前回は、18~25節までから、異邦人の偶像崇拝の罪について見たが、今日は不道徳の罪についてである。偶像に心を向けるときに、人は心の欲望のままに生きることになる。

不道徳については24節でも記されていた。「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのため彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました」。「引き渡され」という表現は、クルマのたとえを使えば、神さまは、ブレーキを緩め、人間の心の欲望のままに生きるようにされたということであろう。それで人間は暴走した。「心の欲望」は「情欲」と訳しうることばである。そして「互いにそのからだをはずかしめるようになりました」というのは、性的放縦の罪について言及していると思われる。手紙の送り先であるローマは快楽の都市であった。歴史家タキトゥスは、ローマを「世界中からおぞましい破廉恥なものごとがことごとく流れ込んで、もてはやされる都」と書き記している。円形闘技場では、人間と野獣の闘い、公開処刑、剣闘士の闘い、こういった死の見世物で人々は熱狂した。一般庶民の日常の楽しみは、酒と女と賭博であった。円形闘技場近くには歩く娼婦がたむろしていた。墓地で身を売る女「墓守女」もいたし、食堂では給仕女が娼婦に早変わりもした。結婚していた夫婦も夫、妻以外との秘め事も当たり前であった。やもめとなった女性も肉欲をもてあまし、使用人や奴隷を相手にすることもあった。

この手紙は紀元57年頃執筆と言われているが、紀元37年まで皇帝を務めたティベリウスは67歳でカプリ島に隠棲すると、最初にやったことは、性的乱交をほしいままにする大売春宿を建造することだった。ローマ帝国各地の村や町に部隊を出勤させ、売春宿のために美少年や美少女を駆り集めさせた。親たちは皇帝のお召しを拒むことはできなかった。そのカプリ島で行われていた少年少女をもてあそんでの乱交パーティは口にすることができない卑猥なものである。

ローマ帝国では年中、神々の祭りが行われていて、乱痴気騒ぎが繰り広げられたが、4月末から一か月に渡って開催されるフローラの祭りは奔放極まりないものであった。フローラはティベリウス帝に愛された絶世の美女で娼婦だった。彼女が亡くなると、彼女のために神殿が建てられ、神官や祭司まで任命され、女神としてあがめられることになった。フローラの祭りは、いわば娼婦の祭典だった。祭りにはローマ中の2万人の娼婦が総出で練り歩き、無料サービス。ローマ全体が売春宿と化したような騒ぎになったという。祭りの内容は口にできない破廉恥なもので、なんとこの破廉恥な祭典は16世紀まで続いたと言われている。これなど、偶像崇拝と情欲の結合の良い例である。日本でも、神社の祭典にこうしたものはつきものであったことを、昭和時代までの人なら良く知っている。

パウロは、26~27節では同性愛の罪を挙げている。「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです」。同性愛も聖書が禁じている罪である。「あなたは女と寝るように男と寝てはならない」(レビ18章22節)。現代はジェンダーの問題がクローズアップされている。いわゆるLGBTと同性愛、同性婚の問題をどう取り扱うか。LGBTはセクシャル・マイノリティの総称で、Lはレズビアン(女性の同性愛者)、Gはゲイ(男性の同性愛者)、Bはバイセクシャル(両性愛者)、Tがトランスジェンダー(心と体の性が一致しない人)。これはおおまかに4つに分類したということで、さらに細かに分類されていく。性を規定するものには様々ある。一例をあげると、染色体がある。XXが女性、XYが男性。しかし事は単純ではなくXXの男性がいたり、YがないXだけの男性がいたり、様々なバリエーションがある。ホルモンの分泌の違いもある。卵巣・精巣といった性腺の違い、生殖器官の有無、こうした肉体的・医学的事柄だけではなく、親に男なのに女の子として育てられてきたなど、複雑な問題があることは確かである。

この問題で記憶に新しいのは年末に開催された紅白歌合戦のロゴである。白と赤ときっぱり色分けしないで、中間をグラデーションにしたデザインである。実際、性をグラデーションで理解しようという動きが広がってきている。男と女という区別はやめよう・・・。

キリスト教界の中でも、性は一様ではないということから、異性愛だけをよしとするのではなく、同性愛、同性婚を認めるべきだという主張も見られるようになってきた。確かに、先のような理由から、性的志向が同性に向かうということはあるだろう。しかし、聖書が同性同士の性行為や結婚まで認めているようにはとうてい思えない。

それを認める立場の言い分は、次のようなものがある。「聖書はその当時の文化や倫理観の影響を受けて書かれているので、今となっては時代遅れの価値観で書かれていることも多く、パウロなどの主張も、それをそのまま受け止める必要はない」。だが、私たちは、聖書は誤りのない神のことば、私たちの生活基準と認めているわけである。そうであっても、同性婚を認めようという立場がある。どういうことかと言うと、正しい表現とは言えないかもしれないが、同性愛者の方のもつ性を「第三の性」という表現を取らせていただくと、聖書は「神は人を男と女に創造された」「二人は一心同体になる」と教えているが、第三の性の出現のことには触れていないということであって、この性のあり方も認めるべきで、愛というのは身体的な結びつきを含むことであるのだから、それを否定するすべはない、同性愛者でも性的パートナーシップがあるのが健全という理解となる。こうした立場に立つと、先ほど引用した「あなたは女と寝るように男と寝てはならない」(レビ18章22節)を次のように解釈する。「LGBTの性行為を指すのではなく、異性愛者が他人の妻に手を出し、男性にも手を出し、果ては動物にも及ぶという性欲の奔放な発露への戒めではないか」と解釈する。異性愛者が乱れた性行為に走ることへの戒めなのだ、で切り抜ける。ローマ人の手紙1章にあるようなパウロの批判も、異性愛にも乱れた実態があるのであり、これは異性愛者の度を越えた情欲におぼれることへの批判であって、LGBTそのものを否定することにはならないとする。

確かにLGBTには難しい問題はある。しかし、今日の26,27節から、心に留めておきたい表現は、「自然な用を不自然なものに代え」「自然な用を捨てて」の「自然な用」という表現である(新改訳2017「自然な関係」)。「パウロの言う『自然』は、造り主である神が天地万物を創造なさった時の(堕落以前の)状態のことです」(吉田隆)。私たちは、自然な用が、自然な関係がどういったものか、共通認識としてある程度、認知しているわけである。私たちはLGBTの方々を、神に造られた存在として愛さなければならない。同性愛的傾向も様々な事情で生まれることを理解しなければならない。だからといって、同性愛行為まで認めてしまっていいかと言えば、話は別のはずである。聖書を素直に読むと、禁止していることがわかる。パウロは同性愛の行為は性的倒錯であると言っている。27節の「誤り」の別訳は「倒錯」である(新改訳2017欄外註)。

パウロは最後に、ありとあらゆる罪を挙げている。「また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです」(28節 新改訳2017訳)。神を知ることに価値を認めないと、無価値な思いとなって、偶像崇拝や性的放縦だけではなく、29~31節に挙げられている罪に走ることになった。この個所をある方は「咲き乱れる悪の華」と表現した。ローマの都市がまさしくそうであった。一見、華やかな都であったが、悪が咲き誇っていた。ローマ史を読むと、息苦しいほどに悪が咲き誇っていた。ローマ帝国は不道徳によって滅びたという見解もあるほどである。

29節には「殺意」とあるが、奴隷は主人の意に沿わないと殺されたし、家父長は子や孫の殺害も許されていた。だから、社会的殺人が多かっただけでなく、殺人は身近な事柄だった。こうした殺人に至る殺意は、誰しもが持ち得るものである。

「彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです」(32節)。「死罪に当たるという神の定めを知っておきながら」とあるが、私たちは、罪を犯すと胸が痛む。罪から来る報酬は死の裁きという感覚を誰しもが持っている。私たちには善悪を感知するセンサーとして、心の中に「良心」が与えられている。だから、客観的にいって神の目に良くないことをすると、心が疼く。痛みを覚える。しかし、その痛みを押し殺して、良心の声をかき消して、自分のしていることを正当化しているという実情がある。

私たちは1章に記されている罪悪の一覧表を見ると、自分も罪人の一人であると教えられる。すべて心当たりはない、ということはない。今日の個所は、私たちの罪悪を指摘するためにある。だがそれが最終の目当てではない。罪から救う福音を提供することがその目当てである。内村鑑三のコメントを読んで終わろう(現代訳にして)。「彼(主イエス)は、十字架においてすべての人の罪を負い、それゆえに、私たちの罪はいかに重くかつ深くとも、春の日の淡雪のごとく消え去るのである。そして私たちは罪をその根底において除かれて、ただ主イエスを信じるだけで、功(いさおし)がなくとも義と認められるのである」。横手の雪は重く深い。雪解けを待ち望む気持ちになる。私たちの罪も重く深い。しかしそれが春の日の淡雪のごとく、神の目にから消え、罪のない者として義と認められる。それは、ただキリストのなせるわざである。悔い改め、キリストの十字架はわが罪のためなり、と信じるならば、罪は消え去るのである。