クリスマスおめでとうございます。いったい何がおめでたいんだ、という世相が続いている現代だが、そういう現代であるからこそ、クリスマスはおめでたいのだ、ということを、今朝、ともに味わいたいと思う。私たちは誰しも、ことばにならない恐れ、言い知れない孤独感、心の闇を持ち、うめき、打ちひしがれ、本当の光を求めている。その光とはキリストである。

このクリスマスは、ご存じのように、永遠の神の御子キリストが人としてお生まれになったことをお祝いする時である。神が人となられたという話は、世界中どこででも聞く話かもしれない。ところが、聖書を注意深く読むと、その人となられた神とは、神話の世界の神々の一人ではないことに気づかされる。

この分厚い聖書は、旧約聖書の創世記1章1節の「はじめに、神が天と地を創造した」で始まっている。天体も、この地球も、動植物、そして私たち人間、ありとあらゆるものを神が造られたと教えている。しかも、神はこれらをことばだけで造ったと創世記は証言している。ことばによる創造、これも大きな特徴である。そして、今開いているヨハネの福音書の1章1~3節は、「はじめに、神が天と地を創造した」を思い起こさせる文章となっている。著者は、創世記を意識していたのだろうか。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(1節)。ここでは、宇宙が造られる前に存在していたものを告げている。ここでの「初めに」とは、創世記1章1節の天地創造のはじめによりもずっと前の「初めに」である。時間の世界に生きている私たちには想像のつかない永遠の初めである。永遠の初めから何があったと告げているのだろうか。永遠の初めに、永遠の昔に、ことばがあったと証言している。永遠の初めに、物質があったでも、素粒子があったでも、無であった、でもない。永遠の初めに、ことばと言われる人格を持つ存在が、すなわち神があったというのである。

この「ことば」について、もう少し説明を加えておこう。「ことば」とは、現代人が想像してしまう、薄っぺらな文字としてのことばとは無縁である。先ほど、創世記は神が世界をことばで造られたことを証言していることをお話したが、古代人は、ことばに知恵と力を込め、人格をもつ生きもののように扱った。そして、ことばが発せられれば、ことばはその通り成ると受け止めた。その通り成るのだから、それは真実な存在でもあった。ことばだけで終わってしまうという薄っぺら感はない。そして、著者のヨハネという人物は、このことばに、人格だけでなく神の性質を完全に込めてしまった。永遠のはじめにことばなる神がおられた、それが1節の主張である。

そして3節では、ことばなる神がすべてのものを造られたことを主張している。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」。ことばなる神が、知性と意志をもって、この世界を造られた。私たち人間も神の作品である。だから、私たち人間という存在は偶然の存在ではないわけである。神が造ってくださった価値ある存在なわけである。人の心に善と悪のものさしである良心が与えられているのも、神に造られた証なわけである。神がいるかどうかなんてわからないし、人は偶然できた存在にすぎないというのなら、人の善悪について論じることさえ無意味である。

この、すべてのものを造られた方とは、誰のことを指しているのかというと、イエス・キリストのことを指しているわけである。そして時至り、クリスマスが起こる。すべてのものを造られた、初めからおられた、その永遠の存在が、ことばなる神が、時間の世界の中に、歴史の中に、人となって来られた、それがクリスマスである。

著者のヨハネは、このように、クリスマスの主役を、永遠のはじめからおられたことばなる神、創造主として紹介しているが、それがこの福音書を執筆した一番の目的ではない。著者がこの福音書を書いた一番の目的は、私たち人類にクリスマスプレゼントを与えるためである。そのクリスマスプレゼントが、4節で言われている「いのち」なのである。「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」。4節後半で、「いのち」は「光」として言い換えられ、5節では「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」と書かれている。このことにより、このいのちは何があっても消えてしまわない、永遠に滅びない、闇の力に飲み込まれることない性質のものであることがわかる。どうやら、このいのちは、肉体のいのちではない。それはキリストがもつ「永遠のいのち」のことである。この永遠のいのちには、罪の闇も、死の闇も、悪魔も、太刀打ちできない。だから永遠のいのちなのである。この永遠のいのちを私たちに与えることが、この福音書の書かれた真の目的なのである。「神は、実に、そのひとりご子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(3章16節)。

ヨハネの福音書では神の愛も強調されているので、キリストは「永遠の愛」と評されることもある。事実、そうである。キリストは永遠の愛である。賞味期限が切れて変質するとか、やがて無くなるとか、そういう愛ではない。キリストは永遠の愛である。その永遠の愛が私たちに与えてくださるものが、永遠のいのちなのである。キリストは永遠のいのちそのものなのである。

キリストが永遠のいのちを与えるために、なされたことは、先ず、私たちと同じ人となられたということである(14節)。神という存在は、人間の世界とはかけ離れた天上に鎮座し、それで終わりという存在ではなかった。人間の世界に下って来てくださった。場所は西アジアのイスラエルである。しかも私たちと同じ人の姿となって来てくださった。これは見た目だけ人の姿ということではない。文字通り、人となってくださった、ということである。14節の「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」の「人」の文字通りの訳は、欄外註にあるように「肉」である。これは、キリストが私たちと同じ人間となられたことを物語っている。とても弱くてもろい存在になってくださったということである。しかも赤子からのスタートである。ことばなる神なのに、ことばもしゃべれず、世話をされないと自分では何もできない弱い赤子の姿で来られた。歩けもしない。ミルクをもらわないと死んでしまう。産着を着せてもらわなければならない。下の世話をしてもらわなければならない。ケガをすれば手当もしてもらわなければいけない。こうして人としてのすべてを赤子の時から体験されていく。神が弱く何もできないような人間となられた、これは驚くべきことである。これは今から約二千年前の出来事である。

しかも、キリストは貧しくあられた。ご存じのようにキリストは家畜小屋の飼い葉おけに生まれられた。どのような家畜小屋であったのか色々と推測されているが、ただはっきりしていることは、家畜小屋で生まれられたということである。まことに貧しい生まれ方をされた。人としてキリストの親になったのは、貧しい夫婦ヨセフとマリヤであった。この家族はイスラエルのガリラヤ地方のナザレという村で暮らした。400人足らずの人々がそこで暮らしていて、多くは農民であったと言う。この時代の住居が近年発掘されたらしく、それは質素な家で、二つの部屋があって、中庭には雨水を貯める水槽があったという。こうした住居で暮らしていたのだろう。不便な暮らしも強いられただろう。こうして農村での生活を送っていかれた。

ヨセフの職業は大工であった(マルコ6章3節)。この時代の大工は、単に、家や家具を造るだけではなく、農機具や舟も造ったり、石工のような仕事もしていた。キリストも大工の手ほどきを受けただろう。そして当時の状況からして、大工をしながら農地で働いていたと考えられる。ヨセフとマリヤの間には少なくとも6人の子どもが生まれているので、弟、妹たちの世話もしただろう。父親のヨセフは長生きはできなかったようである。父親を早くに亡くして、余計、苦労はあっただろう。

当時の男性の結婚平均年齢は18歳であるが、キリストは結婚はせず、30歳の年に主に労働者階級から弟子たちをつくって神の教えを説く活動に出る。その当時、神の教えを説く人たちは、実はキリストの活動の舞台イスラエルにはたくさんいた。ユダヤ教の一派であるパリサイ人と言われる人たちなど、大勢いた。だが、これらの人たちは一般庶民や罪人と呼ばれる人たちと付き合うことを避け、こうした人たちを天の御国から遠ざけていた。それに対して、キリストはパリサイ人たちが不浄と呼ぶような人たちとも親しく交わり、彼らと食事まで共にされた。それだから、「食いしん坊の大酒の飲み、取税人や罪人の仲間だ」と非難まで食らった(ルカ7章34節)。当時の社会では誰を食事相手に選ぶかということはかなり重要なことであった。パリサイ人は、当時の伝統的な儀式を守っていない人、儀式的清さを保っていない不浄な人と席をともにしないというのが常識だった。ところがキリストはパリサイ人のしきたりに構っていられない庶民と食事をともにした。その中には確実に不道徳の問題を抱えている者たちも含まれていた。そして驚きをもって見られたのは、皆が大嫌いであった取税人と言われる人たちと親しく付き合い、食事までしたことである。取税人たちは儀式的な汚れと別の問題があった。同国のユダヤ人でありながら、支配国であるローマの手先になって同胞から税金を徴収していた。しかも課された税金より多く徴収し、その差額を自分の懐に入れることまでしていた。強欲とゆすりで自分を肥やしていた。限りなく暴力団に近い。キリストは、こうした人たちが悔い改めるのを待って、悔い改めてから、一緒に食事をしたのではない。それが当時のユダヤ人指導者と違うところだった。ある方はこう述べる。「わかりやすくいえば、イエスは神の愛が必要な人ならだれでも近づいていった」。それだから、当時、やはり、人々が汚れているとして近づかなかった病人にも近づき、触れ、いやすこともされた。先の人はこうも述べている。「イエスが理解していた自らの使命は、ほとんどの人々が脇に押しやり軽蔑していた人々にとくに目を注ぐことだった」。

キリストは神の救いから遠いとされていた人々の、心の孤独、寂しさ、罪に絡み取られながらも何とか解放されたいという、助けを求める思い、神への渇き、そうしたものを誰よりも敏感に見て取っていたと思う。

人々が驚嘆したのは、こうした常識外れに見える活動だけではなく、その教えである。キリストは、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1章14節)と、宣教活動を始められた。悔い改めを説くこと自体は新しいことではない。キリストが注目を浴びたのは、当時のユダヤ教の指導者たちとは違って、「敵を愛しなさい」「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」といった斬新な教えを説き、またその教えは権威に満ちていたからである。しかし残念ながら、キリストはユダヤ教の指導者たちの敵意を買ってしまった。ユダヤ教の指導者たちの敵意を煽ることになったのは、幾つか理由がある。キリストは、彼らの偽善と傲慢の罪を糾弾したのである。そして、もう一つ、キリストはご自身を救いをもたらす神のメシア、すなわち救い主であることを公にしたのである。ユダヤ教の指導者たちは、自分たちの傲慢と偽善の罪を暴き糾弾してくる男を、メシアと認めるわけにはいかない。こうしてキリストは、ユダヤ教の指導者たちの陰謀によって、十字架刑に処せられることになる。

キリストの活動はわずか三年半で閉じることになる。正確には、三年半で働きを全うされたということである。キリストは十字架につけられた時、「完了した」と叫んで息を引き取られた(ヨハネ19章30節)。それは、人類を救うみわざは完了した、ということである。十字架の上で血を流して死んで、人類を救う働きが完了したなどと、負け惜しみにも聞こえないと思うかもしれない。十字架刑の対象は、多くの場合、奴隷や反逆者、つまりは社会や政治の秩序に背き、反乱を企てた者に対する極刑だった。十字架刑は当時、最も残酷な処刑法であっただけではなく、恥辱の極みの処刑法であった。受刑者は辱めれば辱めるほど良いので、公開処刑として、傍観者は嘲ったり、ののしったりした。キリストは、「十字架から降りてみろ。そうしたら信じてやるから」とののしられたりした。でも降りることはなかった。キリストは家畜小屋で生まれ、そして卑しめに卑しめられ、恥辱にまみれて死んでいったのである。これが救い主だと言うのである。

実は、十字架刑は、キリストご自身が救いに必要不可欠なこととして、あらかじめ預言していたのである。十字架刑はハプニングではなく、人類の救いのためにどうしても必要なことだったのである。キリストは弟子たちの前で、こう語った。「人の子が来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また、多くの人の贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」(マルコ10章45節)。キリストが人となって来られた目的は、多くの人の贖いの代価として、自分のいのちを与えるためというのである。キリストが言われた「贖いの代価」とは、救いのために必要不可欠な身代金といったところである。何から救うのか。罪から救うということである。聖書は罪を神に対する負債として表現する。キリストは私たちの罪という負債を肩代わりして十字架の上で負われた。その負債は莫大であった。この莫大な負債をキリストはご自身の清いいのちで支払われた。キリストが十字架の上で流された血は、贖いの代価を支払われたことの証である。キリストは血の代価を支払って、救いのみわざを完了された。クリスマスカラーの赤は、キリストが十字架の上で流された血の色を表している。

キリストを信じる者に与えられるのは、罪赦された者に与えられる永遠のいのちである。キリストが、「自分のいのちを与えるためなのです」と言われたそのいのちとは、永遠のいのちなのである。それは罪から来る滅びと対照をなすものである。キリストは救いのみわざを成し遂げられ、十字架の死後、三日目によみがえり、ご自身が永遠のいのちそのものであることを証明された。

今朝、強調したいことは、キリストは私たちに永遠のいのちを与えるために、人となってこの地上に来てくださったということである。以前、C.S.ルイスのことばを紹介した。「神が人となられるということがどういうことか少しでも知ろうとしたら、あなたがナメクジになったときのことを考えてみるといい」。だれもナメクジになりたいと思う人はいないだろう。ジメジメした暗い所を這いずり回りたくはない。人間の志向性として、少しでも上に、少しでも豊かに、少しでも快適に、であると思う。キリストはその逆を行った。先ず、家畜小屋でスタートを切った。キリストが人として生まれられたのは、今から二千年前のことであったので、不便だったとか衛生的ではなかったとかあるかもしれないが、それ以上に、罪人の世界で生きるということ自体、快適なことではなかったはずである。それこそ、闇の精神に触れて生活しなければならなかった。聖なるお方が、罪の霊気が漂う世界での生活。村民から激しい敵意を向けられることもあった。都心部のエルサレムでも激しい攻撃を受けた。邪念に満ちた視線を感じ、陰口や直接の非難を受けた。人の心を読めるキリストは、人々の心に渦巻く邪欲や汚れも感じ取っての生活を送った。それらはキリストの心を不快にさせるものであったはずである。キリストにとって本当にこの世は闇であった。罪の世界であった。その罪の世界で極悪人のレッテルを貼られた。人間のクズというかゴキブリ扱いである。ナメクジ以下にも思える。十字架の上で血だらけになって、殺されたのである。けれども、キリストは罪の闇に押しつぶされることなく、ご自身のいのちで勝利を飾った。三日目によみがえられたのである。「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(5節)。この光はキリストご自身と言えるのであり、またキリストが与えてくださるいのちなのである。

私たちは、今朝、このキリストのいのちを祝いたいと思う。キリストは、この罪の世界がどれほどおぞましいか知っておられたにもかかわらず、肉となって、この罪の世界にご自身を投じられた。そして罪人たちから身を引いて生活することなく、ご紹介したように、「イエスは神の愛が必要な人ならだれでも近づいていった」という生活を送り、福音を伝え、最後は十字架刑にまで甘んじてくださった。それもこれも、私たちへの愛からであり、私たちに永遠のいのちを与えるためであった。クリスマスカラーの緑は、永遠のいのちを現している。キリストが与える永遠のいのちを表している。そしてキャンドルの光は、このいのちの光を表している。私たちは今朝、キリストの誕生に心から感謝して、またキリストの十字架は私の罪のためと信じて、このクリスマスを祝いたいと思う。