ローマ人への手紙は、ローマのあちらこちらに点在している家の教会のメンバーに書き送られた手紙である。執筆者パウロは、異邦人とユダヤ人を意識して執筆している。それがローマにある家の教会の構成員であったからである。執筆者パウロは、今日の箇所から具体的な問題を取り上げていくことになるが、1章18~32節は異邦人が一番に意識されて書かれている。異邦人の罪の列挙である。1章で異邦人の罪を列挙した後、2章に入ると、今度は、異邦人を裁いているユダヤ人を意識して、あなたがたも同罪なのだと彼らの罪を明らかにしていく。

今日は異邦人の罪の前半の偶像崇拝を扱うが、偶像崇拝はユダヤ人も行ってきたものであるということは、旧約聖書を読めばわかることである。偶像崇拝は人間の根源的罪なのである。偶像崇拝の禁止は出エジプト20章を読めば明らかであるように、モーセの十戒でもトップに挙げられており、この罪が諸々の罪を引き起こす動因となることを暗示している。1章24節以降は、偶像崇拝に続いて、偶像崇拝がもたらす不道徳が挙げられることになる。ユダヤ文学の知恵の書14章ではこうある。「偶像を考えつくことから姦淫が始まり、偶像を作り出すことによって生活が堕落する」(14章12節)。「実体のない偶像を礼拝することは、諸悪の始まりと源、そして結末である」(14章27節)。偶像崇拝が根源的な罪で、その他の罪がそれに続くと言えるだろう。パウロもそれを意識してか、偶像崇拝を罪のトップに挙げている。

パウロは偶像崇拝の罪を挙げる前に、18節において、神の義とは反対の不義を持つ人類のあらゆる罪に対して、「神の怒りが天から啓示されている」ことを伝えている。「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが啓示されているからです」。パウロは具体的に罪を列挙する前に、神の怒りを意識させる。普段当たり前に行っていることは、実はたいへんな罪なのだと分からせるためである。そうでないと、罪から救われる必要性を覚えないからである。

神の怒りについて説明を加えておこう。ある人々にとって怒りとは、自制心を失い、真っ赤になって感情を爆発させることを想像する。確かに、それも怒りである。しかし神が怒るというとき、それは擬人的な表現であることをわきまえておかなければならない。神の怒りは、人間の怒りがしばいそうであるように、気まぐれな、勝手気ままな、かんしゃく持ちな、理性を失った感情にまかせての爆発ではない。それはあらゆる悪に対して、すべての罪に対して、正しく、かつ必要な反応なのである。

神の怒りを人間の怒りと区別するために「憤り」という訳語を用いることもできる。それは「義憤」という意味を持ち合わせている。それ「正義の怒り」という意味である。それは怨念から生み出される、日本人の神々の特質とされるところの「たたり」とは性質を異にしている。日本古代史研究家は「日本人にとって神とは、基本的にたたり神なのだ」と語る。家を建てる時に地鎮祭を行うのも、土地の神が暴れないように、という信仰の名残なのだと言う。神社を建立することになったのも、たたりを鎮めるためだと言われている。しかし、神聖な神の怒りは、かんしゃく、怨念、恨み、といったこととは性質を異にする。それは正義の裁判官としての怒りである。18節前半で「不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して」とあるように、神は私たちの不義を問題にしておられる。そして18節後半で「神の怒りが天から啓示されています」とあるが、「啓示されている」という表現は、文法的には継続の状態を表している。つまり、神の怒りは、堕落した私たち人間に対していつも啓示されているということである。今もである。

神の怒りというものは、人間の良心を通しても知ることができるだろう。良心は何が悪で何がそうでないかを示す神が与えた判断力。良心の呵責は、神の怒り、裁きがあることを示している。また神の怒りは歴史を通して知ることができる。聖書を読めば、神の怒りは現実のものとなっていったことが分かる。人間は神の怒りのもとにある罪人なのである。他宗教では、人間は生まれながらにして神の子であると教えている。または生まれながらにして仏の子であると教えている。こうして神の怒りを覆い隠しているのである。

では神の怒りを引き起こすものとして最初に挙げられている偶像崇拝を見ていこう。パウロは19,20節において、この被造物世界を見れば神の存在を認めるというのは当たり前の話ではないかと言っている(19,20節)。「明らか」「はっきり認められる」「弁解の余地はない」とまで言って、この世界を造られた創造主なる神に素直に心を向けないことを問題視している。

人間がしてきたことは、自分たちの知性を誇りながら、造られた方ではなく、造られたものを拝むことである(21~23節)。まずしてきたことが自然崇拝、アニミズムである。アニミズムは、動植物、山川、石、といった自然界のすべてのものに神霊が宿るという思想。太古の日本がそうであった。山に神が宿っている、海から神が来る、そう信じて鳥居を築いた。仏教の伝来によって、それまでなかった神像を造るようになっていく。石や木で、神を形で表す傾向が強くなっていく。この前、BSでイギリスの古代宗教を紹介していた。やはり、古代は自然崇拝、アニミズムであったそうである。しかし、その伝統は魔女などを通じて脈々と受け継がれ、現代でも行われている。テレビでは現代の魔女と言われる人によって石を崇拝する儀式を映し出していた。私が茨城県の鹿島郡で牧会していた時、インドネシアで宣教師をしていた牧師に請われ、鹿島神宮にお連れしたことがある。そこで見たのは、石神を拝む光景であった。地面から突き出ている石の塊に唇を震わせながら熱心に手を合わせていた男性がいた。

この前、エジプトの神々を展示する記事を読んだ。牛、猫、蛇といった神々の写真を見た。日本でもご存じのように、牛、猫、蛇だけでなく、あらゆるものが神とされ、八百万の神として知られている。仏教の母体となったヒンズー教では三億三千三百万の神々を信仰している。すべてが神の一部と考えれば、神々の数は幾らにでも増えていく。世界的には太陽崇拝、蛇崇拝がどこでも行われてきたが、文化の成熟とともに、こうした傾向は下火になってきたかとは思う。神を人の形にかたどって拝むというのは相変わらず行われている。今問題なのは、神と被造物を区別しない神秘主義的な宗教観から来ている人間の神格化である。人間そのものを神にまで高めてしまう傾向性である。スリランカでは、仏陀のものと言われる変色した歯がハスの上に置かれ崇拝の対象となっているが、そうした人間崇拝的なものとは、またちょっと違う。自分が神の原石であると気づきなさい、あなたのうちに神を見よ、といった思想である。人間を神とするというのは、聖書が禁じていることである。

偶像崇拝というものは、色々な種類があり、様々な形がある。マリアや聖人に手を合わせるなどというのも、理屈を付けずに、偶像崇拝と認めるべきものである。不滅の神の御栄え(栄光)を、被造物に与えてはいけない。

私たちの心を新たな気持ちで自然界に向けてみよう。太陽と地球に目を向けてみよう。太陽の大きさは、地球の33万個を集めた分。その熱は摂氏1500万度である。聖書を見ると、太陽はその熱と光によって地球に生命が存在するために神が置かれた天体であることが証言されている。太陽から地球の距離は1億四九六〇万キロ。地球と太陽の距離がもう少し遠かったら地球は凍り付き、もう少し近かったら熱すぎて人は住めない。絶妙な距離に配置されている。また地球がもう少し大きかったらやはりだめ。また地球が太陽の周りを回る速度も、現状より速かったり遅かったりすれば、それにより起こる温度変化は致命的なものだという。さらには、地球の地軸の傾きが少しでもある方向に変われば人間は凍えてしまい、逆に反対の方向に傾けば焦げてしまう。神はすべてを賢明にレイアウトされている。

人間と地球の関係に焦点を当ててみよう。人間のからだは70パーセントが水であると言われているが、ご存じのように地球は水の惑星である。水があるから生命は存在したというよりも、神は私たちのために水を用意してくださったということである。また人間が生きるためには空気が必要である。地球の空気には酸素21パーセント、窒素78パーセントが含まれている。この酸素と窒素の割合が少しでも違っていれば、私たちは空気を吸っていられなくなる。

神が造られた樹木に心を留めよう。樹木は下に伸びて、根から水を吸い上げ、必要な栄養分を地面から引き上げる。そして葉を通し二酸化炭素を吸収し、最後には副産物として空気中に酸素を返している。この酸素が人間に必要であることは言うまでもない。また樹木は果実を実らせる。聖書を見ると、神は人間の食べ物として果実を備えたことが書いてある。神は果実の他に、野菜、穀物などを備え、人間の生存に不可欠な栄養素を備えてくださった。

また神は、海洋生物、陸の上の生物、動物を造られた。これらは人間が拝むためにあるのではない。地球環境を保つため、人の益となるために神が造られた。受粉の働きをする蜜蜂だけを見てみても、神の創造の知恵と力を感ずる。蜜蜂の目の働きを考えただけでもすごい。蜜蜂の目は広角で視野が広い。蜜を得るのに適した花を探し回るのに、その目には何千という小さなレンズが入っている。

そして、これら自然界を見渡すときに、その芸術性に私たちは驚く。私たちが毎日何気に目にしている風景も、当たり前のものではない。素晴らしい神の芸術なのだと知る。

では、神が創造した最後の作品と言われる人間にも心を留めよう。進化論では、人はアメーバから徐々に昇りつめて人間になったとするが、人間は余りにも緻密で複雑なデザインを持っている。人間の目だけ取り上げてもすごいことになっている。一生涯フルカラーでフルタイムで可動する。目という装置は驚くほどの速さで、近くにも遠くにも焦点を合わせることができる。また光り輝く場所から暗い部屋へと、一瞬のうちに対応できる。人間の目という映像装置の機能の優秀さに人間の技術はまだ追いついていない。眼球には動きを察知し形状を登録する1億二千六〇〇万の「桿体(かんたい)」と、色を識別する六〇〇万の「錐体(すいたい)」がある。目が受けた刺激は光エネルギーから電気エネルギーに変換され、視神経によって脳の中枢に伝えられる。実際は脳が見る。脳は優れたコンピューターとして情報を記録し、解釈する。こうした機能そのものが、偉大な設計者の存在を雄弁に物語っている。このような「見える」装置が偶然できるという説明をまともに受け止める人がいるのだろうか。

そして、聖書は、今日の個所によるならば、まさしく、この目を用いて、周囲の被造物世界を見渡し、この世界をデザインし、造られた神を知るように招いていることを知る。20節に「神の永遠の力」とあるが、それは、この世界を創造された全能の力のことである。ご存じのように、今、一般的に受け入れられているのは「創造論」ではなく「進化論」である。進化論を体系化したのは英国人ダーウィンである。彼は1831年22歳の時に、ビーグル号で5年の航海に旅立った。彼はガラパゴス諸島などで野生動物の調査を行い、生命の起源に創造主の関与はないという理論を打ち立てる。彼は1859年50歳の時に「種の起源」を出版する。彼は「自然淘汰」を強く謳い、自然に淘汰され、生き残ったものが徐々に変化し、単純生物から人間にまで進化した、と結論づけた。この進化論こそ科学的とされた。そして偉大な科学者である全能の神は多くの人によって否定されることになった。実はダーウィンは聖書学校にも行き、ビーグル号の船上で毎日行われていた礼拝にも参加していた。ところが当時、無神論の空気が時代を覆っていて、彼は40歳までに聖書の神を全く否定してしまった。けれども彼は晩年、神の概念を人々の思いから全く退けようとすることで殺人に近いことをしてしまったと後悔の告白をしたと言われている。だが時代の波は進化論を推すことになっていく。今日のテーマは進化論そのものではないので、進化論についてはここまでとする。私たちは、ただ、「神の目に見えない本性(性質)、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきり認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです」(20節)というパウロのことばに、アーメンと同意したいのである。

21節では無神論のことが言われておらず、「それゆえ、彼らは神を知っていながら」とあるが、当時のギリシヤ・ローマの世界観は神の存在を肯定することが当たり前であったことが背景としてあるのだろう。当時、目に見える偶像を拝まないクリスチャンたちは、無神論者だと嘲られたほどである。当時は有神論が当たり前の世界観だった。けれども、この世界を造られた唯一の神を正しく認めることはなかった。だから、「神を神としてあがめず、感謝もせず」の状態になった。「神をあがめない」とは、創造主なる神を神の位置に置かないという状態である。「感謝もせず」とは、この世界を造り、光や水や空気や食べ物や、その他必要なすべてのものを与え生かしてくださっている神に感謝しないということである。そればかりか、「かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなり」、結果、22節にあるように「愚かな者」となってしまい、23節で言われているように偶像崇拝に走ったのである。そして、24節が暗示しているように、それは不道徳をもたらすことにもなるのである。この不道徳は25節前半で言われているように、「それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです」とある通りである。この不道徳については、次週、詳しく学ぶこととする。

今日は、神を神としてあがめない偶像崇拝という罪について見てきたが、私たちはパウロとともに、25節後半にあるように、「造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン」と告白したいと思う。私たちは、神が創造された作品を、神が創造された作品として見て、神をあがめ、神に感謝をささげたいと思う。