使徒パウロは立場上、各書簡で手厳しいことを書いている。ローマ人の手紙もそうである。序盤からして厳しい内容である。人はほめられたい存在である。けれども、そうばかりはしていられない。ある高名な牧師のところに、自分に失望した一人の信徒がやって来て、「私はダメなんです」と言ったそうである。すると、その牧師はこう答えたそうである。「そんなことは、あなた以外の誰でも知っている」。私の先輩が話していたが、やはり、ある人がその先輩のところに、「私はダメなんです」と言ってきたそうである。その先輩は、「そうですね。本当にダメですね」と答えたそうである。「そんなことはないですよ」と言ってもらいたかったと思うが、期待を裏切る答えをした。

パウロはこの手紙を、「ローマにいるすべての、神に愛されている人々へ」(1章7節)というあいさつで執筆を始めたにもかかわらず、最初の1章では、半分を費やして異邦人の罪を数え上げ、2章では同国人のユダヤ人の罪を歯にモノを着せないで指摘した。ユダヤ人たちは、自分たちは神の選びの民なのだ、律法をゆだねられたのだ、真の神知識を持っているのだと、異邦人を見下し、優越感に浸っていた。パウロは、そのようなユダヤ人たちに対して、手厳しい批判をした。「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたは弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです」(2章1節)。このように述べることから始まり、あなたがたも神の御怒りのもとにあるのだと語り、ユダヤ人の罪を具体的に指摘していった。2章の終わりには、彼らが誇っていた神の民としての割礼というしるしに言及し、律法にそむいているなら、割礼という外見を誇っていてもだめだよ、と、彼らの慢心を戒めた。このように手紙の前半部分で、早々にお灸を据えてしまった。読んで、けなされた気分になって、おもしろくなかっただろう。

パウロは3章に入ってもユダヤ人の罪を取り扱う。一切の妥協なく、彼らを罪人扱いにするのである。ダメ押しである。ほめそうでほめることはなく、断罪する。

では、今日の区分のパウロのメッセージを四つに分けて見ていこう。第一は、ユダヤ人のすぐれたところはある(1,2節)。ところが、すぐれているところは、彼らの徳性にはなく、「神のいろいろなおことばをゆだねられている」ということ。「いろいろなおことば」とは、具体的には旧約聖書を指す。旧約聖書には、神の創造のみわざから救い主の到来の預言まで記されている。まことの神について書き記され、大切な神の戒めである律法が書き記され、罪とは何かが書き記され、救いの契約について書き記され、救い主を待ち望むことが書き記されている。ユダヤ人は、神の啓示である神のことばを他民族に伝える役目を担うことになった。神のことばの運び屋としての使命を担うことになった。それは、彼らがりっぱな人物で、すぐれているからということではない。

第二は、ユダヤ人が不真実であっても、神の真実は無に帰さない(3~4節)。パウロは2章において、ユダヤ人は不真実だと責めた。そして旧約聖書を読めば明らかだが、旧約聖書は不真実なユダヤ人の歴史書ともなっている。ユダヤ人は神の律法に背き、堕落し、偶像崇拝は止むことなく、神に背き続けた。時にその罪は異邦人よりもひどかった。「諸国の民よりも悪事を働いて」(エゼキエル5章6節)と言われている。異邦人以下であるということである。ソドムよりも堕落してしまったと言及もされている(エゼキエル16章46節以下)。旧約聖書は、こうしたユダヤ人の罪の記録でびっしりである。だが、パウロは誰が不真実であろうとも、地球上のすべての者は偽りだとしても、神の真実は揺るがないと証言する。「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです」(4節)。これまでの二千年の歴史においても、十字軍その他、クリスチャンたちの過ちで、神の名が辱められることが多々あった。けれども、人は不真実でも、神は真実であるという事実には変わりはない。神の真実さはさばきに表される。ユダヤ人でもあっても、クリスチャンであっても、「神にはえこひいきなどないからです」(2章11節)とあったように、神は不義、偽りを公正にさばかれる。

第三は、ユダヤ人の不義が神の義を際立だせるならば、悪を行ってもいいだろうというということにはならない(5~8節)。「人が罪を犯せば犯すほど、神の正しさが際立つなら、それでいいじゃないか」。これは屁理屈であるわけである。何年も使った白いハンカチと新品の白いハンカチと並べるならば、古いほうのハンカチの黄ばみが際立つ。逆に言うと、古いハンカチのおかげで、新品のハンカチのまばゆい白さが際立つ。神のまばゆい白さを際立たせるために、人が不義、偽り、悪を行うことは許されると言っていいのだろうか。これは馬鹿げた屁理屈であり、パウロが認めるところではない。パウロがこのように述べるのは、パウロという男は律法を軽んじているのだ、とみなしていたユダヤ人信者がいたからである(8節)。「パウロは悪の行いを奨励しているのか?パウロは律法を守らなくてもいいと思っているのか?パウロは罪を助長する者なのか?」パウロは律法を軽視しているわけではない。ただ、律法を行うことによって救われる者は誰もいない、救いはキリストを信じる信仰による、と主張したいだけである。このことを汲み取れない信者たちがいた。

第四は、ユダヤ人たちは、異邦人と同じく罪人で、すぐれていない。すべての人が罪の下にある(9~20節)。パウロの心にずっとあるのは、やはり、ユダヤ人が優越感に浸っているという傲慢である。9節の新改訳2017訳はこうなる。「では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです」。パウロは2章でも彼らの傲慢さを打ち砕こうとしていた。ユダヤ人であることを鼻にかけ、律法を持つことに安んじ、神を誇っているあなたがたは、ただの律法違反者で、何も誇れないではないかと。ここでは、3章10節以下、旧約聖書の詩篇やイザヤ書を引用しながら、彼らの傲慢さを打ち砕こうとしている。それらの表現を観察してみよう。

「義人はいない。ひとりもいない。」 「義人」、いわゆる正しい人が、地球上にひとりもいないというのだ。極端ではないだろうか。しかし、この主張は神の見地から見てのことであることをわきまえておきたい。聖書で「義」という性質は、神にのみ帰せられる性質である。それは、真っすぐで、完全な正しさである。品質検査に携わっているプロの人たちは、食料であれ、部品であれ、一般人から見れば問題なしと思われるようなものも、厳密に精査して、はじいてしまう。また健康な人と思われる人も、精密検査を受ければ、必ずどこかに異常がみつかると言う。もっと身近な例を挙げると、きれいな部屋と思っていたら、太陽光線が差し込んで、ほこりが床やテーブルにたくさんついているのを目にすることがある。私たち人間が神のまなこで精査され、神の眼光で刺し通されるとき、私たちは神の前に不義とみなされる罪人でしかない。

「悟りのある人はいない」 日本人は悟りと聞くと、何らかの修行を積んで悟りの境地に達する僧侶を思い起こしてしまうが、ここでの「悟り」ということばは「理解する」という意味である。すなわち、神を正しく理解する人はいない、ということである。

「神を求める人はいない。」 古今東西において神を求めた人はたくさんいたではないか、それに私も求めた、と言われるかもしれない。確かにそれはそうなのだが、生まれてこのかた、まことの神を第一に求めてきた、すべてのものにまさって求めてきた、いつも、ずっと求めてきた、という人はいるだろうか。生まれながらの罪人の意志は、まことの神を真に求めようとはしない。人間やモノやお金や、この世の楽しみや、自分の名誉や、むさぼる精神でいつも他のものを求めてきた。また間違った神々を求めてきた。「罪を犯す」の原語<ハマルタノー>の原意は「的を外す」である。私たちが求めるべき人生の的は神さまなのだが、逸れてしまって、他のものを求めてきた。それが続く「迷い出て」ということばにつながる。

「すべての人が迷い出て」 「迷い出て」で思い出すみことばが、「私たちはみな羊のようにさまよい、おのおの自分勝手な道に向かっていった」(イザヤ53章6節)である。まさしく的を外した生き方である。ここでの「迷い出る」の原語の意味は「曲がっている」で、「脱線する」と訳すこともできよう。話の脱線では済まない。本当に人は脱線して、迷い出てしまった。迷える羊となってしまった。キリストはある時、「人の子は失われた人を捜して救うために来たのです」(ルカ19章10節)と言われ、ご自分が迷える羊を捜して救う羊飼いであることを表明された。

「無益な者となった。」 このことばは、「役に立たなくなった」という意味がある。またこのことばは、「悪くなった、すっぱくなった、腐ってしまった」という意味も持つ。悪くなったおかずは捨てるしかない。すっぱくなったぶどうは役に立たない。腐った肉は捨てるしかない。私たちは、悪くなって、すっぱくなって、腐ってしまったかのような罪人である。けれども、そんな私たちを神は見捨てようとはされなかった。福音によって救おうとされた。

「善を行う人はいない。ひとりもいない。」 「善を行う人」は「義人」の言い換えである。私は善を行ったことがある、という人はいるだろう。けれども、罪を犯さなかった人はいない、ということも真実だろう。そのような意味で人は善人ではない。エペソ2章1節では、「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいたものであって」と、善人どころか死人扱いにしている。罪人は神から切り離された死人であり、ゆえに犯すのは罪であり、人間の本質は善ではない。以前にも簡単にお伝えした、ある家族の話である。その家はクリスチャンホームだけれども、おじいちゃんがそうではない。おじいちゃんはときどき教会に出入りするけれども、信仰は自分と関係ないという顔である。ご自分の良い行いや手柄を誇っていた。聖書はいいことを言っているけれども、罪人扱いされちゃ困る。自分には学識も常識もある。人様のために胸をはれる人生を送ってきた。自分は善人であるというプライドである。ところが、おじいちゃんのプライドが砕かれるきっかけとなった事件が起きた。いつものようにダンディに道を歩いていたときのことであった。途中、ヨロッとよろめき、道端にあったおもちゃを踏んでしまった。そのとき、子どもが、「何をするんだ、くそジジイ!」と叫んだ。このおじいちゃんは、「自分はこれまでりっぱにやってきたつもりなんだけれども、子どもの目から見たら、ただのくそジジイでしかないんだ」とショックを受けた。「ワシはくそジジイ」。これまで頑固だったおじいちゃんは、この体験を通して、聖であり義である神の前に、自分のありのままの弱さや罪を認め、キリストを信じる決心をされた。

「彼らののどは開いた墓であり、」 ひどいたとえである。この場合の墓とは、当時の横穴式の墓のことである。その横穴に大きな石のふたがしてある。そのふたが取り去られ、墓の口が開いたらどうなるだろうか。内部は腐った死体が安置されているので、その死臭はひどい。悪臭が噴き出してくる。ある時、キリストは死んで四日たったラザロの墓の前に行かれたことがあった。その時、次のようなやりとりがあった。「イエスは言われた。『その石を取りのけなさい』。死んだ人の姉妹マルタは言った。『主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。』」(ヨハネ11章39節)。墓の奥にある腐った遺体から出る悪臭が穴から噴き出す。それが人間の口の罪にたとえられている。口の罪とは、人の心の内奥にある汚れが噴き出してくるものである。貪欲、悪い考え、苦いねたみ、敵対心、そういったものが言語化して噴き出してくる。これは無益な者となって、腐ってしまった人間の常習的な罪である。

「彼らはその舌で欺く。」 「欺く」の同義語は「うそをつく」となる。説明のいらない誰しもが犯す罪である。

「彼らのくちびるの下にはまむしの毒があり、」 「まむしの毒」は人を死に追いやる。人を殺す毒を口に隠し持っているというのである。その毒の成分が次に言われている。

「彼らの口にはのろいと苦さで満ちている。」 ことばの殺人に、のろいと苦さという毒を用いる。目の前の人間を抹消したい気持ちで、この毒を用いてしまう。それは「死ね」とか「バカ」とか、そのような直接的表現を取るとも限らない。

「彼らの足は血を流すのに速く」 これは、実際の足が速いか遅いかではない。人は悪を行うのが容易ということである。教えられなくても、すばやくやってしまう。

「彼らの道には破壊と悲惨がある。」 これは、人類のどの歴史を紐解いても、破壊と悲惨で彩られていることからわかる。旧約聖書のイスラエル人の歴史を見ただけでもわかる。歴史はどこを切っても、破壊と悲惨である。

「彼らは、平和の道を知らない。」 先の言い換えだが、このことに関して、おもしろい話を読んだ。ある少年が、学校から帰ってきて、母親にこう尋ねた。「お母さん。戦争はどうやって起きるの」。彼女は答える。「最後の戦争なら、ドイツがベルギーを攻撃したときに始まったみたいよ」。夕刊を読みふけっていたお父さんが話題に入ってきた。「そうじゃないよ。それはベルギーではない。ドイツがポーランドを攻撃したときに始まったんだよ」。ところがお母さんは譲らない。「そうじゃないわよ。私は確かに覚えているわ。ベルギーよ」。お父さんも譲らない。「お前、ちゃんとわかっているのか。お母さんは大学に行ってないだろ。おれは世界史を勉強したんだ。ドイツがポーランドを攻撃して戦争が始まったんだ」。ほどなく口論は熱を帯び、互いに叫んでいた。少年がお母さんのそでを引っ張って、何か言いたそうだった。お母さんは声を大きくして言った。「何が欲しいのよ」。少年は言った。「お母さん。もういいよ。戦争がどのようにして起きるのかよくわかったよ」。最高のオチである。お父さんとお母さんは子どもの前で、戦争の演習を無意識のうちに行っていたのである。戦争はどこにでもいる普通の人たちが起こしている。

「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」 「神に対する恐れがない」、これが罪の本質であると言われている。これが罪人の根源的問題なのである。すべての悪は神を恐れないことに起因している。

パウロがこのように旧約聖書を引用して言いたかったことは、ユダヤ人であるあなたがたも他の人たちと変わらず罪の下にあるのだよ、ということである。ユダヤ人は伝家の宝刀のようにして律法を持っていることを得意がっていたわけだが、パウロは19~20節において、伝家の宝刀である律法は、あなたがたを救う剣ではなくて、あなたがた自身を罪に定め、死のさばきに服させるものであることを伝えている。「・・・全世界が神のさばきに服するためです。・・・・律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」。律法は罪の意識を生じさせるだけで、救ってはくれない。死を宣告するだけである。だから、キリストの福音が必要なのである。パウロはキリストの福音を3章21節以降で明らかにするわけだが、パウロは今日の区分では、2章同様、ユダヤ人たちに自分たちが充分に罪人であることをわかってもらうことに心を砕いた。そして私たちも、今日の箇所を通して、自分たちが罪人にすぎず、救われるに値しない、無能力な者たちであることを教えられたいと思う。自分の罪がわからないと本当の意味で福音がわからなくなる。パウロは、半分キリストを頼みとし、半分自分の義を誇る人といった中途半端なクリスチャンたちを念頭においている。そういう者たちになってはいけない。そうであると、前回学んだように、他者をさばくという弊害も生まれてくる。私たちは、自分は救いが必要な罪人にすぎない、それ以外ではないということを認めた上で、キリストの福音に向かっていこう。