今日のテーマは、とりなしの祈りである。私たちは、多くの人に祈られて今がある。私たちの救いのために、どれほど多くの人が祈ってくださったことだろうか。今度は、私たちがとりなす務めを果たす番である。今日の記事はとりなしの祈りを教える良いテキストとなっている。

前回は、三人の御使いがアブラハムを訪問した記事から学んだ。御使いたちがアブラハムの前に現れた一つの目的は、サラが来年の今ごろ男の子を産むことを告げ、アブラハム夫婦の、特にサラの信仰を鼓舞することにあった。御使いたちが現れたのにはもう一つの目的があった。彼らは、ソドムの地に進んで、ソドムに神の裁きを下す使命が託されていた。御使いたちの一人は、ソドムに神の裁きをもたらす前に、この計画をアブラハムに告げることになる。アブラハムはこれを聞いて、とりなすことになる。

アブラハムのもてなしを受け、食事を済ませ、用向きを済ませた御使いたちは、ソドムを見下ろせる方へと旅立つ。アブラハムは彼らを見送るために、彼らといっしょに歩いて行く(16節)。前回お話したように、そのうちの一人は「主」であった。今日の記事では、主とアブラハムの対話という形式になっている。そのきっかけとなったのが、17節に記されている主のお考えである。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」。以前、お伝えしたように、アブラハムは神の友として聖書で三回言及されている人物である。「わたしの友、アブラハムのすえよ」(イザヤ41章8節)、「あなたの友アブラハムのすえに」(第二歴代20章7節)、「彼は神の友と呼ばれたのです」(ヤコブ2章23節)。友という存在はどういう存在だろうか。幾つかのことを言えるが、一つは、大切なことを分かち合う存在が友と言えるだろう。詩篇25編14節にはこうある。「主はご自身を恐れる者と親しくされる」(新改訳2017「主は、ご自分を恐れる者と親しく交わり」。)直訳は「主の秘密は彼を恐れる者たちのため」。「秘密」<ソッド>の別訳は、「懇親、相談、計画」である。主は誰にでも、ご自身の秘密や計画を打ち明けるのではない。誰とでも相談するのではない。親しい、友と言うに値する人物にだけ、ご自身の計画を明らかにされる。

主がアブラハムに打ち明ける理由について、18節も心に留めなければならない。「・・・地のすべての国々は、彼によって祝福される」。「地のすべての国々は」と言われているが、主はアブラハムを通して全世界に働きかけるご計画をお持ちであられた。アブラハムは主の地球計画の参謀のようなものである。このアブラハムに隠し立てはできない。「どこに行かれるのですか、何をしに行かれるのですか」と聞かれ、「あなたには関係ない、赤の他人に言うつもりはない」とはできない。アブラハムは神の友なのである。アブラハムは神のご計画に参与していく立場なのである。

20,21節を読もう。ここで、主は、ソドムとゴモラについて言及する。ここで、ソドムとゴモラを滅ぼすという直接的な言及はないのだが、アブラハムは察しがついただろう。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく」と言う表現が見られる。この「叫び」は何であったのだろうか。罪によって虐げられた者たち、踏みにじられた者たちの叫びであったのだろうか。また自ら罪を犯している者たちの暴虐の叫びだろうか。どちらとも採れる叫びである。どちらにしろ、罪に関する普通ではない叫びが、主の耳に届いていた。それらは彼らの罪の重さを物語っていた。今も、この地球上から、この暗闇の世から、地獄のうめきとも叫びとも区別のつかない悩ましい叫びが上がっているのではないだろうか。

22節を見ると、三人の御使いのうち、二人はソドムに向かったようである。「その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った」は、19章1節の「そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた」につながる。御使いの一人だけ、すなわち主がアブラハムとともにとどまり、対話を続ける。「アブラハムはまだ、主の前に立っていた」。そして、23節につながり、「アブラハムは近づいて申し上げた」となる。アブラハムは、今対面しているのは主である、という認識があったのだろうか。アブラハムは最初、御使いとは知らずに、三人をもてなそうとしたようだが(へブル13章2節参照)、この時点では、その三人のうちの一人、今話しているのは「主」であると認識しているようである。先に27節を見ていただくと、「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください」と、はっきりと「主」と呼んでいる。そして30節以降は、「主」ということばの連発である。アブラハムは自分は主に対して話しているのであり、主に嘆願しているという自覚があった。主と一対一で向き合っている。考えてみれば、すごい場面である。サシで話している。相手は主である。

アブラハムの嘆願の内容だが、アブラハムは正しい者が50人いたら町を滅ぼさないでくださいで始まって、いや、もし5人不足していて正しい者が45人いたら、いや40人、いや30人、いや20人、いや正しい人が10人いたらと、正しい者たちが複数人いたら町の住民全員が町とともに滅ぼされないよう嘆願する。実に執拗な祈りである。主はアブラハムがこうした祈りをささげることを望んでいたのである。

アブラハムがこのとりなしの祈りをささげる理由を、ソドムには甥のロト家族が住んでいたから、と説明されることがある。確かに、ロトのことが念頭にあったことはまちがいない。アブラハムはロト想いだった。先に学んだ14章では、中東で大きな戦いが起きた時に、ロトたちは捕虜とされ連れ去られたことが記されていた。アブラハムは危険を承知でこの戦いに参戦し、ロトたちと財産を取り戻した。この度もロトのことが念頭にあったことはまちがいないが、ただ単に、ロトのことだけを考えたとりなしの祈りではなかった。この事実が見落とされがちである。主がアブラハムに願っていたのは18節が暗示しているように、アブラハムが全世界に責任を負うことである。「地のすべての国々」に対して責任を負うことである。単に、親戚のことだけを考えればいいということではない。だからこそ、アブラハムは、ソドム全住民のことを考えて祈っている。ロトだけが救われればいい、などとは思っていない。それであるならば、「五十人の正しい者のために」(24節)などと訴え始める必要はない。

主は19節を見ると、アブラハムに正義と公正を行うことを願っていることがわかるが、アブラハムは、それをとりなしの祈りでも表している。「正しい者と悪い者をいっしょに殺し、そのため、正しい者と同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか」(25節)。アブラハムは、正しい者が悪い者といっしょに滅ぼされるべきではない、正しい人たちは全員救われなければならない、あなたは公義を行われるお方のはずと、神の御性質に訴えて祈っている。アブラハムは単に、身内が救われればいいんだと、そのようなレベルでとりなそうとしているのではない。

結局そこに正しい人は10人もいなかったので、ソドムの町は滅ぼされることになる。では、アブラハムの祈りは無駄だったのだろうか。そうではない。19章27~29節を読んでみよう。「神はアブラハムを覚えておられた」ということばは重い。ロトの救いはアブラハムのとりなしの祈りの成果であったのである。町は残念ながら滅ぼされたが、ロトは救われた。アブラハムはこの時、ヘブロンに住んでいた(13章18節)。そこからソドムまでは90キロ離れていた。アブラハムはソドムに裁きが下った後、この時、主にとりなしをした時と同じ場所に立っている。彼はかまどの煙のような煙が立ち上るのを見て、何を思っていたであろうか。その裁きの前に厳粛な思いにさせられただろうし、ロトの身を案じていたことだろう。決して対岸の火事のような思いで見ていたわけではあるまい。箴言17章5節には、「人の災害を喜ぶ者は罰をまぬがれない」とある。アブラハムに、そんな精神はなかった。必死にとりなした。神はアブラハムのとりなしの祈りに応え、ロトを破壊の中からのがれさせた。アブラハムは、後でロトの救いを聞いて主に感謝の祈りをささげただろう。

主はこの終わりの世に、アブラハムのようなとりなし手を求めておられることはまちがいない。アブラハムは、自分が住んでいる地域外の罪深い住民のために祈ったわけだが、私たちは、地元の住民の方々ために祈るとともに、離れたところに住む市町村の住民の方々のために、また海外の方々のために、とりなしをしなければならないのではないだろうか。主のみこころは、「主はひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(第二ペテロ3章9節)である。私たちは、この主のお心を知って、とりなしの祈りをささげよう。

最後に覚えておきたいことは、私たちも主の友であるということである。ヨハネの福音書15章15節を開こう。「わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら、父から聞いたことはみな、あなたがたに知らせたからです」。初めのほうで、友という存在は、大切なことを分かち合う存在であることを述べた。イエスさまはまさに、そのような意味で弟子たちを友と呼んでいる。だが、ご存じのように、弟子たちは友と呼んでもらえるような資格はなかった。この後、イエスさまを数時間後に見捨ててしまう。しかし、イエスさまはそれをわかっていて、13節にあるように、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」を自ら実践し、十字架の上でいのちを捨てられる。

キリストが「友」ということばを使われたとき、それは「友だち何人できるかな」といった軽いものではなく、日本の江戸時代の習慣にたとえると、兄弟の契りを結ぶような関係である。これは最高に結束が強い関係である。兄弟の契りを結ぶために「血判状」を作ったりする。指先などから血を出して判を押して、誓うというもの。これによって堅い結びとなる。これは運命共同体として友情を保とうというもの。キリストは十字架にかけられる前夜、すなわち、この時、晩餐の席で、「これはあなたがたのために流される契約の血です」と言って杯を回した。命がけであなたを愛し、あなたを絶対に救うという証である。そして十字架の上で血を流され、契りを完成させた。私たちはキリストの友に値しないが、キリストは使徒たちをはじめ、私たちのようなものを「友」と呼び、命まで捨ててくださった。また、主がアブラハムに対してそうであったように、私たちに対しても、ご自身の永遠の昔からのご計画を示し、人々の救いのために祈るように促されている。まちがいなく、今の世は退廃し、滅びに向かっている。ソドムとゴモラは火によって滅びたわけだが、使徒ペテロは語っている。「今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです」(第二ペテロ3章7節)。そしてその後で、先に紹介したみことば、「あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(3章9節)と語っている。もはや、ソドムの滅びでは終わらない裁きの日が来る。ペテロはそれを、「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます」(同3章10節)と語っている。

今日の箇所では、アブラハムはとりなしの祈りの模範として示されていた。彼は老齢になって、活動的ではなくなっていた。昔のように戦いに出て行くとか、長旅をするとか、そのようなことはできない。けれども、祈ることはできた。アブラハムは、神の友として、とりなしの務めを果たしたのである。私たちもアブラハムの霊的子孫として彼に倣い、とりなしの務めを果たそう。