福音、それは神のグッドニュースである。それは主イエス・キリストに関する事柄である。それは救いを得させる神の力である。キリストを神の救い主、御国の王と信じ受け入れることによって、誰でもが罪赦され、無罪放免となり、神の前に義と認められ、救いにあずかることが許される。それが福音である。今日の16,17節は、新約の手紙の中で最も重要な節であると言われることがあるみことばである。この二節は、この手紙のテーマであり、キリスト教の本質とまで言われている。

さて、福音とは良い知らせであるわけなので、誰しもが喜んで耳を傾けそうなものなのだが、必ずしもそうではない。それが「福音を恥とは思いません」という表現を生み出している。パウロは福音を誇りと思っている。けれども、必ずしもすべての人がそう受け取るわけではない。なぜなのだろうか。それは二つの理由が考えられる。一つは、グッドニュースの前に、バッドニュースを受け入れなければならないからである。バッドニュースは、あなたは罪人だと告げる。「義人はいない。ひとりもいない」(3章10節)。さらに聖書は、罪の結果は滅びである、神の正義の怒りが下る、と告げる。罪人、悪人扱いされるはまっぴら御免、それが世の中である。神の裁きがあるなどというのも耳を傾けたくない。多くの人は自分を並みの善人であると思っているし、そのままで天国に入れるかのように思ってしまっている。このような人たちに罪からの救いのメッセージはピンと来ない。自分には関係のないことだと受け取ってしまう。特に現代では罪という概念も、裁きという概念も消し去られつつある。だから、グッドニュースがグッドニュースとして聞こえない。病院に出かけ、診察室で病名を告げられるのはバッドニュースである。けれども、癒しを宣言されたらグッドニュースである。グッドニュースの前にはバッドニュースがあるわけだが、神からのバッドニュースを人は耳にしたくないのである。都合のいいことだけに耳を傾けたくなる。だからキリストは山上の説教で、「幸いなるかな。心の貧しい者は」と言われたのである。

福音を福音として受けとめられないもう一つの理由は、キリストが私たちの罪のために十字架にかかってくださったというメッセージが、ちんけなものに感じてしまうからである。パウロはこの手紙をコリント付近で執筆したことを以前、お伝えしたが、コリントでも十字架の福音は卑しめられた。「十字架のことばは、滅びる人々にとっては愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」。(第一コリント1章18節)「・・・ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。・・・ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが・・・」(第一コリント1章21~25節)。ユダヤ人の律法では、木にかけられた者は神の呪いのもとにある者である。よって十字架にかけられた犯罪人がメシアであるなどというのはつまずきでしかない。ユダヤ人はしるし、すなわち奇跡を重んじる民族なので、キリストが十字架につけられた時、「十字架から下りてみろ、そうしたら信じてやるから」と罵声を浴びせた。けれども、キリストは十字架から下りることはなく悶絶した。ざまあみろ、だった。

ギリシヤ人にとって十字架は、奴隷や重罪人といった人間のクズとみなされていた人たちを始末する手段であった。その十字架にかけられた人物をメシアとして信じろという教えは、バカバカしいもいいところだった。それにまた、キリストの受肉、すなわち、神が肉体をとって人となったという教え自体、ギリシヤ人にしてみれば考えるだけで吐き気を催すような思想だった。彼らにとって霊は善、物質は悪・低劣なものなので、神が人となるというのは、善から悪へ変容するようなものであった。神がこのような変容を遂げるわけがないと考えた。また彼らは、神の特質はアパテイアだと考えた。アパテイアとは、喜びや怒りや嘆きを感ずることのない平静な状態である。神は、今述べたような感情の波は持たないと考えていた。キリストのように感情豊かで、悲しみ、涙し、苦しんだ人物を神と認めることは愚かでしかなかった。ギリシヤから見ればキリストの福音を語るクリスチャンたちは、教養のない愚かな連中に見えた。現代も、キリストを善人とみなしても、キリストを人となられた神と信ずるのは難しいだろう。そして神という存在と卑しい十字架は全く相いれないものだから、神が十字架についたというのは、どうも信じられないとなってしまう。それは現代も同じである。けれども、神の救い主が私たちの罪の身代わりとなってくださらなければ、罪の問題は解決することはなかったのである。救いはなかったのである。ここが大事である。

パウロは「福音のうちには神の義が啓示されて」いることを伝えている(17節前半)。神の義とは、ただ単に神の正しさということではない。この義がなければ、私たち人間に救いはないのである。どういうことかと言えば、18節で人間の「不義」ということが言われている。1章18節以降3章20節頃まで、不義があるままであると、神の怒りを受けて滅びるということが言われている。だから人間の救いに必要なものは、不義に代わる神の義なのである。「義」は、救いの同義語である。義なしに救いない、である。

この義は、人間の努力によっては得られないわけである。これを実体験したのがパウロであり、また有名なところでは宗教改革者のマルチン・ルターなどがそうであった。ルターは、神の義が救いのために全人類に要求されている基準だと気づいていた。しかし、ルターはこの義を持っていなかった。彼はこの義に到達しようと修練に励み、努力したが、捕えきれなかった。そして、こう告白している。「私は罪人を裁く聖く正しい神を愛していなかった。私は神に対して内なる怒りで満ちていた」。彼は神が冷徹な裁判官ぐらいにしか思えなかった。神の要求する義に達することは無理だと感じていた彼は、神を厳格な頑固親父ぐらいにしか思えなかった。彼は、神が備えてくださっていたグッドニュースの中身を知らないでいた。行いではなく、キリストを信じることによって与えられる義を知らないでいた。よって、神の恵みも愛も分からないでいた。

神の義は、キリストを信じる信仰によって与えられる。先ず、キリストが義そのものであることを覚えよう。「しかし、あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また義と聖めと、贖いとになられました」(第一コリント1章30節)。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(第二コリント5章21節)。キリストは義そのもののお方である。キリストは人としての歩みも全く罪はなく、神の律法の要求を完全に満たされた唯一の人物である。だから救い主の資格がある。このキリストを私の罪の身代わりとして信じる時に、私たちの罪は赦され、キリストの義が私たちの義とされる。キリストの義が私たちに転嫁される。それが救いである。このキリストの義を受けるのに、そこに何の人間的要素も要らないし、付け加えてはならない。行い、功績、教育、経歴、血筋、そうしたものは救いの足しにならない。ゴミ屑でしかない。それらはちりあくたでしかない。人間に必要なものは、ただキリストを信じる信仰である。

それを17節の後半で強調している。「その義は信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」。「その義は信仰に始まり信仰に進ませるからです」は一見すると、個人の信仰の成長を言いたいかのように受け取ってしまうが、文脈を見れば、ポイントはそこにはないと知る。直訳は「義は信仰から信仰へ」。第三版の別訳では「その義はただ信仰による」となっている。義というのは、初めから終わりまで信仰、徹頭徹尾信仰、終始一貫信仰、全部信仰、どこを切っても信仰、ただ信仰のみが義とするのだ、ということである。訳としては、もう一つの可能性がある。共同訳は「信仰から信仰へ」を「真実により信仰へと」と訳している(新改訳2017別訳)。これは神の真実ないしキリストの真実が信仰の先駆けとなっていて、信仰を生み出し、信仰を支えていることを教えたいのだろう。「義人は信仰によって生きる」は、ハバクク書2章4節の引用だが、ここも信仰を「真実」と訳し、「義人は真実によって生きる」、すなわち、「神の真実によって生きる」という理解が可能な個所であると言われている。いずれにしろ、汲み取っておきたいことは、人の救いにとって必要なことはキリストを信じる信仰なのだということである。そのことによって義が与えられる、救いが与えられるということである。

最後に、福音は、16節後半が暗示しているように、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、すべての人に必要なものであることを強調して終わりたい。

ユダヤ人だが、彼らは旧約聖書に精通しており、神は唯一と信じ、祈りと儀式を欠かさない人たちである。宗教熱心である。日々、神の名を呼び生活している。自分たちこそが神の民であるという自負心がある。けれども、キリストの十字架を通して罪の問題を解決しない限り、彼らも救われざる罪人である。日本人もかつて日本は神の国だと主張し、日本人は神の子だと主張し、誇り高き民族であると他民族を見下げていたが、日本人にも福音は必要である。日本人の場合は、創造主の存在さえ認めていない。

ユダヤ人の次にギリシヤ人が挙げられている。前回見た14節では、「ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも」という表現があった。そこでは文化と教育の観点から分けている。「ギリシヤ人」と「知識のある人」は同族である。ギリシヤ人は誇り高き民族で、ギリシヤ語を話し、彼らは自分たちには教養があると自負していた。ギリシヤ語は歴史書、叙事詩、劇文学、哲学といったものを学ぶチャンネルだった。ギリシヤ語を知らずして文化人と言えず、ギリシヤ語知らずして教育なしといって過言ではなかった。賢人といえばギリシヤ人であった。現代人も、教養を誇り、知識を誇ることでは同じである。日本人がそうだろう。日本人は教育の程度は概して高い。しかし、十字架のことばを愚かとするなら、誇れないはずである。

また、ユダヤ人も宗教熱心だが、ギリシヤ人も宗教熱心な人たちが大勢いた。一日中、一年中、神々とともに歩む人たちがたくさんいた。朝起きたら先ず最初にすることは神々を拝むというのが習慣として当たり前だった。しかし、信心深ければ何を拝んでもかまわないということではない。現代は、「どの宗教も一緒。信心深ければ何を信じても大丈夫」といった思想が宗教界で広まっている。本当にそうなのだろうか。十字架なしの救いの教えに、救いはあるのだろうか。宗教熱心な日本人の方々も、聖書を通して、福音に耳を傾けていただきたいと思う。自分の宗教は違うから関係ないということばを良く聞くが、関係ないと言わないでいただきたいわけである。

パウロが福音を伝えることを願っていたローマには、ギリシヤ人、ユダヤ人、その他の外国人、市民権を持つ自由人から奴隷まで、様々な民族、様々な社会階級、様々なタイプの人が住んでいたわけだが、福音はほんとうにすべての人に必要なものなのである。周囲がそう信じていなくとも。

最後に、福音はすべての人のためにというとき、すべての年代も入ることを付け加えておきたいと思う。福音は、子どもには必要ないのだろうか。バプテスト派のスポルジョンが、子どもたちを前にこう語ったと言われている。「あなたは若いかもしれない。しかし罪に対しては十分に年を取っている。そして、死に対して十分年を取っている」。スポルジョンは、「若いと思っても、もう十分罪を犯してきただろう。そして死の裁きに対して十分年を取っているだろう」ということを言いたかったわけである。信じるのに早すぎるということはない。反対に、信じるのには遅すぎる、今さら、という年配の方もおられる。しかし、やはり、福音が必要である。間もなく、死後に神の裁きの座に立つことになる。その時、長い間の人生で犯してきた罪の勘定書きが広げられる。この時、神による厳正な裁きに誰が耐えられようか。ただ、「キリストの十字架は私の罪のためでした」と心から告白できる方だけが耐えられる。その方の勘定書きは、キリストの十字架の血潮でおおわれ、罪の記載は消されている。そして義の勘定書きになっている。その方は、ただ恵みによって、信仰によって、天の御国に救い入れられる。今が恵みの時、救いの日である。福音はすべての人ためにあり、信じるすべての人を救う神の力である。ただキリストを信じる信仰により、罪赦され、義と認められる。この福音を受け入れよう。そして宣べ伝えよう。