今日のタイトルの一つの平和は、今の時代、全世界の人々が心に思い浮かぶ文字である。しかしながら、人と人との間の平和以前に、神と人との間の平和が何よりも求められている。神との平和である。こうしたことを今朝、考えていきたい。
パウロがローマ人の手紙でこれまで強調してきたことは、人は律法の良い行いによって救われるのではなく、救いとはただキリストを信じる信仰による、それが福音であるということである。パウロはこの福音を、3章21節以降、信仰によって義と認められるという表現で教えてきた。1節では、「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」と言われている。平和のさきがけとなる「義」とは裁判用語であり、義と認められた人は、裁判官に正しいと宣告された人である。無罪判決を受けた人である。義人はいない、ひとりもいないと言われるこの世界にあって、すべての人が罪人と言われる世界にあって、神さまに正しいと宣告される人などいるのだろうか。無罪判決を受ける人はいるだろうか。いないわけである。だが、実はひとりだけおられる。天から下り、まことの人となられたイエス・キリストである。キリストは律法違反ゼロの生涯を全うし、ただひとり義であられた。この義なるキリストは、十字架の上で私たちの罪を負い、なだめの供え物となり、私たちに代わって罪の裁きを受け、そしてよみがえってくださった。キリストと信じる者は罪赦され、キリストの義が与えられる。キリストの義が私たちの義となる。積もれる自分の罪を思うときに、これは恵み以外の何ものでもない。
今日の箇所は、信仰によって義と認められた結果について言われている。「ですから」(「こうして」新改訳2017)で始まっているが、信仰によって義と認められた結果は、ということである。パウロは、信仰義認の結果について、三つのことを取り上げているので、そのことを見ていこう。
第一は、神との平和を持っている(1節)。「私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」。罪に対する神の反応として、1章18節では、「不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです」とあった。罪は神との平和を損なうものである。ここでの「平和」とは、心の平安以上のことが言われている。感情の問題、気持ちの問題以上のことである。今日は休みの日で心が楽だ、痛みが消えて気持ちいい、そういったこと以上の事実である。それは幸せの根本的事実で、神との関係が回復し、修復し、あるべき関係に立ち返ったということである。ルカの福音書15章には「放蕩息子のたとえ」がある。父親を嫌い、父親のもとを飛び出して放蕩三昧を繰り返していた息子は、豚以下にみなされるまでに落ちぶれてしまう。そこで我に返った。自分は大バカであったと。放蕩息子は帰郷を決意する。父親は喜んで彼を迎え、抱きしめ、祝宴を開く。あるべき親子の姿に回復した。この関係回復が平和である。私たちは、神を神と認めず、信ぜず、愛さず、背いて、自分勝手な人生を歩んできた。そこに本当の幸せはない。人は幸せになろうとして汗水流しても、地位、名誉、富を築き上げるために努力をしても、神との関係が失われたままであるならば、壊れたままであるならば、空しさがつきまとうだけである。罪によってたましいは蝕まれていく。行きつく先は永遠の滅びでしかない。それは神との断絶である。人がまず持つべきは神との平和である。ヘブル語で「平和」ということばは、満ち足りた幸せを意味することばである。バッハのカンタータに「私は自分の幸せに満ち足りています」という曲がある。貧しい庶民の告白となっている。「私は神から何一つ受けるにふさわしくない者です。口にできる僅かなパンがあるだけでもう十分です。私はあなたのもとで満足しています」、そういった告白となっている。満ち足りた幸せ、それは神から来る。
神との平和は、真の心の平安ももたらす。私たちは、言い知れない空しさ、暗澹たる思い、焦燥、憎しみなどに心がさいなまれ、心に平安がないということを経験する。解決は神との正しい関係に立ち戻ることである。心に平安がない真の原因は、神との関係が壊れていることから来ている。つまり、己の罪から来ている。問題は環境にあるのでもなく、あの人、この人にあるのでもない。多くの人は勘違いしている。住む場所が変われば、もうちょっと生活が楽になれば、あの人が消えてくれれば・・・。だが、問題は自分自身と神との関係にあると悟らなければならない。神と私、そこに的を絞って考えてみるのである。私は神との平和を持っているのかと。神との平和を求めるならば、キリストの十字架を仰ぐことである。キリストは神と人との懸け橋となるべく、十字架についてくださった。神から離れていることが最大の問題である。十字架は平和の道を私たちに指し示している。
1節の「私たちの主イエス・キリストによって」という表現は、いくら強調しても足りないくらいである。神さまとの関係回復はわかったと言っても、ふつう、人間が考えてしまうのは、自分が認められ、受け入れられるのは、自分にかかっている、と思ってしまうことである。私たちは人との関係でも思うわけである。自分が良い成績をあげれば人に認めてもらえる。自分が努力すれば周囲に認めてもらえる。自分がたくさん手伝いをすれば、親に笑顔が戻ってくる。しかし、神との関係の場合は、そうは言われてない。私たちの努力や行いにかかっているのではない。私たちはもう十分にだめな罪人で、何をしても手遅れである。私たちはただ主イエス・キリストの十字架の贖いにすがるほかはないのである。そのときに、義と認められ、受け入れられるのである。
すでにキリストを信じる信仰によって義と認められ、神の子とされている私たちは、神との平和を保つために、一つ忘れてはならないことがある。それは三度の食事のように、悔い改めて十字架を仰ぐことを習慣化することである。このことに関して、次の提言に心を留めたい。「私たちは『バイバス・クリスチャン』になりやすいということです。その意味は、罪に陥ったとき、『イエス様は私たちの罪のために十字架にかかられたのだから、どうせ赦されるのだから大丈夫』と安易に考えることです。罪は赦されると安易に考えて、悔い改めを省略して、罪を正しく処理しないクリスチャンです。十字架の贖いを通過しないで、十字架のもとを避けて、バイパスを通るようにして神との平和に到達することです。いつの間にか神との平和を当然の既得権のように思い込み、バイパスばかり通るようになると、やがて罪に鈍感になり、その信仰はさびつき、荒れ果て、苔が生え、気がついたときには正常に機能しなくなります。形骸化した、感謝のない、不平不満だらけのクリスチャンになってしまうのです。ですから、バイパス・クリスチャンになってしまうことも警戒しなければなりません」(鞭木由行氏)。悔い改めをうやむやにし、十字架を仰ぐことを省略していると、やがて心の平安は失うだろう。だから、罪を犯したと気づいたら、それをへりくだって告白し、キリストの十字架を仰ぎ、流された血潮に信頼し、赦されたことを、みことばによって確認していくことが大切である。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(第一ヨハネ1章9節)。こうして、救われる時も、救われた後も、徹頭徹尾、十字架を仰ぐ信仰によって、神との平和を得ていくのである。もし、神との平和という土台をしっかり築いているのならば、人との平和も築いていけるのではないだろうか。今の世界は神との平和を築いていないことの裏返しである。
第二は、いま私たちの立っている恵みの中に導き入れられている(2節前半)。「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たち」。「恵み」とは、「好意」とか「愛顧」(愛の顧み)を意味することばだが、神の恵みの中に、私たちは導き入れられている。この場合の恵みは、神との平和によって与えられた立場のことである。それはどういう立場なのかは、「導き入れられる」ということばから知ることができる。「導き入れられる」と訳されていることばは、
もとは「神の臨在する聖所へ導き入れられる」という意味に用いられる祭儀用語である。旧約時代、聖所に入るというのは容易なことではなかった。一番奥の至聖所は、特に入るのが難しく、大祭司だけが入るのを許され、しかも年に一度だけ、短い時間しか入るのを許されなかった。しかも定めた規定に従って入らなければ、大祭司であっても死ぬとされていた。聖なる神の前に出るというのは、罪人たちにとって大変なことであった。キリストは私たちの大祭司となって、動物の血ではなく、ご自身の血で私たちを贖い、生ける神の前に私たちを導き入れてくださった。また、「導き入れられる」とは、古代、王の部屋に誰かを先導するときに用いたことばである。王の部屋に勝手に入ったら、身内といえども死刑になりかねない。王の部屋に入るというのは容易なことではなかった。私たちは王である神の前に、神の子どもとして導き入れられたと言えよう。この私たちが、である。土くれの、罪人の私たちが、である。実は、「導き入れられる」<プロサゴーゲ>は聖書でここを含めて三回しか使用されていないことばで、他の箇所では「神に近づく」の「近づく」と訳されている。「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです」(エペソ2章18節)。「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです」(エペソ3章12節)。このように神に近づける立場は恵みであり、特権であるということである。これは汚れた罪人には信じられない恵みと言えよう。自分の罪がわかる人は、信じられない恵みだとわかるはずである。
第三は、神の栄光の望みを大いに喜んでいる(2節後半)。「神の栄光を望んで大いに喜んでいます」。「神の栄光にあずかる望みを喜んでいます」(新改訳2017)。神の栄光を望んでいるのか、神の栄光に与ることを望んでいるのか。答えは、どちらもである。直訳は「神の栄光の望みを大いに喜んでいる」。「望み」なので、未来にある希望である。その希望とは「神の栄光」である。世相は暗いことばかりである。痛ましい事件、感染症、気候変動、戦争のうわさ・・・・。21世紀はどうなるのかと、心は暗くなるばかりである。だが、聖書は、この世の暗い現実とともに、輝かしい未来の希望を語っている。聖書全体の構造がそうである。天地創造で始まり、罪の世界の描写が続き、最後は、死も、悲しみも、叫びも、苦しみもない、新天新地の到来で終わっている(黙示録21,22章)。まさに、そこは、神の栄光で満ち溢れた世界の描写である。罪も、偶像の神々も、悪魔も、争いも、病も、そこにはいない。神の栄光が御国を照らし、そこに住む者たちは神の栄光に与っている。
「栄光」(ヘブル語<カーボード>)は、「重い」を意味することばから成り立ち、神の威光、尊厳、栄誉、完全性を表すことばである。この神の重々しさの前には、この世に属するすべてのものは、雲や霧のように軽い。また「栄光」は「輝き」をイメージさせる。やがて、暗闇に類するすべのものは消え去り、神の栄光が輝く。今の世界は、暗雲のすきまから太陽の光が差し込んでいるようなところがあるが、やがて、神の栄光だけが輝く。へブル1章3節では、キリストは「神の栄光の輝き」と言われているが、私たちはやがて、キリストの栄光を拝することになるだろう。ペテロたちは変貌の山で、キリストの栄光を垣間見た。「そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった」(マタイ17章2節)。やがて、私たちは、キリストの栄光を完全に見ることになるだろう。そして、それだけではなく、この栄光に私たちも与る。次の箇所を見よう。「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」(8章17節)。私たちが神の子どもであり、キリストとの共同相続人であるならば、キリストと栄光もともに受ける。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」(8章18節)。この地上の苦しみがどこかに吹っ飛んでしまうような栄光が将来待ち受けている。「キリストは、万物を御自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです」(ピリピ3章21節)。ここで「同じ姿」と訳されている<ホモイオーマ>は、「そっくりそのままのもの」「同じ姿形」、また「同じような姿形」を意味することばである。私たちの卑しいからだは、キリストの栄光のからだに似せられる、同じとなるということである。この変化は肉体の変化というよりも、全人格的な変化である。そしてこの栄光は永遠の栄光である。過ぎ去るこの世の栄光とは違う。
私たちは、この悲しみの世にあって、今見てきたような希望があるので、大いに喜ぶことができる。この世がすべてであったら、落胆しかない。暗雲立ち込める罪と災いの世界。この世界の寿命自体を案じてしまう。そして、弱り果て、故障し、朽ちていく私たちの身体。希望をどこに見出してよいかわからない。だが私たちには絶対的な希望がある。だから大いに喜べる。「大いに喜ぶ」ということばは、「誇る」と別訳できることばである。実際、他の箇所では「誇る」と訳されている(第一コリント1章31節等)。私たちは神の栄光の望みを誇っているだろうか。神の栄光に与る望みを誇っているだろうか。大いに誇ろう。自分には誇れるもの、自慢できるものは何もないと思う私たち。だが未来に目を向けよう。パウロは栄光に関して、ローマ人の手紙8章30節でおもしろいことを言っている。「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました」。パウロは、私たちが栄光を受けることは未来のことであるにもかかわらず、「栄光をお与えになりました」と過去形で表現している。たとえは不十分だが、花火の導火線に着火すれば、玉がさく裂して咲き誇るのは確実なように、栄光が与えられることは確実なので、もうすでに与えられたこととして表現している。
今朝は、信仰によって義と認められた結果もたらされた三つの事柄を見てきた。「神との平和を持っている」「恵みの中に導き入れられている」「神の栄光の望みを大いに喜んでいる」。平和、恵み、栄光、これら三つが困難な時代を生きる動力となるのである。

