今日のタイトルは欺瞞ではないかと一瞬思ってしまうタイトルである。喜ぶ対象が患難(新改訳2017「苦難」)である。しかし、聖書が言っていることである。5章に入り、パウロは、キリストを信じる信仰によって義と認められた結果として、三つのことを挙げた。第一は、神との平和を持っている(1節後半)。罪は赦され、神との関係が回復されたということである。キリストが私たちの罪のためになだめの供え物となってくださったおかげである。第二に、恵みの中に導き入れられている(2節前半)。これは罪人にすぎない私たちが神に近づく特権が与えられたということであった。第三に、神の栄光の望みを大いに喜んでいる(2節後半)。今はどうであっても、私たちの未来は神の栄光で輝いており、私たちもまた神の栄光に与ることができる。「キリストは、万物を御自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、御自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです」(ピリピ3章21節)。私たちの希望はここにあるので大いに喜ぶことができる。

今日の箇所で、パウロは喜ぶことができるものを、もう一つ付け加えている。それが、「患難さえも喜んでいます」(3節前半)ということである。「患難」の意味を確認しておこう(新改訳2017「苦難」)。原語で「患難」<スリプシス>は、オイルを抽出するためにオリーブの実を圧搾すること、ジュースを作るためにぶどうを搾ることの意味に使っていた。スリプシスによってオイルを抽出する、果実からジュースができる。スリプシスは何かを生み出す。スリプシスはスリプシスで終わらない。ではここでのスリプシスは何を意味するのだろうか。日本語では「艱難辛苦」という熟語がある。言い尽くせない苦しみである。この場合、人間として共通する苦しみというよりも、「主は愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」(へブル12章6節)とあるように、神の子どもたちに許される試練、訓練と言ってよいだろう。またスリプシスは積極的には、クリスチャンたちが主のために経験する苦しみと言ってよいだろう。「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみを賜ったのです」(ピリピ1章29節)。「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」(第二テモテ3章12節)。山上の説教の八つの幸いの教えのラストはこうである。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちの者だから。わたしのために人々があなたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから」(マタイ5章10~12節)。主のための苦しみは、主の栄光にあずかる前味であることを知って喜ぶことができる。パウロは他の箇所で、次のように言っている。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、重い永遠の栄光をもたらすからです」(第二コリント4章17節)。前回お話したように、「栄光」は「重い」を意味することばから成り立っている。やがての栄光と比較すれば今の患難は軽い。患難は重い永遠の栄光をもたらす。

ただ、もちろん、患難そのものは楽しいとか、気持ちいいとか、そういうものではない。そういう自虐的な喜びが推奨されているわけではない。つらいから、苦しいから、それは患難であるわけである。それは厳しい逆境である。楽しくはない。気持ちいいことはない。ここで言われているのは、あくまでも信仰的な喜びである。「喜んでいます」と訳されていることばは、「誇りとしています」と訳されることばである。「喜び誇っています」と訳してもいいだろう。

では、どうして喜び誇ることができるのか。丁寧に見ていこう。まず、患難が忍耐を生み出すのである。「それは、患難が忍耐を生み出し」(3節後半)。神の栄光にあずかる過程で、まず忍耐が生み出される。インスタント、スピーディ、便利、安楽、そういったことを目指してきた人類だが、人の成長のために忍耐する環境は大切なわけである。ここで「忍耐」と訳されることば<ヒュポモネー>は、やり過ごす、じっと耐える忍耐というよりも、もっと積極的な意味があり、強い反対や妨害に直面しても、「へこたれないでやり続ける意志、持久力」を意味することばである。患難は鋼のような強い意志を生み出す、そんなイメージである。日本刀は柔らかく伸びやすい鉄を火に入れ、叩き、打ち延ばしといった工程を経て、ねばりのある、強度のある鋼となっていく。刀を造る人は刀匠と言うわけだが、また陶器を造る人は陶器師と呼んだりするが、神さまが刀匠、また陶器師となって、私たちを鍛えていかれる。その手段は様々なわけである。

続いて、忍耐が練られた品性を生み出すのである。「忍耐が練られた品性を生み出し」(4節前半)。「練られた品性」は原語でたった一語<ドキメー>である。意味は「テストして合格したもの」「試験済みのもの」である。このことばは、銀や金のような高価な金属の純度をテストするときに用いたことばである。高熱で溶かし、不純物を取り除いて金や銀を精錬するように、神は患難の炉の中で、信者を練りきよめる。「練られた品性」で思い出すみことばがある。「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び」(へブル5章8節)。キリストは神なのだから、何も学ぶことはないと思うのだが、肉体を取り、人としての弱さを身にまとわれたがゆえに、多くの苦しみによって従順を学ばれた。苦しみと従順の関係がほのめかしているのは、周囲の反対や、精神的肉体的つらさのゆえに、神さまに従うのをやめてしまおうかという誘惑があるということである。キリストは荒野で、また十字架刑を前に誘惑を覚えられた。しかしキリストは、従順というテストに合格した。あのヨブ記のヨブも、病気、災害、人のすげないことば、色々あったが、このテストに合格したといってよいだろう。妻には、「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい」とまで言われた。彼も人なので、欠点を露呈した。しかしながら、忍耐し、従順を勝ち得た。これらは一例である。

私たちは何もないときは、品格のある人間を装うことができる。善良さを装うことができる。だが、その人の真価は苦しみやトラブルが発生したときに問われる。この人がまさかと、予想しなかった反応で悲しみを抱かせられることがある。ピンチになった時、人を罵倒する。ヒステリーを起こす。不信仰を口にする。コップの下に沈んでいた泥が攪拌されたような状態である。ただ覚えておきたいことは、私たちはお互いに弱い存在であるということである。信仰者の作である詩篇を読めば、それは明らかだろう。嘆き、怒りの感情が見られる。私たちは、お互いに試練のときは、励まし合い、祈り合いたいと思う。ヨブの友人たちは、ヨブに同情を示すかに見えて、それは最初だけで、ヨブのことばの上げ足を取って非難を繰り返し、助けにならなかった。ヨブの四面楚歌の孤独という状況も、神さまは用いられたわけだが、友人たちの姿は反面教師である。試みのうちにある人に対して、その苦しみや悲しみを理解することに努め、祈りやことばで寄り添う姿勢を忘れてはならないだろう。そして試練の中にある本人は、苦しみを忍び通したキリストから目を離さないことが肝要である。

最後に、練られた品性が希望を生み出すことが言われている。「練られた品性が希望を生み出すと知っているからです」(4節後半)。練られれば練られるほど、栄光の望みをしっかりもつ、という言い方ができるだろう。逆に、この世への執着心は薄らいでいく。そして天の栄光を待ち望むようになる。御国の栄光を待ち望む希望である。

パウロはこの希望の性質について、「この希望は失望に終わることがありません」(5節前半)と言っている。失望に終わらない希望である。それがほんとうの希望である。アフリカの伝道に力強く用いられてきた人で、「タンザニアの使徒」と呼ばれた方がいる。彼は一戦を退いて老齢になったとき、パーキンソン病が進行していて、もはや話すこともできないでいた。判読が困難なたどたどしい筆跡で、書くのがせいいっぱいだった。相手は、理解するまで三度も四度も書いてもらわなければならなかった。ある人が、そのもと宣教師に、厚かましくもこう尋ねた。かつて何十年も大きな働きをしてきて、今は何の役にも立ちそうにもないと感じる誘惑に対して、どう対処しておられますかと。すると、その方は、質問者が理解できるまで二回書いてくれた。「シツボウニ ミライハ ナイ」。この方は、ローマ人への手紙5章をものにしていたようである。確かな希望をもっていた。私たちには栄光の望みがある。

ここで栄光の望みのすばらしさを知るために、東洋の死生観に少しだけ触れておきたい。代表して、般若心経を取り上げてみよう。般若心経の最後のことばをご存じの方も多くおられるだろう。「ギャディ ギャディ ハラギャディ ハラソウギャディ ボジソワカ」。これは死者の棺を前にしての最後のことばである。その意味は、「死んだ人よ、死んだ人よ、あの世に行った人よ、全くあの世に行った人よ、何もかもあきらめよ」である。これは、すべてのものには実体がないという世界観から生まれたあきらめの勧めである。すべてのものは実体がない、生まれたとか死んだとか、増えたとか減ったとか、実際には何もない。だから死ぬこともない。死ぬことがなくなるということもない。苦しみもない。苦しみをなくすこともできない。すべては有るようで無いようで、つまりは絶対的なものは何もない。すべては相対的なものにすぎない。すべてを相対化するような時間の流れを前にして、生死に執着するような自己意識は捨てるのが正解なのだ。これが、あきらめなのだ。ここに救いを求めるわけである。しかし、絶対的な存在はないのか。永遠に変わらぬ祝福された実体はないのか。神は絶対的な存在であり、神が備えてくださる栄光は重い実体を持ち、それは永遠の報いなのである。神は確かに、この栄光を備えてくださっている。だから私たちは、患難の中でも希望を捨てずに生きることができる。何もかもあきらめよ、ではない。栄光の望みを抱き続けることこそ必要なのである。

パウロはどうして、このように希望に心をふくらませていることができるのだろうか。その秘訣を語っている。「なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(5節後半)。患難の時に、神の愛を信じ切っていたら、希望は捨てないだろう。患難の時に、なぜ自分にこんなことが降りかかるんだと言って、神はわたしのことを愛していない、神はわたしを見捨てた、と受け取ってしまう人がいる。しかし、パウロはそうでなかった。考えてみると、パウロは患難続きであった。「ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、度々眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(第二コリント11章23~27節)。彼は、自分で「肉体のとげ」と表現する病も持っていたようである(第二コリント12章7節)。だが、パウロは神の愛を疑ってはいない。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」と言っている。コップに(タンブラーに)、並々と飲み物が注がれる様を思い浮かべていただきたいが、そのように、私たちの心に神の愛が注がれている、と言っている。この神の愛は、あのキリストの十字架によってはっきりと示された。それは命を捨てる愛、惜しみのない愛である。この愛を信じ切っているならば、今はたとい不遇に思えても、9回裏ツーアウトからの大逆転劇を信じるように、神の愛を信じて希望を捨てないだろう。神は私の味方なのか敵なのか、私を見捨てたのか、などと疑ったりはしない。

ちょっとだけ、ローマ人への手紙8章の箇所を先読みしてみよう。「今の時のいろいろな苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」(18節)。ほんとうにそうである。比較すれば、この地上での苦しみは米粒ほどで、将来の栄光は測り知れなく、地球の大きさより大きい。パウロはこの栄光にあずかる希望を確かに持っている。それはキリストの愛を信じ切っているからである。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか・・・・高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(35~39節)。パウロのこのことばに、私たちも「アーメン」と言おうではないか。

今日のタイトルは「患難さえも喜ぶ」であるが、パウロはその理由として患難がもたらす益を三つ、忍耐、品性、希望を挙げていた。しかし、これら三つは患難の時に自動的に生じるのではない。患難の時に、キリスト・イエスにある神の愛を信じ切っていることが大切であることを教えられる。聖霊によって、私たちの心に神の愛注がれている。この神の愛こそが、患難の中でも失望に終わることのない希望を私たちに与え、喜び誇る者としてくださるのである。