今日のテーマは、神の愛、十字架の愛である。前回は1~5節から、「患難さえも喜ぶ」ということで、患難の時には、キリスト・イエスにある神の愛を信じ切っていることがカギとなるということを学んだ。神の愛こそが、患難の中でも、失望に終わることのない希望を私たちに与えるのである。パウロは、その神の愛のすばらしさを、キリストの十字架を通して教えようとしている。

新約聖書の原語はギリシャ語である。旧約聖書の原語はヘブル語であるが、ギリシャ語で表したギリシャ語七十人訳聖書というものがある。ギリシャ語で、愛を表す用語は四つある。第一に<ストルゲー>。これは愛情を指し示す用語であるが、特に家族に対する愛情を表す。家族愛と言ってよいだろう。第二に<フリィア>。ここから「フィルハーモニー」という交響楽団の名称が生まれた。また「フィラデルフィア」という地名も、ここから生まれた。これは友達間の愛のことで、友愛である。第三に<エロス>。これは男女間の愛である。聖書では、神の愛を表すのに、今述べてきた用語も用いられている。しかし、これらだけでは神の愛を表現しきれない。そこで第四のことば<アガペー>が登場した。それは無条件の与える愛で、恵み豊かで、不変で、永遠である。

このアガペーの愛は、キリストの十字架によって示された。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(8節)。「キリストが私たちのために死んでくださった」というのは歴史的事実である。口先でなく、行動に出た愛である。いのちをも捨てる愛である。しかも私たち罪人のためにである。

この世界には、キリストの十字架に似た愛の物語は数多くある。家族や友人のためにいのちを捨てる物語である。二つほど、実例を挙げてみよう。

ある少年の妹が肢体不自由で手術を必要としていたが、それには輸血が必要だった。少年は妹のために輸血を申し出た。彼は妹のベッドの脇に寝た。彼の腕の血管に針が差し込まれ、少年の血が妹のからだに流れた。輸血が終わったとき、医者は少年の肩に手を置いて、少年が勇敢であったことをほめた。話はここからである。実は、その少年は輸血についての知識がなかった。少年は医者を見上げて聞いてきた。「お医者さん、ぼくが死ぬまで、あとどのくらいかかるの?」この少年は、輸血を申し出るということは、妹を救うために自分が死ぬことなんだ、という考えを持っていた。彼は妹に自分の血を与えて、自分は死ぬんだと信じ切って、腕を差し出したのである。

次は、地下でガス爆発が起こり、毒ガスが漏れている穴にいた二人の男性の話である。二人ともガスマスクを持っていたが、一人の男性のガスマスクは、地下爆発の時に破れてしまっていた。その男性には奥様と三人の子どもがいた。もう一方の男性は、「僕は独り身だ。しかし君には奥さんと子どもたちがいる」と言って、自分のマスクを彼に差し出したという。

私たちはこのような実話を聞くと感動を覚える。なんと勇敢な愛なんだろうと。ところがパウロは、今日の区分で、キリストの愛はそれらを超えていることを示そうとしている。どのようにしてそれを示そうとしているかと言うと、それは本来、私たちは愛される対象ではなかったことを強調することによってである。これから、愛される対象ではなかったことを四つに分けて見ていこう。

第一に、私たちがまだ弱かったとき(6節)。古代、中世と、障害のある子ども、病気の子どもは間引いたりした。弱い者は生きている価値無し、とされた。しかし、ここで言われている弱さは、人間性の欠陥、病気、たましいの病である。キルケゴールはこれを「死に至る病」と呼んだ。もっと直截的に表現すると、たましいが腐りかけているということである。霊的悪臭さえ放っている。本来、捨てられて当然の身である。この弱さは、からだが強い人でも、高学歴の人でも持っている。道徳的虚弱、霊的虚弱で、罪に染まり、無益な者となっている。

第二に、不敬虔な者のために(6節)。「不敬虔な者」というのは言い換えると、「神を恐れない者」である。神を神としない。神の掟など尊重しない。神に背を向ける傲慢な存在である。神の恵みを恵みとしない。おごり高ぶり、生意気で全く可愛げがない。逆らうばかりで、愛される価値無しである。

第三に、私たちが罪人であったとき(8節)。「罪人」と聞いて、余り深刻に感じない私たちである。私たちは、自分は人よりはましと考えてしまいがちである。ナチスの裁判で印象的な出来事が起きた。アドルフ・アイヒマンという人物がナチス親衛隊の一人としてホロコーストに関わり、南米に逃亡するも、1960年に身柄を確保され、裁判にかけられ、有罪判決となり、処刑された。この裁判でイェヒエル・デ・ヌールという人物が証人として立つ。証言台に上がった彼は、アイヒマンを見たとたん、泣きながら床に倒れ込んでしまった。裁判官は事態を収拾しようと木槌を叩くという展開となる。裁判後、デ・ヌールはインタビュー番組に出演して、こう質問された。「どのような記憶に圧倒されたのか、それとも憎悪に満たされたのか。それで失神したのか」。すると、デ・ヌールは衝撃的な発言をする。彼はアイヒマンが極悪非道な人ではなく、凡人であったことに圧倒されたと言ったのである。「私は、自分自身を恐れました。・・・私自身もあのようなことをしかねないと・・・全く彼がしたのと同じようなことを」。「人でなし」ということばがある。「人でなし」 は 「人間らしい心を持たず、恩義や人情をわきまえないこと。またその人」 という意味があるようだが、聖なる神の目には、私たち人間すべてが、本来の人間の在り方を失い、神に背き、罪に染まり、そのような意味で「人でなし」と映っているはずである。メッキを剥がせば、醜い本性が顔を覗かせる。自分勝手、むさぼり、姦淫、ねたみ、冷酷さ、悪い欲、闇の思い。光である神に愛される価値はあるのだろうか。

第四に、敵であった私たち(10節)。キリストは敵である私たちのためにいのちを捨てたことになる。それにしても、「敵」とはずいぶんな表現だと思うかもしれない。これを書いたパウロはユダヤ教徒の優等生であったが、彼自身、自分は神の敵にしかすぎなかったと自覚したからこそ、こう書けた。彼は当初、誰よりも神に従っていると思っていただろう。ところが彼は、キリストの十字架を理解したときに、自分は神の敵であったと自覚したのである。不可思議な話だが、ユダヤ教の指導者たちは、キリストを神の敵として位置づけ、十字架刑を望んだ。神を冒瀆する者だとして。このローマ人への手紙の著者のパウロも、キリストの処刑は願うところであった。そればかりではない。聖書はパウロが「キリストの弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて」いたと証している(使徒9章1節)。パウロは、キリストに従う者を迫害し、捕え、殺すことは、神を喜ばすことだと確信していた。けれども彼は、キリスト教徒を迫害していた時、ダマスコ途上で天からの光に打たれ、「サウロ、サウロ。なぜ私を迫害するのか」という主の声を聴く(使徒9章4節)。パウロはキリストの敵、すなわち神の敵となっていた。パウロは神の敵となっていたという衝撃的事実を突きつけられ、弁解できなくなった。そして回心した。

十字架は人間の側から見れば、人間の神への敵意を表している。人間の神への憎しみ、敵意は、キリストの十字架に表されている。人間にとって、人間の罪を見のがしてくれない神は邪魔なのだ。悔い改めを迫り、罪を裁くという煙たい存在は邪魔なのだ。人間の欲望に規制をかける神は邪魔なのだ。人間の神への敵意は、あの十字架にぶつけられた。邪魔な存在は抹殺するしかない。当時の人々は、当時のローマ法に従って、三段階ある鞭打ち刑のうち、一番重い鞭打ちをキリストに与えた。そして一番重い罪に対する十字架刑を選択した。それはユダヤ教指導者だけではない。群衆も「十字架につけろ、十字架につけろ」と狂い叫んだ。道行く人たちも、兵士たちも、こぞってキリストをののしった。一緒に十字架につけられた強盗どももキリストをののしった。まことの神が人の手によって十字架につけられ、血を流し苦しんでいる。なんという光景だろうか。罪人が人となられたまことの神を抹殺しようとしている。なんとういう狂気!この光景は異常としか言いようがない。これが神の敵となった、人間の狂った現実である。

神は、この人間の神への敵意となった十字架刑を神の愛の表れに変えてしまった。十字架は神を滅ぼす手段であったが、神はそれを人間を救う手段に変えたのである。凄すぎる。次に、そのことについて、神の愛とのかかわりで三つのことを見ていこう。

第一に、キリストの十字架刑は神のご計画だった。「・・・キリストは定められた時に、・・・死んでくださった」(6節)。キリストの十字架刑はただ人間の側の暴力が働いたのでもない。それは神のご計画だった。それはキリストの計画が狂ったというのでもない。王座に迎えてもらえる手筈だったのに、予想が外れて、十字架刑に処せられたというのではない。永遠の昔からの神の救いのご計画というものがあり、時満ちて、その救いのご計画が実行に移された。それがあの十字架刑だったのである。

第二に、キリストの十字架は、私たちを義と認めるための救いのみわざだった。「・・・今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのはなおさらのことです」(9節)。「義と認める」とは裁判用語で、無罪判決を言い渡し、無罪放免することである。正しいと宣告することである。だから神の罪に対する御怒りから救われるのである。しかし、なぜ罪ある者が無罪放免とされるのか。それは、キリストが十字架の上で、なだめの供え物となってくださったからである(3章25節)。このキリストの行為により、キリストの義が私たちの義とされたのである。義とされたのだから、神の御怒りから救われるのである。しかし、ここで、御子キリストはなだめる側、御父なる神はなだめられる側と、分離してしまわないことである。なだめの供え物を用意したのは父なる神ご自身である。それは私たちへの愛から来ている。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく永遠のいのちを持つためである。神が御子を遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである」(3章16,17節)。神は私たち罪人を愛しておられる。義と認めるというのは、8節冒頭の「しかし私たちが罪人であったとき」が暗示しているように、罪が前提としてある。神は愛であるゆえに、人の持つ罪を黙って見過ごしにできなかった。御子キリストも十字架の上で祈られた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と。ある方が「自分を理解することに較べれば、他人を理解することのほうがはるかにたやすい。・・・自分ほど客観的に判断することの難しいものはない」と述べて、自分自身の動機を絶えず調べ、自分自身に率直になるようにすることが、自己理解の第一歩であると教えている。こうして自分を理解し、自分の罪がわかるとき、神の愛の大きさを知れるのである。

第三に、キリストの十字架は神との和解のためであった。「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら・・・」(10節)。和解というのは関係性の事柄で、敵であったことが前提としてある。関係回復のために必要なことは和解である。人の側では、神に背いていたことを素直に認め、罪を告白し、罪赦され、義と認められ、神のもとに立ち返ることが必要である。神の側では、頭のてっぺんからつま先まで罪でしかない者を強引に義と認め、正しいと宣告することはできないので、キリストの十字架を用意しなければならなかったのである。キリストが和解の使者となってくださった。このことについては、1節の「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」でも学んだ。「神との平和」、それは神との和解である。和解とは双方の歩み寄りが必要だが、神が主導権をとって、十字架を通して歩み寄ってくださった。キリストは十字架の上でご自身のいのちを捨て、尊い血を流してくださった。ここに神の愛が示されている。この神の愛を受け取った者はどうなるのだろうか。なお神に敵意を向けるのだろうか。11節は言っている。「そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです」。私たちにとって、神とは煙たい存在だろうか。または、普段は遠くにいてもらって、困った時にだけ来てくださればいいという存在だろうか。それは神を大いに喜ぶ姿勢ではないだろう。しかし、十字架の愛がわかり、神と和解した者にとって、神とは大いに喜ぶ存在、賛美の対象なのである。その者を患難さえも神から引き離すことはできないのである。

私たちはまだまだ、神の愛を知り足りないのではないだろうか。来週は受難週も控えているが、十字架を見上げ、さらに神の愛を知り、いよいよ神を喜び賛美する者に変えられたいと思う。

最後に、この後にご一緒に歌う、福音讃美歌121番の原詩を紹介して終わろう。作詞はアイザック・ウォッツ(1674~1748)である。

 

ああ主は誰がため(福音讃美歌121 原詩)

 

ああ、救い主は血を流してくださったのか

いと高き方が死んでくださったのか

その尊い御かしらをささげてくださったのか

こんな虫けらのような私のために

 

私が犯した罪のためだったのか

主が木にかかって苦しまれたのは

驚くべきあわれみ 計り知れない恵み

そして愛の深さよ

 

陽もかげり 闇になり

主のご栄光は閉ざされる

力ある造り主、キリストが死なれたときに

それは罪ある人間のため

 

私は恥じてうつむく

愛する主の十字架を前にして

私の心は感謝に満ちるばかり

そして心は解放され 涙があふれる

 

けれど悲しみの涙で償うことはできない

これまでの愛に対して

今 主よ 私の身をささげること

これが私のすべて

 

Isaac Watts 1674~1748