「その死にあずかるバプテスマを受けた」の直訳は、「彼の死の中に沈められた」である。私たちは罪の中にではなく、今やキリストの中にいる。キリストと一体の身である。キリストのうちにある私である。キリストが死んだときに私たちも死んだ。そして4節前半にあるように「キリストとともに葬られた」のである。その理由は4節後半にあるように、「キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって、新しい歩みをするため」なのである。バプテスマを受けた人は、一度罪に対して死んで、キリストのいのちを受けて、新しい人とされたのである。罪と死に支配されていた古い自分は、キリストとともに、十字架と墓までで終わった。今や、キリストとともによみがえり、新しいいのちに生かされて、神に対して生きる新しい人生が始まった。

5節では、よみがえり、「復活」のことが言及されている。「必ずキリストの復活とも同じようになる」というのは未来のことなのだけれども、私たちはすでにキリストの死にあずかったように、キリストのよみがえりのいのちにも与っている。復活のいのちに与る人生はすでに始まっている。そのことを「キリストにつぎ合わされて」という表現から教えられよう(新改訳2017「キリストと一つになっているなら」)。パウロは「キリストの中に」ということを「キリストにつぎ合わされて」という表現で言い換えている。ここでは接ぎ木の用語が使われている。台木がキリストで、私たちはその枝ということになる。このみことばから連想するのは、ヨハネの福音書15章の「ぶどうの木のたとえ」である。キリストは言われた。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」。少し脇道にそれるが、キリストの枝とされた真理を正しく受け止めておくことが私たちの現在の信仰生活のプラスになることをお話したい。

中国奥地伝道団(チャイナインランドミッション/OMFの前身)の創立者ハドソン・テーラーは、どうしたらぶどうの木の滋養分を自分のものにできるのかと苦闘した人であった。彼は日常の仕事がたくさんあるというだけでなく、各宣教地の問題にどう対処すべきかといった課題、リーダーとして押しつぶされそうになるプレッシャー、それらと格闘していた。このままでは自分が枯れてしまう、キリストのいのちにあふれて仕事ができなければ・・・でもどうしたらキリストの豊かないのちを自分のものとできるのか・・・。彼は妹にこう書き送っている。「私はキリストの中に宿ることさえできれば問題ないのですが、それが不可能なのです」。彼はキリストの中に宿りたいけれどもそれができないという現実と苦闘していた。けれども、やがて彼は、みことばが語る事実に目が開かれる。自分はすでに、ぶどうの木であるキリストの中にあること、すでにぶどうの木の一部とされていることを。すでにキリストに接ぎ木されている枝であることを。「ここに奥義があると思います。それはぶどうの木からいかにして自分自身の中にいのちの汁を取り入れるかと問うことではなく、イエスがぶどうの木であること、イエスが根であり、枝であり、小枝であり、葉であり、花であり、実であり、すべてであるということを記憶することです」。これは大切な悟りである。彼は今まで、イエスと自分を分けて考えてきた。イエスはぶどうの木、わたしは枝であると。しかしよく考えると、イエスさまがぶどうの木であるということは、イエスさまはぶどうの木のすべてであり、当然ながら、イエスさまはぶどうの木の枝でもある。彼は、イエスさまはぶどうの木の幹までで、そこから先はわたし、という関係でないことに気づいた。イエスさまはぶどうの木のすべてで、わたしはその一部であると気づいた。わたしはすでにイエスと一体の関係に入れられている、イエスのすべてはわたしのもの、ということに気づいた。すなわち、すでに、キリストの中にあるわたしとされているという真理を、しっかり受けとめることができた。

パウロはキリストとの一体性を6節以降でさらに強調する。「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは、罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています」。「古い人」とは、面白い表現である。「古い」という原語は、「使い古し、着古し」を意味する。それは役に立たなくなったものを表すことばである。着古して、変色して、よれよれになって、穴が開いたぼろを、洗濯してアイロンがけして、また着ようとするだろうか。ここでは、古いほど味があるという論理は通用しない。古い人というのは、もはや用なしで、行き場は十字架しかない。何とかリサイクルしようなどという考えはだめである。ここでの「古い人」というのは、回心する前の私たちのすべてと言えるだろう。5章12節以降で学んだことから言うと、アダムの堕落した性質を受けてきた私たちのことである。アダムと一体なってきた私たちのことである。アダムと一体であることにより、私たちは生まれながらの罪人で、罪の奴隷として生きてきたわけである。アダムにつぎ合わされた者として、アダムの堕落した性質を受け、罪に惹きつけられて生きてきた。

「古い人がキリストとともに十字架につけられた」の「つけられた」という動詞は、過去の一時点の決定的な出来事を指す不定過去<アオリスト>が使用されている。私たちの古い人は、あのゴルゴダの丘で、キリストとともに十字架に磔にされ死んだ、ということである。私たちは古い人に望みをかけるのをやめ、この立場を信仰をもって受けとめることである。コロサイ3章9節では、古い人の十字架上の死を、「古い人を脱ぎ捨てた」と表現している。ぼろ布人間とおさらばしたということである。古い人はすぐ短気になり、情欲に走り、わがままいっぱいになる。そういう古い人をなんとか立ち直らせようというのがこの世の宗教だろう。しかし、聖書はその古い人をためらうことなく磔刑に処してしまう。磔殺である。

古い人が十字架につけられなければならなかった理由の一つは、古い人がもつ「罪のからだ」が機能しなくなるためである。「罪のからだ」とは、からだイコール罪ということではない。からだが罪に支配され、罪の実を結ぶ道具になってしまっているということである。それが「罪のからだが滅びて」と言われている。「滅びて」は欄外註別訳では「無力となり」と訳されている。死んで無力になって、罪のために役に立たなくなる、というのが本来の意味である。ある工場が人体に害のある廃液を垂れ流していたとする。その廃液をいくら回収しても、また他の薬品を混ぜて無害化しようとしても、廃液を垂れ流している限り、いたちごっこが続くだけである。一番の解決は、その工場をつぶすことである。古い人が十字架につけられたというのは、こうしたことと比較できよう。

そして、古い人が十字架につけられなければならなかったもう一つの理由が、「私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためである」。罪に生きる古い自分は十字架の上で滅ぼされた。こうして罪に対して死んだことにより、罪という主人から解放された(7節)。奴隷というのは、その人が好むと好まざるにかかわらず、主人の家から逃げられない。奴隷が主人から決定的に解放されるのは、奴隷が死ぬ時である。死んだ者には法的効力が及ばない。死んだ者に向かって、ほらこれまで通り働け!お前の義務だ!と言ったところではじまらない。死んだら主従関係は終わり。死という決定的出来事はそれまでの主人と決別させる。関係はもう終わりである。それが、あの十字架である。十字架を境にしてどうなるかというと、罪に仕えてきた古い人は死に、新しい人として、キリストにあって、キリストとともに神に仕えて生きるということである(8節)。

9,10節では、キリストが罪に対して死に、神に対して生きておられることを告げている。「・・・なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対してであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるからです」。パウロが、このように、キリストが罪に対して死に、神に対して生きておられることを告げたのは、私たちがこのキリストの死と復活に、自分を重ね合わせるように願っているからである。

そしてパウロは、1~10節までのまとめのことばとして、11節でこう命じている。「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい」。アダムのうちにある古い人は死んで、罪という主人との雇用関係は解除された。そしてキリストのうちにある新しい人となって、神を主人とする、神のしもべとしての人生がスタートした。だが、この切り替わった立場を認識しにくいのが私たちである。

ウオッチマン・ニーという中国の聖徒は、このことに関して、次のような実話を紹介している。彼はある日、霊的状態に非常に悩んでいる兄弟と話しをしていた。その兄弟はこう言った。「多くのキリスト者は実に美しい、聖徒らしい信仰生活を営んでおります。その意味で私はキリスト者であるなどと言えません。他の兄弟と比較すると恥ずかしい限りです。私はこの十字架につけられた生活、よみがえりの生活を知りたいのですが、それがどのようなものかを知りませんし、また、そこに到達する方法も知りません」。その兄弟はしばらくの会話の後、「祈るよりはかはありませんね」と言った。しかしニーは、「神がすでに私たちの必要とするものを、すべて与えておられるとすれば、何を祈り求める必要があるでしょうか」と諭した。すると、その兄弟はこう返答した。「神は必要なものを私に与えてくださってはおりません。なぜかといえば、私はまだ気が短く、まだ失敗を繰り返しているからです。だから、もっと祈らなければならないのです」。その時、別の兄弟がひとりやって来て、たまたまテーブルの上にあった魔法瓶を使って説明を始めた。「この魔法瓶が祈れるものと仮定しましょう(祈ることができる魔法瓶ということ)。そうして、まあ、こんなふうに祈り始めたのです。『主よ。私は心から魔法瓶になりたいと願っています。どうか魔法瓶にしてください。主よ、私が魔法瓶になれるようにお恵みを与えてください。どうか、この願いをかねなえてください』。こんなふうに祈ったとしたらどうでしょう」。それを聞いて彼は答えた。「そんなふうに祈るのは、およそばかげたことです。なぜなら、それは現に魔法瓶なのですから」。相手の兄弟は言った。「あなたも同じことをしておられます。神はすでにあなたをキリストのうちにある者(キリストの中にある者)としてくださっています。主が死なれたとき、あなたも死んだのです。そして主が生かされたとき、あなたも生かされたのです。だから、あなたは今になって、『私は死にたい、私は十字架につけられたい。またよみがえりのいのちを得たい』とは言えないのです。主はあなたに目を留めて、ただこう言われるのです。『あなたはすでに死んでいる。あなたはすでに新しいいのちを持っている』。あなたの祈りは、あの魔法瓶のように愚かなものです。何かを与えてくださいと、主に祈る必要はありません。主が私たちのためにすでにしてくださったことに対して目が開かれれば、それでいいのです」。そうして彼はようやく悟り、涙ながらにこう言ったという。「主よ、あなたが私をすでに、キリストのうちにおらしめてくださったことを賛美いたします。キリストのものはすべて私のものです」。彼も、ハドソン・テーラーと同じような悟りを得た。

私たちの陥りやすい過ちを整理してみよう。まず私たちは、古い人をまっとうな人間にしようと努力する過ちを犯す。次に、自分の努力で古い人を十字架につけようとする過ちを犯す。だが、私たちのすべきことは、信仰の目を開いて、キリストと通して神がすでにしてくださったことを認めることである。

11節の新改訳2017の訳はこうである。「同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい」。「同じように」と、キリストと一体となって、キリストと同じ立場をとるように命じられている。「キリスト・イエスにあって」とは、キリストと一つとされている事実を教えている。キリストのうちにある私とされているということである。注目していただきたいのは、新改訳第三版で「思いなさい」という訳が「認めなさい」と訳されている点である。「認める」と訳しうることばは会計用語である。それは「勘定する」「計算する」ことを意味する。また計算した結果に基づいて、そうだと判断し受け取ることを意味する。負債が50万円あったとして、決算が済み、負債は支払われ、完全な清算がされたとする。それを認めること。出納簿に今日の収入をつけるとする。計算して実際の売上額を記帳するだろう。実際の売上額が100万円だとすると、それを記帳し、今日の売上額は100万円であったと事実を認める。会計は事実を事実として認めるためにする。だから、新改訳第三版の「思いなさい」とは、そうだったらいいのにな、と思いなさいということではない。空想して思いなさい、ということではない。事実を事実として認めること、事実を事実として認定することを意味する。会計は事実を事実として認めるためにすることであって、信仰の場合も同じ。私たちはキリストにあって、キリストとともに罪に対して死に、キリストとともによみがえり、神に対して生きている。キリストのうちにある私である。キリストの十字架上の磔殺と復活に、自分の姿を認めることである。「これは認めるべき事実であって、私たちが努力してたどりつく目標ではありません」(鞭木由行氏)。そうなるようにという努力目標ではなく、すでにそうされているので認めるべきことなのである。「私たちが新しく生きているということを実感できるかどうかではなく、そうなのだと『認める』ことです」(吉田隆氏)。実感を追い求める私たちが、最初にすべきは認めることである。これが信仰である。十字架を見上げよう。キリストの死に自分の死を認めよう。古い人はそこで終わった。キリストの復活に目を注ごう。私たちはキリストのよみがえりのいのちを受け、新しい人とされた。キリストにあって罪に対して死に、神に対して生きる者たちとされた。私たちはキリストと一つにされている存在なのである。それは事実であり、これを認めることから、生き生きした人生が始まる。