本日はアブラハムの信仰に目を留めながら、聖書の救いの教えについて学びたいと思う。アブラハムの生涯については、ローマ人の手紙の講解説教の前に講解説教をさせていただいたので、記憶に新しいと思う。アブラハムは紀元前二千年前の人物で、信仰者の父と言われる存在である。パウロが彼を取り上げた理由は、歴史は移り変わっても、時代が変わっても、旧約時代も新約時代も、神が定めた救いの方法には変わりがないことを教えるためである。

救いについてはおおまかに、三つの考えがあると言えるだろう。一つ目は、何にもしなくても、何も信じなくても、いや何を信じても、神は誰でも彼でも救ってくれるというもの。現代では、この考えが広まってきているように思う。この考え方の傘下には、どの宗教を信じても救われるというものがある。聖書はそうは教えていない。

二つ目は、良い行いによって救われるというもの。パウロは3章でこれを明確に否定した。人が救われる方法は律法の行いにはよらないこと、また割礼といった儀式によらないことを説明してきた。パウロは救われることを「義と認める」という表現を使って説明してきた。以前、お話したように、「義」は裁判用語であり、義と認められた人は、裁判官に正しいと宣告された人である。パウロは、神の定めた律法を完全に守り、神に正しいと宣告される人はいないことを教えてきた。律法の良い行いによって義と認められる人などいないと教えてきた。義人はいない、ひとりもいない、である。

4,5節で「働き」ということばが二回登場している。「働く者の場合に、その報酬は恵みではなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」。ここで言われている「働き」とは、功績として働きのことである。手柄としての良い行いである。もし良い行いをして、その結果として義と認められるならば、それは当然支払われるべき報酬であって、恵みではない。恵みとはそれを受けるに値しないから恵みなのである。伝統的な宗教は、基本的に、良い行いによる救いである。その救いとは報酬として与えられるものである。私たちは報酬を期待できる身であるだろうか。

三つめは、ただ信仰によって救われるというもの。罪を全く犯さない正しい人などひとりもいないわけだから、報酬を期待するのではなくて、罪を赦されて救われるしかない(6~8節)。では、罪を赦されるためにはどうしたらいいだろうか。どんなに良い行いをしたとしても、引き算すれば罪は残る。しかも相当に残る。だから、救いは、私たちの罪のために、十字架の上で贖いを成し遂げてくださったキリストを信じる信仰しかない。解決はここにしかない。

では、アブラハムがただ信仰によって救われた模範であることを見ていこう。「もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。『それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた』とあります」(2,3節)。これは、創世記15章の契約の場面である。アブラハムへの神の約束は、子孫の繁栄と約束の地の所有ということがあったが、アブラハムは血のつながった肉の子孫の繁栄とか、砂ぼこりを上げる土地の拡大とか、そういうことに心縛られていたのではない。アブラハムは、神を信じ救い主を信じる信仰の子孫が全世界に増え広がることとともに、天の御国という約束の地に最終の目標を置いていた。アブラハムは当然、救い主の到来を待ち望んでいた。アブラハムが救い主キリストを待ち望んでいたことは、ヨハネ8章56節のキリストのことばからわかる。「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです」。また、アブラハムが天の御国に希望を置いていたことは、へブル11章16節に記されている。「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました」。

良くある質問に、「イエス・キリストの十字架以前の人たち、つまり旧約時代の人たちは、どのようにして救われたのですか?」というものがある。答えは、神の恵みによって、信仰によって救われた、である。キリストの十字架の贖いの力はあらゆる時代の人たちに有効である。私たち、新約時代の民は振り返って救い主を見る。旧約時代の民は前方に救い主を見る。私たちは二千年前に出現した救い主に信頼を置く。アブラハムは二千年後に出現する救い主に信頼を置いた。

パウロが主張したいことは、アブラハムも信仰によって救われたということである。当時のユダヤ人たちは、次のような勝手なことを考えていた。「アブラハムは律法が制定される前に、律法の条項を守った傑出した人物である」。律法はアブラハムから約四百年後にモーセの時代に制定されたのだが、律法が与えられる前に、律法を守ったというのである。実際、次のような文章が現存している。「我らの父アブラハムは、すべての律法が与えられる前に、その律法を守った」。「アブラハムは彼のすべての行いにおいて、主と一つになって完全であった」。「アブラハムはいと高きお方の律法を守り、そのお方と契約を結んだので、神はその子孫によって諸国民を祝福し、彼らに全地を所有として与えることを誓われた」。ユダヤ人たちは、神はアブラハムの良い行い、功績に報いたのだ、アブラハムは律法を守ったので祝福が約束されたのだ、と信じていた。これであると、アブラハムは行いによって救われたことになる。功績によって救われたとなる。アブラハムの与えられた救いは恵みではなくて報酬ということになる。アブラハムは行いによって義とされたとなる。けれども、聖書が証言しているのは、信仰による義であって、行いではない。創世記15章6節では、「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とある。創世記だけみても、信仰による義が証されている。また創世記は、アブラハムが完全無欠な人物であったなどと描いていない。

確かなことはアブラハムは律法によってではなく、信仰によって、ただ神の恵みによって救われたということである。「というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです」(13節)。16節では、この救いは恵みによるものであることが言われている。

律法に関して誤解があることを教えた次のことばをお聞きください。「残念ながら今日、・・・律法の役割について誤解があるように思います。『旧約聖書の時代、神は律法によって救おうとされた。神はイスラエル民族に対して、さあ、この律法を守りなさい、そうすれば救われます、と約束された。しかし、人間は律法を守ることができなかった。そこで神の救いの計画は破綻した。それが旧約聖書の時代であった。そこで神は、次にイエス・キリストによる新しい救いの計画を立てて、人類にお与えになった。それは律法を守ることによってではなく、キリストを信じる信仰による救いである。それが新約である』。このような考え方は、律法についての誤解に基づいています。・・・旧約聖書の中に「律法による救い」という考えはありません。聖書は一度もそんなことは教えていないのです」(鞭木由行氏)。

パウロはアブラハムが律法によって救いを得たのではないことを丁寧に説明し、私たちの模範としてアブラハムの信仰を称賛し、その信仰に倣うように励ましている。パウロはアブラハムの信仰のすぐれた点を描く前に、16節後半において「アブラハムは私たちすべての者の父なのです」と言い切って、このアブラハムの信仰に倣うように促している。では、これより、アブラハムの信仰のすぐれている点を五つに分けて見ていこう。

第一、彼は望みえないときに望みを抱いて信じた(17,18節)。17節の「死者」も「無いもの」も望みゼロの状態を表す。アブラハムと妻のサラは後期高齢者であった。しかもサラは不妊の女性であった。人間的望みがついえ果てた時、神はアブラハムにイサクを与えた。アブラハムは人間的望みゼロの状態の時に、望みを抱いて、子孫を与えるとの神の約束を信じた。
第二、彼は信仰が弱まらなかった(19節)。アブラハムは百歳の年齢に達して、天然の能力が無くなっていることを認めても、サラは十歳年下で、とうてい出産できるからだではないことを認めても、信仰は弱まらなかった。心に留めたいことばは、「認めても」ということばである。「認める」ということばは、「事実を事実として認める」という意味である。ある人が死んでしまったのに、「いや、あの人は生きている」と現実認識できないこととは訳が違う。アブラハムは、「自分たちのからだはまだ大丈夫」と勘違いしていたのではない。死んだも同然であることを認めていた。自分の生殖機能もサラの胎もだめであることを、はっきりと認識していた。にもかかわらず、彼の信仰は弱まらなかった。神は約束されたことに真実なお方であり、神には不可能はないと信じ続けた。
第三、彼は神の約束を疑うことはなかった(20節前半)。信じたと思ったけれども、今は半信半疑、ということではなかった。そうならなかったのは、神の約束にしっかりと目を留めていたからである。
第四、彼は信仰がますます強くなって、神に栄光を帰した(20節後半)。年とともに、だんだん信仰が弱くなる、ではなかった。反比例的に、信仰はますます強くなった。これが理想である。逆の人たちが多いかもしれない。アブラハム夫婦は老齢になってから、受胎、出産のことで試みられていたわけだから、肉体の衰えに比例して、信仰はますます弱くなったでもおかしくなかった。だが、流れに逆らう魚のように、信仰はますます強くなっていって、鯉の滝登りのようになった。
第五、彼は神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じた(21節)。これぞ信仰、これが信仰である。アブラハムの信仰というのは、神さまは真実で、神さまのことばは確かにその通りになると、神さまというご真実な人格に、自分をゆだねる、まかせる、信頼する、そういうものであった。この信仰は、最後まで揺るがなかった。約束の子イサクが誕生し、平穏な生活がしばらく続いた後、最大の試練がアブラハムを襲った。神は、まだ結婚前の十代であった約束の子イサクをモリヤの山でいけにえとしてささげるように命じられた。アブラハムはその時、神は約束を破られたとは考えず、それどころか、神はイサクを死からよみがえらせてくださるとさえ考えた(へブル11章19節)。アブラハムは、死んだも同然のからだの自分に子どもが与えられた経験から、文字通り死んだとしても神はよみがえらせる力があると、死からいのちに導く神の力、無から有を存在させる神の力を本気で信じる者になっていた。

パウロは、このアブラハムの信仰は私たちのためであったと告げている。「また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」(24,25節)。パウロは3章ではキリストの十字架が私たちの救いのために必要であったことを述べた(3章25節)。ここではキリストの復活について言及する。それは死からいのちに導く神の力を信じたアブラハムの信仰にならってもらうためである。キリストは私たちの罪のために死に、そして私たちが義と認められるために、三日目によみがえられた。この神のみわざを信じるだろうか。信じる者はアブラハムの信仰にならうのである。アブラハムは、死んだも同然の自分たちから、神が新しいいのちが誕生させてくださることを信じた。神が今私たちに願っていることは、死んだ救い主を、神がよみがえらせたことを信じることである。そのことを信じる者を義と認めると約束されている。

私たちにとって神を信じるということはどういうことであろうか。神は唯一であると信じる、神は全知全能であると信じる、神は創造主であると信じる、だがそれだけでは足りない。それだけならユダヤ教徒でも信じている。大切なことは、キリストが神の救い主であり、私たちの罪のために十字架で死に、よみがえられたことを信じることである。そして、ここに救いがあると、100パーセント信じることである。神の救いの約束を純度100パーセントで信じることである。それはアブラハムがまさしくそうであった。望みえない時に望みを抱いて信じた。その信仰は弱まらなかった。神の約束を疑わなかった。信仰は年齢に反比例してますます強くなった。神の約束を堅く信じ切った。私たちは疑い迷いに走ることなく、アブラハムの霊的子孫として生きよう。