今日の区分は、前回に引き続き、自称善人となり、優越感に浸り、他人をさばいている人たちが意識されている。1節で「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです」と言われていた。他人をさばく人は、他人をさばきながら、自分でも同じことを行っていることに対して無頓着なわけである。

パウロは今日の区分で、自分自身のことが良く見えておらず、他人をさばいている人たちに対して、自分の目の中の梁と言おうか、自分の罪を直視させようとしている。具体的に誰が意識されているのかと言うと、神の律法を受けたことに安んじていたユダヤ人たちが意識されている。パウロは、彼らの具体的な罪を示して、他人をさばく資格などないことを分からせたいのだが、その前に、まず、他人をさばいている彼らの四つの前提を取り上げている。

17~20節をご覧ください。①彼らは律法を持つことに安んじていた(17節前半)。律法とは広い意味では旧約聖書全体だが、狭い意味ではモーセの律法である。彼らはモーセの律法を持っていることが選びの民のしるしととらえていた。でも持っているからどうだと言うのだろうか。宝の持ち腐れということばもある。➁彼らは唯一の神を誇りとしていた(17節後半)。彼らは人間が造りだした神々を拝む異教徒たちではなく、唯一の神を信じていた。しかし、神は唯一であるという知識ぐらいなら、悪霊でも持っている。「あなたは、神はおひとりであると信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています」(ヤコブ2章19節)。「私たちは唯一の神を信じているんだぞ、お前たちは信じていないだろう」。そのようにして、ただ神知識を誇っていただけでは何にもならない。➂彼らは神のみこころ、教えを知っている(18節)。「みこころ」とは神が私たちに要求していることである。それは、神が聖書を通して伝えたかった教えである。「私たちは神の教えを知っているんだぞ、お前たちは知らないだろう」と、知っているだけなら、そのような誇りは空しい。④彼らは教える立場にあることを自任していた(19,20節)。彼らは、とりわけ律法の教師たちは、自分たちのことを「盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師」と自負していた。彼らは異邦人を、「盲人、やみの中にいる者、愚かな者、幼子」と呼んでいた。そういう自分たちはどうなのか。他人のことを言える資格があるのか。同じようではないのか。ヨハネの福音書9章には盲人のいやしの記事があるが、そこでキリストは、「私たちは目が見える」と言っているパリサイ人たちを盲人扱いにしている。

私たちはユダヤ人ではないが、私たちには関係ないと思ってはならない。敬虔なカトリック信者、熱心なプロテスタント信者、聖書信仰に立つ福音主義者、バプテスト、改革派、長老派、ルーテル、呼び方はどうであれ、クリスチャンと呼ばれる人々は、今日の教えに心を向けなければならない。私たちは言う。「私は現代の秩序を失った堕落した世界を憂えている。この世は快楽主義が蔓延している。政治家は欺瞞に見ている。家庭の破壊が進んでいる。人々は罪を罪としなくなっている。彼らにふさわしいさばきが下るだろう。だが私は違う。神を信じている。教会にも通っている。聖書を読んでいる」。今日のみことばは、そこで終わらせようとはしない。

21~24節から、警告のことばを五つに分けて見ていこう。①「自分自身を教えないのですか」。これが私たちには苦手なのである。17世紀の著名な牧師にリチャード・バクスターという牧師がいる。彼は自己点検をクリスチャンの義務として口すっぱく教えた人物である。「あなたの心と生活に注意を払うことを、あなたの絶えざる課題としなさい。あなた自身について不注意であったり、無頓着であったりしてはいけません」。こうして彼は、自己点検を、主日を前にした週末に、聖餐式の前に、病気や苦難の時に、一日の終わりに、行うように勧めている。デボーションの時も自己点検の時となるだろう。聖書は私たちの姿を映す鏡である。鏡の前で自分を整えるわけである。疑わしいものは悔い改め、取り除くわけである。➁「自分は盗むのですか」。「盗んではならない」は、モーセの十戒の第八戒にある。ユダヤ人はこの戒めを厳格に守ろうとした。他者に対して正確な支払いをするというのはユダヤ教育の一部であった。にもかかわらず、盗みの罪が言われている。パウロは、ユダヤ人に対して、巧みな何らかのごまかしがあったことを見抜いていたのだろう。それはどういうものであったのかわからないが、例えば、価値の低いものを高く売ったら、消費者に対する盗みとなる。また労働者に対して契約通りに処遇しなかったら、雇人に対する盗みとなる。パウロは彼らの、何か巧妙な盗みを思い描いていたと思われる。➂「姦淫するのですか」。これはモーセの十戒の第七戒を破ることで、誰でも知っていた。異教徒たちの場合は姦淫を罪とせず、むしろ神々に近づく手段として、当たり前のように行っていた。パウロがローマ人への手紙を執筆したのは、ギリシャのコリント付近と目されているが、コリントは多数の神殿売春婦がいたことで良く知られていた。ローマ社会では、結婚前に貞潔を守るとか、夫婦間で貞節を守るというのは、普通ではない人間のすることとして受け取られる風潮があった。ユダヤ人たちは、こうした異邦人たちの不道徳を忌み嫌っていたわけである。けれども、類似の罪を隠れて行っていたのかもしれない。またキリストは、第七戒を次のように説明したことがある。「『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタイ5章27,28節)。④「神殿のものをかすめるのですか」。偶像崇拝の禁止はモーセの十戒の第一、二戒にあるわけだが、「神殿のものをかすめる」とは、どういうことなのかとなるわけである。神殿が異教の神々の神殿を指すのか、神の神殿を指すのかで解釈が分かれてくるが、異教の神々の神殿を指す可能性が大きい。一部のユダヤ人たちは偶像を忌み嫌うべきものとしながらも、偶像の神殿からそれを奪い、それを売り、利益を生み出すことに、ためらいがなかったと思われる。タルムードやミシュナーといったユダヤ教の文書では、偶像を取って、それを異邦人に売ることを承認する記述がある。彼らは偶像を造ったり、偶像を礼拝したりしないが、それを売ることで、偶像崇拝を助成し、また偶像で利益を得ていたことになる。私たちも、偶像礼拝をしなくとも、偶像に類することで利益を得るということがあってはならない。⑤「律法に違反して、神を侮るのですか」。ここでは神の戒め全般について言っている。もし神の戒めに不注意であるなら、どういうことが起きるのだろうか。「神の名は、あなたがた異邦人の中でけがされている」(24節/イザヤ52章5節、エゼキエル36章20,23節等)。今、まさにこの問題が全世界で起きている。今、世界の総人口が173億人。キリスト教徒23億人。イスラム教徒18億人。ヒンズー教徒11億人。仏教徒5億人、民族信仰(神道含む)4億人。欧米ではキリスト教徒が減り始めているというのは良く知られている話である。アメリカの場合、不道徳や離婚率がこの世の人たちと変わらないという問題が指摘されている。また人種差別の問題が指摘されている。ヨーロッパでは聖職者たちの性的虐待が話題となっている。フランスを例に挙げると、昨年の秋の報道だが、性的虐待にかかわったカトリック教会の関係者が1950年以降3千人にも及ぶことが公表された。被害にあったのは約21万人で、被害者の8割が少年ということだった(朝日新聞等)。

私は、飲酒と不倫に走り、仕事も結婚関係も破綻した、あるプロテスタント信者の話を読んだ。そのとき、このローマ人の手紙2章をすぐに思い起こした。彼は自分が善人で価値ある人間であることを自負し、人々を教え、失敗した人たちを立ち直らせようとしていた。それは成功しているかのように見えた。しかし、彼はだんだんと、確実に、冷たい、ひとりよがりな、優越感に浸る人間になっていった。人間観関係においては、傲慢で批判的になっていった。人々をさばく人間になってしまったということである。そして周囲と衝突を繰り返し、破綻していった。そうなる前に、神との関係も破綻に近づいていたのだと思う。私はこれと似たような人物を実際知っている。私たちは、神が座る裁判の席に座るのではなく、自分を神のようにしてしまうのではなく、神の前にひれ伏すような姿勢が常に必要である。そして自己点検をするのである。すべてのことを神の視座から見ることが大切であるし、自分の思い、態度、行いを神に明け渡すようにしなければならない。こうした姿勢がなければ自己欺瞞に陥ってしまう。

パウロは次に、ユダヤ人たちの優越感、特権意識、言うなれば高ぶりを打ち砕くために、割礼を引き合いに出している。では25~29節に移ろう。割礼は生まれた男子が生後八日目に受ける儀式で、生殖器官の包皮を切り取るものである。彼らはこの割礼を誇っていた。この割礼は信仰者の父と言われるアブラハムが神との契約の時に与えられたしるしである(創世記17章)。この後、割礼は神の民のしるしとして覚えられるようになった。パウロはまず25~27節で、「割礼というのはしるしにすぎない。神の民の実質を作るのは律法を守ることだ。だから、律法を守っていないあなたがたは何も誇れないはずだ。外見を誇っても仕方ないだろう」と主張している。また、「割礼を受けていなくとも律法を守るまじめな異邦人と、ふまじめで律法を守っていない割礼だけのユダヤ人と、どちらが神の民らしく見えるの?」と皮肉っている。外見を誇るというのはいつの時代もある。家柄を誇る。血筋を誇る。肩書を誇る。たくさん勉強してきたことを誇る。資格を誇る。能力を誇る。社会での実績を誇る。身なりを誇る。卑しいものでないことを誇る。自分がクリスチャンであることに安んじ、それを誇る。そうして私はあなたがとは違うと言いつつ、神の目から見ては問題児で、悔い改めを拒んでいる人たちは多い。

パウロは28~29節で、外見ではなく、「御霊による、心の割礼」の大切さを語る。この「御霊による、心の割礼」はパウロの発案ではなく、すでに旧約聖書で数度にわたって主なる神ご自身が言われていることである。「あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない」(申命記10章16節等)。外見ではなくて、目に見えない心の変革が大切なのである。新約時代にあっては、それは御霊によるものであることがはっきりと啓示されている。御霊によって内的に生まれ変わり、神との平和を持ち、神に喜んで従う心をもつことの大切さが言われている(8章で詳しく取り扱われている)。外見の良さ、外面的な正しさ、肩書、そうしたものを誇っても仕方がない。どんな鎧兜で自分を覆うとしても、心が変わっていないのなら空しい。神を信じていると口にする人、外面的には普通以上に良い人間と目されている人、善人だと思われている人、しかし、他人を見下し、さばき、心の中に苦さや、冷たさや、ずるさがあり、真の平安も喜びもないのなら、神はその人を良しとしないだろう。キリストはある時、ユダヤ教の指導者に向けてこう語られた。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人、おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものでいっぱいです」(マタイ23章27節)。当時の墓は土葬であったが、墓の中にあったのは腐った死体である。墓の蓋を開ければ、猛烈な悪臭が噴出した。キリストは、「あなたがたは外面はりっぱに装っているが、心の中は腐っていて、目も当てられなく、吐き気がする」と言われたのに等しい。「人はうわべを見るが、主は心を見る」とういうことは真実なので、自分のうわべを脱ぎ捨てて、ありのままの姿で神の前に出て、悔い改め、キリストの十字架の血潮によってきよめていただいて、御霊のご支配を求めればいいことである。

今日のタイトルは「自分自身を教える」ということであったが、やはり、他人をさばくエネルギーを自分に向けたい。へりくだってこのことをしたい。「しかし、聖書を知ることと、そのことばに生きることとは別です。それにもかかわらず、聖書の知識を誇る思いが起こります。未信者の家族や友人たちに対して、聖書や教理を学んでいない人々に対して、まるで自分は何でもわかっているかのように。しかし、私たちはいったい何を知っているというのでしょう。知っているというのなら、どれほどその知識にふさわしく生きているというのでしょう。神を侮ってはいけません。真の神知識は、私たちを常に謙遜にさせるものです」(吉田隆)。29節後半に、「その誉れは、人からではなく、神から来るのです」と言われているが、世の終わりに、主なる神から称賛が届くのは、以外にも平凡で、地味で、みことばに対して単純で、素直で、みことばに生きようとしている心の貧しい聖徒たちかもしれない。