ローマ人の手紙の主題は「福音」であることを、講解説教の第一回目にお話しした。今日の箇所は、まさに福音の神髄が記されている。前回の3章20節を読んでみよう。「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によってはかえって罪の意識が生じるのです」。これでは、誰が救われましょうか?となる。「義と認められない」とあるが、「義」は裁判用語であり、義と認められた人は、裁判官に正しいと宣告された人である。では、神に正しいと宣告される人はいるだろうか。10節で「義人はいない。ひとりもいない」とあったとおりである。神の戒めである律法を守ろうと思っても、心でも形でも、守り通せない。罪意識が生じて終わりである。そもそも義とは、神にのみ帰せられる性質であり、それは完全な正しさである。では誰が義と認められるのだろうか?ということだが、そこで神は、律法の行いとは別に、義と認められる方法をお示しくださった。

「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました」(21節)。「律法と預言者によってあかしされて」というのは、「旧約聖書によってあかしされて」ということで、キリストを信じることによって神の義が与えられるという福音は、すでに旧約聖書において啓示されていたのだよ、ということである(1章2節参照)。パウロは、21~26節において、この福音をはっきりと示そうとしている。

福音が福音となるために、神がしなければならなかったことは、人となられたイエス・キリストを、私たちの罪の身代わりに十字架につけることである。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物(宥めのささげ物)として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されてきた罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです」(25節)。「なだめ」とは、罪に対する怒りをなだめるということが想定されている。パウロは私たちのことを、エペソ2章3節において、「ほかの人たちと同じように、生まれながら、御怒りを受けるべき子らでした」と告げている。その御怒りをキリストが代わって受けてくださった。それゆえに血を流された。「なだめの供え物/宥めのささげ物」は新改訳2017の欄外註の別訳で「宥めの蓋」とある。旧約時代、神殿の至聖所に「契約の箱」が安置されていた。「契約の箱」は神の臨在の象徴である。この契約の箱の蓋が「宥めの蓋」である。この宥めの蓋に、年に一度、大祭司が、宥めのささげ物となった犠牲の血を振りかけた。それは宥めをするのは血であるとされていたからである(レビ16章11~14節)。この宥めの蓋に血を振りかける儀式も、キリストの血による救いの型であったわけである。

キリストがなだめの供え物、ささげ物となって下さったことにより神の義が現された。「それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためです」(26節)。「それは、今の時にご自身の義を現すためであり」あるが、神は義なるお方なので、罪をいつまでも見のがされることはない。みのがしたままであったのなら神の義は現されない。神は時至って、私たちの罪に対する御怒りとさばきを、御子キリストに下された。ここに神の義は現された。

驚くべきことは、なだめの供え物を、神ご自身がご準備くださったということである。ふつう、異教の祭儀では、なだめの供え物を人間の側で用意する。どうかお赦しくださいと。ところが、まことの神は、人間に頼まれたわけでもないのに、なだめの供え物をご自分で準備された。しかも、そのなだめの供え物とは愛するひとり子であった。そして、あのゴルゴダの十字架が、なだめの供え物をささげる祭壇となった。

福音とは、あの十字架は私の罪のためであったと信じ、イエスを我が救い主と信じるならば、義と認められるということである。「イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです」(26節後半)。これは、イエス・キリストが私たちの罪を引き受け、代わりに、イエス・キリストの義が私たちに与えられるということである。

このことを23,24節からも説明しよう。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず(神からの栄光を受けることができず)、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(23,24節)。ここで一番に注目していただきたい表現は「贖い」である。このことばは、戦争の捕虜を身代金を払って解放することや、奴隷を身代金を払って買い取り自由にすることなどを意味した用語であるが、へブル人の間では、重罪に値する被告人・犯罪人に対して用いる用語でもあった。重罪に値する被告人・犯罪人に対する用語ということを心に留めていただきたい。出エジプト21章29~30節では、次のような定めが記されている。突くくせのある牛を管理不十分でそのままにしておいたために、その牛が人を殺してしまう事件が発生した場合の刑法である。人が死んでしまったので償いをしなければならない。今ではそれが自動車事故とか、様々なケースが考えられる。その牛の飼い主は、贖い金が課せられたら、それを支払って、自分のいのちの償いをしなければならないという規定になっている。贖い金の支払いである。神に対する私たちの罪の赦しは、どんなに贖い金を積んでもだめである。銀や金を積んでもだめである。詩篇49編8節には「たましいの贖いの代価は高く、永久にあきらめなくてはならない」とある。そこで、キリストが私たちの罪のための代価となってくださった。聖書において罪は負債にもたとえられているが、キリストは私たちの罪という莫大な負債を、尊い血を流して支払ってくださった。私たちのいのちの償いのためにである。私たちがすべきことを、キリストがすべてしてくださった。私たちには支払い切れないからである。いくらお金を積んでもだめ。罪滅ぼしと思って、どんなに善行を積んでもだめ。いくら償っても償い切れない。私たち人間の側ですることは、このキリストの贖いを信じるだけである。それだけで、義と認められて、救われる。これは恵み以外の何ものでもない。「価なしに義と認められるのです」とあるが、「価なしに」ということばは、「賜物」ということばに由来していて、「無償で」と訳す聖書もある。ほんとうに、それはプレゼントであり、無償の恵みなのである。買い物をして、値段より負けてもらったという体験があるだろう。八百屋や果物屋で、おまけとして野菜やりんごを渡してくれたということもある。けれども、この場合は、一文も払わずして頂くということである。キリストが代価を支払ってくださったからである。それが贖いである。

私たちが義と認められるためにすべきことは、キリストがすべてしてくださった。私たちの側では、このキリストを信じ受け入れるだけでいい。それが福音である。そのことを22節から見てみよう。

「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません」(22節)。「イエス・キリストを信じる信仰による」を、新改訳2017は「イエス・キリストを信じることによって」と訳している。原文では「イエス・キリストのピスティスによって」である。<ピスティス>は「信仰、真実、忠実」、そういった意味のことばである。近年、この一文をどう訳すかで、様々な議論が重ねられてきた。「イエス・キリストのピスティスによって」は、訳としては大きくは二つの立場がある。一つは「イエス・キリストへの信仰によって」。これが新改訳の立場である。もう一つは、「イエス・キリストの真実によって」。この訳は新改訳2017の欄外註に別訳として記されている。共同訳は、「イエス・キリストの真実によって」の訳を本文に出している。どちらの訳がふさわしいのか見解は分かれるわけだが、二つのことだけはお話しておきたい。一つは、キリストは真実なお方だからこそ、私たちは信頼を持って信じることができるということ。外国旅行でツアーの添乗員が出発便の時刻をまちがえて、全員、飛行機に乗れなかったという話を聞いたことがある。また、ある添乗員の話を聞いたことがあるが、外国旅行に行ったこともないのに、生まれて初めて添乗員の仕事をさせられて、自信がなくて、ちゃんと仕事ができるか不安で、緊張したとのことだった。キリストは信頼できない添乗員ではない。第二テモテ2章13節には、「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である」とある。だから、信頼できる。もし誰かが、結婚相手を選ぼうとしているときに、相手が不真実と分かったら結婚できないだろう。真実は信頼の土台である。キリストの真実が信仰の土台になるということである。もう一つは、私たちはキリストを信じることが求められているということである。22節の「イエス・キリストのピスティスによって」のふさわしい日本語訳が何であるのか、これからも議論は重ねられるだろう。しかし、はっきりしていることは、キリストを信じる信仰が求められていることには違いないということである(26節後半)。

信仰とは、先ほど述べたように、相手を信頼できないと発揮できない。キリストが私たちの救いのためにしてくださったことで、なお足りないことがあっただろうか。清い生涯を送られ、十字架で贖いの代価としていのちを捨ててくださった、そしてよみがえってくださった、それは十分な救いのみわざであったはずである。また、キリストは救い主を装う詐欺師なのだろうか。そのような匂いはみじんも感じられない。詐欺師が私たちのためにいのちまで捨てるだろうか。キリストは信頼できるお方であり、救いの恵みに満ち満ちているお方である。

次のような逸話がある。スポルジョンというイギリスの著名なバプテスト派の牧師がいた。スポルジョンは貧しい女性を訪問しようとしていた。教会でその貧しい女性を助けることになり、献金を募って、届けることになったからである。彼は貧民街へと向かい、彼女の住まいに到着し、ドアをノックした。返事はなかった。再びノックした。やはり返事がなかった。それでスポルジョンは立ち去った。翌週、彼はその女性を教会で見た。そして話しかけた。「わたしは、あなたの家を訪ねました。しかし家にはいませんでした」。彼女は聞いた。「先生は何時頃、訪問に来てくださいましたか?」「お昼頃です」「わたしは家にいました。ドアをノックする音を聞きましたが、でも、返事をしませんでした。家賃を取りに人が来たと思ってしまったのです」。彼女は、与えるために来た人物を、取りに来た人物だと勘違いした。それで、声をひそめ、ドアも開けなかった。私たちがすべきことは、キリストを信頼し、信じ、心に迎え入れること、それだけである。その時に、罪の赦しが与えられ、義と認められること、永遠のいのち、それらがプレゼントとして与えられる。

今、21~26節を見てきたわけであるが、後半の27~31節も、明らかに「信仰」が強調されている。神の義は律法の行いによらず、人間の功績によらず、ただ信仰によって与えられることが強調されている(28節)。パウロはこの区分で「信仰」ということばともに、ユダヤ人を意識して、「律法」ということばも多用している。27節で「行いの原理」「信仰の原理」とあるが、「原理」と訳されていることばは、新改訳2017では「律法」と訳されている。実は「律法」と訳されていることばも、「原理」と訳されていることばも、原語は同じで<ノモス>である。それは「律法、原理、法則」を意味することばである。新改訳2017では、28節の欄外註に、「律法」の別訳として「原理、法則」と記している。どの訳が最善であるかは脇に置いておいて、パウロはユダヤ人たちが、ノモス、ノモスと強調して、救いのために必要なものとしてノモスを主張して来る感覚があるので、彼らがこだわるノモスという用語を巧みに使って、キリストを信じる信仰の大切さを説明しようとしていることはまちがいない。そしてパウロは、最後の31節では、「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです」と語り、「私は律法そのものをないがしろにするつもりはさらさらない。信仰を持つと、かえって律法を大事に守れるようになる」と弁明をしている。

今日の区分で、パウロが強調したいことは信仰である。でも、この信仰を、どこまでがんばって鉄棒にぶら下がっていられるのか、歯を食いしばって、いつまで鉄棒にぶら下がっていられるのかといった、自分の側の人間的頑張りにすべてがかかっているかのような錯覚に陥らないことである。父なる神は、御子を私たちの罪のためのなだめのそなえ物としてくださった。キリストはいのちをかけてご自身を十字架の祭壇に差し出し、私たちの救いのために必要なことはすべてしてくださった。これに人間の側で何かを付け加える必要はあるだろうか。何もない。贖いのみわざは完全だったのである。そして完全に救うと約束してくださっているのである。私たちは、キリストを通して表された神の真実に、絶対的な信頼をもって、アーメンと言えればいいのである。それが信仰である。そこに人間的な何かを混ぜ、神にアピールすることも許されない。そのようにして、救いは百パーセント神の恵みであることが証され、キリストの福音は福音とされるのである。