2章のパウロの冒頭のことば「すべて他人をさばく人よ」はドキッとさせられる。最近は「ルッキズム」ということばも聞くようになった。外見で人を判断し、差別するというもの。容姿で判断する、見てくれで判断する。そして差別をする、えこひいきをする、ということが起きる。これに関しては、イスラエルの二代目の王を選ぶ時の有名なお話がある。神さまは預言者サムエルに、ベツレヘムのエッサイのところに出かけ、息子たちの中から王を選ぶように命じた。サムエルは最初、長男のエリアブを見て、この者こそ王にふさわしいと思った。そうしたら神さまは、「彼の容姿や背の高さを見てはならない。わたしは人が見るようには見ない。人はうわべを見るが、主は心を見る」という有名なことばを語られた(第一サムエル16章7節)。そして最終的に、末っ子のダビデが王として選ばれた。

今日の「すべて他人をさばく人よ」というとき、判断のまちがいというよりも、もっと悪い精神が責められているようである。前にもお伝えしたように、ローマ人の教会の構成員は異邦人とユダヤ人であった。この二者は当然のことながら、カラーが違う。パウロは1章では異邦人の偶像崇拝と不道徳の問題を取り上げた。2章では異邦人を見下げがちなユダヤ人が意識されている。ユダヤ人たちはプライドが高い。自分たちは神に選ばれた民だ、自分たちはモーセの律法と伝統的なしきたりを守っていて、異邦人たちとは違う。このようにして、神々を拝み偶像崇拝に走り、不道徳に走っている異邦人をさばいていた。彼らの口癖は、「神はすべての国民のうちで、ただイスラエルだけを愛している。異邦人はさばかれる」であった。そして、自分たちはさばきからはまぬがれられると考えていた。自分たちは神にひいきされているから大丈夫だと。また、自分たちは異邦人たちより真面目だから大丈夫だと。

こうした人をさばく問題はユダヤ人の問題だけで、自分は関係ないと思ってはならない。私は真面目な人を見ていて、たまに、つらくなる時がある。自分を神の位置につけて、裁判官になって、他人をどんどんさばく。しかし、そのエネルギーを自分には向けない。自分は善人で彼らとは違う、である。ヤコブは言っている。「兄弟たち。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。・・・律法を定め、さばきを行う方は、ただひとりであり(神さまおひとりであり)、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたはいったい何者ですか」(ヤコブ4章11,12節)。ヤコブは、神さまに代わって裁判の席に着いて、同じクリスチャンたちをさばいている者たちに警告を与えている。福音書を見ると、さばきのスペシャリストたちは、自称義人のパリサイ人たちだった。民衆を見下げ、事あるごとにさばいていた。彼らは、自己中心、短気、怒り、高慢、不誠実、偽善、残酷さなどを隠し持っていたが、そうしたことに気づいていなかった。気づいていたかもしれないが、そうした罪と正面から向き合おうとはしなかった。そしてさばきの視線を他人に向け、キリストにまで向けて攻撃した。

キリストのさばきに関する有名なメッセージがある。目を落としてみよう。マタイ7章1~5節を開いてご覧ください。「また、なぜあなたは兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか」(3節)。キリストはある時、ユダヤ人たちの目の中の梁に気づかせる話をされたことがある。ヨハネの福音書8章では、姦淫の現場で捕えられた女の物語がある。彼女は人々の前に引き出される。律法学者とパリサイ人は、キリストに問いかける。モーセの律法によると、こういう女は石打ちの刑に値するが、あなたはどう思うかと。するとキリストは、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に石を投げなさい」(ヨハネ8章9節)と言われた。けれども、誰も彼女に石を投げられなかった。自分の目の中の梁を意識させられた。彼らは他人をさばく資格はないことを思い知らされ、その場から立ち去って行った。

ローマ人の手紙2章に戻ろう。ユダヤ人たちは、目に見えるところでは、確かに異邦人たちよりは厳格であった。だがパウロは、あなたがたも同罪なのだと言う。キリスト流に言うと、自分の目の中の梁に気づきなさいと教えている。「さばくあなたが、それと同じことを行っているからです」(1節後半)。パウロは、あなたがたも同罪であるという問題を、次週の箇所である17節以降で詳しく取り扱うことになる。

パウロが2章前半で強調していることは、他人をさばき、自分も同じことをしていながら思い上がっている人たちに対して、神のさばきは公平なのだよ、ということである。これから、神のさばきに関して、四つのことを挙げてみよう。

第一に、神はすべての人をさばくということ(2~5節)。5節にあるように、自分はさばきをまぬがれることができると思っている、他人をさばくユダヤ人でさえ、さばきをまぬがれることはできない。アメリカの連邦大法院長であったホレイス・グレイ判事が、ある町で一人の犯罪人に出会った。その人は法の目をかいくぐり、無罪釈放の身となって、町の中を闊歩していた。彼を見つけたグレイ判事は、こう言ったそうである。「あなたが有罪であることは私も知り、あなたも知っている。これだけは言っておくが、後の日に、あなたは必ず人間よりすぐれた裁判官の前に立ち、この世の法律ではなく公義によってさばかれるだろう」。人は誰でも、やがての時、神のさばきの座に引き出される。私たちは悪者が幸せそうに生きているのを見ると、神のさばきの時があることを知り、慰められる。この世は正直者がばかを見る世界であっても、神の公正なさばきがあることを知って慰められる。ただし、知っておきたいことは、ここでは、自分は悪者ではない、正しいと、他人をさばく人たちが意識されているということである。5節の「あなたは」とは誰が意識されているのだろうか。どうしようもない悪人だろうか。いや、1節の「すべて他人をさばく人よ」が意識されている。

第二に、神はひとりひとりの行いに従ってさばくということ(6~8節)。6節では「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります」とある。ローマ人の手紙のテーマは「福音」ということであった。それは何の良い行いもない者が、ただキリストを信じる信仰によって、ただ恵みによって救われるということであった。誰でも自分が罪人であることを認め、キリストが十字架について罪の代償を支払ってくださったと信じる者は救われる。では、ここでは福音と反することが言われているのだろうか。良い行いによって救われるということが言われているのだろうか。救いは行いによるのだろうか。1章は冒頭から福音を強調していたのに、どうしてしまったのだろうか。パウロは、他人をさばく、自分の行いを誇る者たちを砕こうとしていることはまちがいない。他人をさばく人たちは自分の言動が見えていない。パウロは他人をさばく者たちが悔い改め、自分の不義を認め、真に福音に向かうことを願っている。そして、また、知っておかなければならないことは、神の恵みによる救いと良い行いはコインの裏表のような関係にあるということ。神の恵みによって救われ、本当に神に立ち返った人は、良い行いに進むだろう。この恵みと良い行いは、鏡像にもたとえられるだろう。鏡像というのは鏡の横に立ったとき、左右対称に映る姿である。神が私たちに真実な行いを望んでいるということは確かである。さらに、また、クリスチャンたちは、キリストの福音を信じる者は神の御怒りから救われ、永遠の刑罰から救われるけれども、報いはなお、その人の行いに比例することを知っておきたい(第一コリント3章10~15節)。

第三に、神のさばきにえこひいきはないということ、神のさばきは公平であるということ(9~15節)。かつて旧約時代に、神のさばきを受けて、国家壊滅の苦難を味わったユダヤ人は、主なる神に、次のように戒められたことがあった。「あなたがたは、『主の態度は公正ではない』と言っている。さあ、聞け。イスラエルの家よ。わたしの態度は公正ではないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないか」(エゼキエル18章25節)。パウロは9~10節で、さばきに関して、ユダヤ人とか異邦人とかの区別はないと言っている。神のさばきは公平なのである。もっと、身近なことにして、日本人だけ見ても、あの人、この人の区別なく、神は公平なさばきをされるということ。しかし、人の目にそう映らないことがしばしある。神は不公平だと口にする人は、この世の短い一時の人生しか見ていない。どうなんだ、あの人はと思う人が、何のお咎めもなく幸せそうに暮らしているのを見ることがある。それに対して、誠実そうな人に、貧しさとか病とか、次々試練が襲いかかり、たいへんそうに見えることがある。だが神はやがての時、公平なさばきをされる。そして正当な報いを与えられる(ハバクク書参照)。

パウロは、ユダヤ人は律法の書に従ってさばかれるのだろうが、異邦人は何によってさばかれるのか?という質問を予想して、12~15節では、人の良心に神の律法が書き込まれていることを教えている。良心は、人間が進化の過程で、共同生活を送っていく中で、便宜的に身に着けたもの思っている人たちがいるが、良心は人が神のかたちに造られた証拠で、神が私たちの心の板に戒めを書き記したものである。だから、私たちは、この良心がある程度摩耗してしまっても、何が善で何が悪なのか、最低のことは知っているはずである。私たち日本人も異邦人だが、私たちの心の板に神の戒めは書かれている。心の板に書かれた律法は、何が正しくて何が正しくないかを教えてくれている。だから、やがて神のさばきの座に引き出された時、盗むなとか、姦淫するなとか、殺すなとか、そんな戒めや基準は知らなかった、知らなかったのにさばくなんて不公平だ、という言い訳は成り立たなくなる。律法を知っている者は知っているというだけではだめで、5節にあるように悔い改めなければ御怒りを受けるし、異邦人は心の板に書かれた律法を無視するならば、12節で言われているように、やはり滅びるのである。

第四に、神は隠れたことをさばかれるということ。「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に行われるのです」(16節)。人前でりっぱにふるまっていても、人の目につかないところでどうなのか。これは人目を気にして行動する日本人は特に心に留めなければならないことである。隠れて何かをしても、神の目には隠れていない。すべて丸裸である。暗がりで行っても、神に光も闇もない。同じことである。さらには、神は心の中までご存じであるということである。良い行いをするといっても、動機は自分が良く思われたいだけのためかもしれない。キリストはこうした偽善が一番重い罪であることを教えた。また良い行いをするのは、自分の悪がバレないようにするためかもしれない。ただの罪滅ぼしで、自分の罪を減らしたいだけかもしれない。恐怖心が動機の良い行いというものもあるわけである。ただお金のために頑張るということもあるだろう。だから、人の目にどう写ったとしても、神のさばきは公平なのである。私はあの事、この事をしたではありませんか、と弁明しても、神は認めないという判断を下されることも起きる。反対に、自分が完全に忘れてしまっていたような小さなことが評価され、認められるということも起きるだろう。「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ26章40節)と。

私たちはすべての神のさばきを神におまかせし、この地上では謙遜に歩むだけである。パウロは第一コリント人への手紙4章4節で言っている。「私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばくお方は主です」。そして続く節で言っている。「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです」。人を簡単にさばいている場合ではない。

今日のタイトルは、「すべて他人をさばく人よ」であったが、さばき主の前に謙遜になるどころか、高慢になって自分が裁判官になって他人をさばき、しかし自分のことは見えていない愚か者にならないように気をつけたい。「しかし、自分が悪人だとは思っていない人々、いつでも他人の責任にする人々のなんと多いことか。自分の非を認められない人々のなんと頑ななことか」(吉田隆)は真実である。私たちは他人をさばくエネルギーの十分の一でも、自分に向けるようにしたい。