今日の記事は、ソドムとゴモラの滅びとロトの救出の物語である。ソドムとゴモラと聞くと、ウルトラマンシリーズを観ていた人たちは、怪獣の名前だと反応する。しかし、もとは地名である。ソドムとゴモラの位置は、現在の地図で言えば、死海の湖面の南に位置し、沈んでしまった場所にあると思われている。

前回は三人の御使いがアブラハムを訪問した記事から学んだ。三人の御使いのうちの二人は、夕暮れにソドムに着いた(1節a)。ソドムには、アブラハムの甥のロトが住んでいた(1節b)。御使いたちは町の門のところでロトと出会う。町の門は市民の裁判の場であり、取引の場であり、社交の場である。ロトが町の門のところに座っていたということは、彼が町の生活に入り込んでいたことを示している。彼は邪悪なソドムの町を改革するために、リーダーシップを発揮しようとしたのだろうか。彼はソドムの中では正しい人物ではあったが、彼には弱さがあった。彼がソドムに住み着いた真の理由は、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢に負けてしまったということであった。それでも、彼は神を信じる者としての良心を保持しており、決してソドムでの生活を心から喜んでいたわけではなかった。彼はソドムの住民の悪に心を痛めていた。彼は信仰者としては煮え切らない人物ではあったが、神の義を捨てたわけではなかった。彼は、「さばきつかさのようにふるまっている」(9節)と非難されている。神はこのロトにあわれみを見せる。ソドムの裁きから救い出そうとする。またそれは、アブラハムのとりなしの祈りの成果であったことは、前回先取りして、29節から学んだことであった。ロトはアブラハムのとりなしがあったことを知ったのだろうか。

ロトは、二人の御使いを見ると、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ(1節c)。そして古代の中近東の習慣に従って、二人の御使いを丁重にもてなそうとする(2節前半)。二人は、遠慮する姿勢を見せ、「いや、わたしたちは広場に泊まろう」(2節後半)と言う。広場になど泊ったら危険な目に遭うと、ロトは知っていただろう。ロトが自宅での宿泊をしきりに勧め、彼らはそれに応じ、ごちそうを振る舞ってもらうことになる(3節)。これで、めでたし、とはならなかった。就寝の時間になって、辺りの空気は悪くなる(4節)。この町の道徳的劣悪さは、「若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て」という表現からわかる。どの年代も、町中の人が堕落していた。こんな好色と淫乱の町で、一晩たりとも過ごしたくない。おそらく御使いたちはイケメンだったのだろう。それで町中の噂になったと思われる。

「彼らを知りたいものだ」(5節)というのは、性的な交わりを願う婉曲的な表現である。男色好きで溢れていたということである。男色は、当然のことながら、聖書では禁止されている。「あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。これは忌み嫌うべきことである」(レビ18章22節)、「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。・・・・男色をする者」(第一コリント6章9節)。

ロトは、町の人々のこの行為を阻止しようとしたのはいいが、現代の私たちには理解に苦しむ方法であった(7,8節)。当時、客をもてなすことは美徳であり、客を守ることはメンツにかかわる大切な務めであったことはわかる。しかし客を守るために自分の娘たちを「あなたがたの好きなようにしてください」と言って差し出すというのは普通ではない。当時の感覚から言えば普通であったとしても、容認できることではない。父親がこの程度ならば、娘も娘たちで、二人の娘たちは、ソドムの裁きをまぬがれた後、父ロトと近親相姦をすることになる(30節以降)。これも聖書が禁止していることである(レビ18章6~18節)。道徳的に低いムードが19章を覆っている。

ソドムの住民たちは、自分たちの願いが受け入れられないとみると、ロトに危害を加えようとして、戸を打ち破って侵入しようとしてきた(9節)。ロトは御使いたちを守ろうとしていたわけだが、ロトたちを守ったのは御使いたちのほうであった(10,11節)。10節で「あの人たちが手を差し伸べて」とあるが、この御使いたちの手は、この後でもロトたちを救うことになるのを覚えておこう。

御使いたちはロトに対して、身内を全員集めて、この町から出るように進言する。そしてこの町に来た目的を告げる(12,13節)。ロトは娘婿たちに「主がこの町を滅ぼそうとしておられる」(14節前半)と告げるのだが、それを聞いた娘婿たちは、町が滅びると聞いて「冗談のように」思った(14節後半)。「冗談」とは、バカバカしいということ。まともに信じる気はない。

ではロト本人は御使いたちの言うことを真剣に受け止めていたかと言うと、そうではなかった(15,16節)。彼にも真剣さが欠けていたということは、「しかし彼はためらっていた」(16節前半)ということばからわかる。御使いたちの言うことが嘘であると思っていたわけではないだろうが、ソドムで築き上げたものを全て失うのかと思うと、嘘であってほしいという心理が働き、やはり、スパッと決断できない。しかし、ためらっている暇はない。時間は残されていなかった。そして、また御使いたちの手が差し伸ばされる。「すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。——― 主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた」(16節後半)。御使いたちの手は合計四本。すべてふさがった。もしこの四人は、御使いたちの手が差し伸べられなかったら、どうなっていたかわからない。強引につかんで引っ張る手であったが、こうでもしなければ、ためらっていたロトたちは町の外に出ることはなかっただろう。これは、まことに神のあわれみによる。強引な恵みである。こうした強引さも神さまは用いられることがある。

17節以降は、「うしろを振り返ってはいけない」という命令を考察しよう。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない」(17節)には、どのような意図が含まれているのだろうか。もう少し先を見てから考えよう。

ロトの逃げる態度はきわめて消極的である。それは「山に逃げなさい」(17節後半)で言われたにもかかわらず、近くの町に変更を願い出たことからわかる(18~20節)。彼が変更を願い出た小さな町は22節で「ツォアル」と呼ばれている。一家の主人が逃げるのに消極的であれば、家族も同じように消極的であることは想像に難くない。そのことの表れとしてロトの妻の振り返り事件が起きる。「ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった」(26節)。「見返り美人」という有名な浮世絵があるが、ここはそのような悠長な話ではない。

ロトの妻が振り返ったのは、いつの時点のことだろうか。ロトたちがソドムを出たのは朝方である(15節)。ロトたちがツォアルの到着したのは、太陽が空高く上った時間帯である(23節)。その町はソドムから距離にして30キロ未満程度と思われる。ソドムから数時間の距離である。ツォアルに到着した時、硫黄の火が降るという災いがソドム周辺の町々に起きた(24,25節)。御使いたちはロトたちがツォアルに到着するまでは裁きを下すことができなかった。「急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこに入るまでは、わたしは何もできないから」(22節)。これは何を意味するかと言えば、ロトたちが逃げている時はまだ、災いは始まっていなかったということである。映画や挿絵で見たことがあるが、空から硫黄の火が降って来るさなか、その災いに巻き込まれないようにと逃げているというもの。空襲のさなか逃げる戦時の場面みたいに。私もそのような光景を思い描いてしまっていたが、それは勝手なイメージで、事実は違う。逃げている時はまだ災いは始まっていない。ここのところは心に留めて欲しい。だから油断が生まれる(今のクリスチャンも油断が生まれる)。何も起こっていないのだから本気になれない(第一テサロニケ5章3節、第二ペテロ3章10節)。

ロトの妻はロトの後ろにいた(26節前半)。ロトは振り返らなかったのだろうか。ロトはおそらく、逃げている時、肩ごしに後ろにいる妻のほうに視線を注いだはずである。娘たちも後ろにいることがあったかもしれない。ロトは肩ごしに家族たちを一瞥しただろう。後ろをチラッとも見ないということはなかったはずである。御使いたちの「うしろを振り返ってはならない」という禁止命令は、首の角度の問題ではなかったことは知っておくべきである。「うしろを振り返る」の「うしろ」<アハル>の用法を調べると、出エジプト33章8節では「見守る」と訳されていることばがあるが、直訳は「うしろから見る」。実際は、見守る行為であったわけである。それはチラッと見る、一瞥するといった行為ではなく、もっと執着した行為であるわけである。ロトの妻もこれであったと思われる。後ろのものに執着していた。ソドムの町はまだ何も起こっていない。「何でこんなことしなくちゃいけないの」。歩くスピードは鈍ってきて、夫が「さあ、もっと早く歩け」と言ったにもかかわらず、もうやってられないという表情が露骨になってきて、ぶつぶつと不平も増えてきて、夫との距離は広まり、ついには立ち止まり、未練たっぷり、じっくりと後ろを振り返った。執着心をもって。もしかすると、ソドムに戻ろうと思ったのかもしれない。

参考までに、ルカ17章28~32節を開いてみよう。この個所は、世の終わりに突如として滅びが襲いかかり、キリストの再臨があることを教えていて、反面教師としてロトの妻が引き合いに出されている。31節に「家財を取り出しに降りて」という表現とともに、「家に帰る」という表現がある。ロトの妻は後方から、「もうバカバカしい。お父さん、お先にどうぞ。わたしソドムに帰る。二~三日したら戻ってらっしゃい」、そんな気持ちでソドムのほうに足を一歩踏み出したかもしれない。必然的に振り返ることになる。また、御使いたちの裁きをある程度信じていても、まだ何も起こっていないことをいいことに、「まだ大丈夫でしょ。ちょっと家に戻って来る」、そう言って、宝飾品、その他、何かを取りに戻ろうとしたのかもしれない。

日本語のことわざに「後ろ髪を引かれる」というものがある。未練が残って、きっぱり断ち切れない様を表わす表現である。ソドムへの慕情、ソドムに残した財産への執着、ソドムでの生活への未練、それが彼女の心を狂わせた。彼女は自分が手放したくなかったものを失うばかりか、自分のいのちさえも失ってしまうことになる。

創世記19章に戻ろう。彼女は塩の柱になってしまった(26節後半)。これはいったいどういうことだろうか。ソドムは死海付近にあった町であるが、死海と言えば塩。この付近は厚さ50メートルにもなる岩塩の層があって、その上には遊離した硫黄が混じった泥炭層があると言う。つまり、塩とともにガス成分を豊富に含んでいる地質であるということ。地殻変動があってガスに火が点火すれば、ガス爆発が起こって、塩と硫黄は灼熱したまま天に放出され、文字通り、硫黄の火が天から降ってくるかたちとなる。また近年、隕石落下がソドムとゴモラの滅亡に関係している可能性があるという考古学者たちの研究論文が発表されている。ロトの妻は、塩の成分を多く含んだ降下物で覆われてしまったかたちとなる。彼女はいのちがけで逃げる姿勢を失い、ノロノロ歩き、安全地帯である方向先と反対の方向に目も心も体も向けてしまった。彼女は逃げ遅れ、結果、好色と淫乱の町とともに滅んでしまった。

私が以前、牧会していたのは茨城県神栖市にある教会だった。そこは港町であるため、いかがわしい店も多かった。犯罪が頻繁に発生し、無法地帯のようなところがあった。殺人、強盗、放火、空き巣・・・・。私が着任する前に仕えていたドイツ人の初代宣教師は、知り合いに「神栖はソドムとゴモラのような町です」と言っていたようである。今、世界全体がソドムとゴモラ化してきているだろう。そして前回見たように、ソドムとゴモラの裁きは、終末の時代に起きる、全世界規模で起きる火による裁きの型であると思われる(第二ペテロ3章7,10節)。

だから、「後ろを振り返ってはならない」は私たちにも適用できるだろう。この命令を四つに分けるならば、①後ろのものを忘れよ~後ろの橋を断ち切るという感覚で、この世への未練を振り切らなければならない。②目的地に着くまで立ち止まるな(17節中頃)~私たちにとっての目的地は天の御国である。うさぎとかめのお話で、うさぎは途中立ち止まって、昼寝をはじめてしまった。「命がけで逃げなさい」と言われているが、それは立ち止まることではない。③戻るな~信仰のバックスライドは最悪である。「豚は身を洗って、またどろの中にころがる」(第二ペテロ2章22節)ということわざがあるが、そうなってはならないことである。戻るということは、信仰を捨てて、昔の罪深い生活に戻ってしまうということである。④ひたすらに前に向かって進め~これは信仰のランナーの鉄則である。私たちが最終的に目指しているのは、天の御国である。ロトの妻のように心の焦点が定まらず、二心でいるなら、足は鈍る。立ち止まりたくなる、振り返りたくなる、戻りたくなる。そして後悔先に立たずの災いを身に招くことになる。そうなったらおしまいである。先週は、講師を招いて、へブル人への手紙11章1~3節から、主イエスから目を離さないようにという秘訣を教えていただいた。主イエスは完走を遂げて天の御国の門をくぐった先達者であり、私たちの先導者であられる。また伴走者であるとも言えよう。視覚障がい者のランナーの場合は、「きずな」と呼ばれるロープを伴走者と握り合い走る。絆でつながれての二人三脚である。伴走者は「きずな」で走る感覚を伝えたり、声でコースを教える。また疲れてくるランナーを励ます。真剣勝負とわかっていても、終盤はきつくなって励ましが必要となってくる。そのようにして伴走者は足取りを確かにしてくれる。私たちの場合、キリストが私たちにとって先導者であり、伴走者と言えるだろう。

先ずは、キリストを救い主として信じ、受け入れることである。キリストは神であるにもかかわらずこの地上に降り、十字架につき、私たちの罪の代償をすべて支払い、死からよみがえって、完全に救いのみわざを成し遂げてくださった。キリストは私たち罪人を誰一人として拒みはしない。キリストのもとに来て、罪の荷を下ろし、キリストを我が救い主として信じる方は幸いである。キリストは罪の裁きから逃れるシェルターとなってくださる。そして、この人生の道行きにあって、レースにあって、キリストは私たちの監督となり、先導者となり、伴走者となり、すべてのすべてとなってくださる。このキリストに常に目を注ぎ、後ろを振り返らず、天の御国を目指して進んで行こう。