今日は、前半、アブラハムのすぐれた接待の姿勢について触れ、後半は、妻のサラの信仰に焦点を当てたいと思っている。前回は、神さまがアブラハムとの間で、子孫に関する契約の更新をした記事を見た。それは、アブラハムが99歳の年齢に達した時であった(17章1節)。妻のサラは10歳年下であった(17章17節)。二人にはまだ約束の子どもが与えられていなかった。神さまはサラによって男の子を与えると約束された。

サラの名前の意味は「王女」。海外ではアブラハムの妻サラにちなんで「サラ」と名づけられることが多い。皆さん、「サランラップ」をご存じだろう。この商品名は、開発者の奥さんの「サラ」と「アン」に由来している。「アン」も旧約聖書の女性から来ている。「アン」は預言者サムエルの母親である「ハンナ」の英語読み。サラとハンナが合体して台所で活躍しているわけである。

この頃、アブラハムたちは1節にあるように「マムレ」という地に住んでいた。エルサレムから南南西へ約25キロの地点。彼が日の暑い頃、天幕の入口に座っていた時、三人の旅人の訪問を受けた(2節)。へブル人の手紙13章2節には、「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました」とある。アブラハムの前に現れたのは、御使いたちだった。古代中近東において、旅人(客)をもてなすことは美徳の一つであった。アブラハムは三人をもてなそうとする(3節)。まず4節にあるように、「少しばかりの水を持ってこさせますから」と旅で汚れた足のために水を運んで来る。5節では「少しばかりの食べ物を持ってまいります」と、「少しばかりの」と東洋的な表現でもてなそうとする。実際持ってくるのは、たくさんの御馳走である。6節のパン菓子や8節の凝乳(ヨーグルト)と牛乳は、もてなす際の普通の食べ物である。7節の子牛は誰にでも出すものではない。良く見ると、アブラハムは子牛選びは自分でしている。最高のものを吟味して出そうとしたのだろう。出した食事だけではなく、食事を準備する姿勢もすぐれていた。6節では「急いで戻って」とあり、7節では「走って行き」「手早く」とある。疲れてお腹が空いているだろう賓客を意識しての姿勢である。さらにアブラハムは、8節を見ると、自ら給仕している。彼らが食べている間、彼らのそばに立ち、召使の役目を果たしている。

アブラハムは彼らが誰であるかわからないでもてなそうとした。しかし、彼らは普通の人ではないぞ、高貴なお人柄だ、と直感したのではないだろうか(2節後半)。聖書は驚くことに、これらの賓客に「主」ということばも用いている(1,13節)。これはどういうことだろうか。御使いたちの一人に「主」を代表させたと考えるのが無難だが、御使いたちの一人は受肉以前のキリストであったという解釈も好まれてきた。真実はわからない。しかし、主が現れてくださった、主が顕現してくださったということはまちがいない。私たちはこの顕現をうらやましいと思うかもしれないが、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28章20節)というキリストの約束がある。また、「見よ。わたしは戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もまたわたしとともに食事をする」(黙示録3章20節)という約束もある。さらにキリストは、兄弟姉妹に対する衣食の世話や、病の時のお見舞いに関して、「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25章40節)と言われる。私たちも主と時を過ごし、主に仕えるのである。このような意味において、アブラハムは私たちの模範となっている。

では、サラに焦点を移して見ていこう。今日の接客の場面で、どういうことなのだろうか?と思ってしまうことが一つある。それは接客の場面で、サラは全く顔を出さないということである。これは前から気になっていた。彼女は自分の天幕にいて、客の前に姿を見せない。なぜだろうか。そこで、訪問客は9節で、「あなたの妻サラはどこにいますか」と尋ねる。「天幕の中にいます」と答える。アブラハムは給仕しているがサラはいない。なぜサラは顔を出さないのだろうか。正確な答えはわからないが、幾つかの可能性を探ってみよう。一つは、来客が男性の場合、女性は男性と食べる習慣がなかったので天幕の中にいたというもの。しかし、これは古代世界の常識であったという確固たる証拠はない。もう一つは月経の期間なので天幕の中にとどまっていたというもの。古代世界において、女性が月経の期間の場合、天幕の中にいたことがわかっている。月のものは汚れとみなされていた。古代世界においては、その期間にある女性に接近したり、その女性を見たりすることも避けられていた。それで、その期間にある女性は、天幕の中にとどまっていることが普通だった(参照;31章33~35節 ラケルは「女の常のことがあるのです」と偽って天幕の中に座って動かないでいた)。サラはどうであったのだろうか。11節を見ると、「サラには普通の女にあることがすでに止まっていた」とある。女の常のことが、ある時点からもうなくなっていた。それはそうだが、この時になって、その兆候というか兆しが表れていたという解釈もできる。サラはそれを不正の出血というように思い違いしていたのかもしれない。どういう出血であっても、出血がある場合、人前に出てはならないというのが常識だった。むしろ、出たら、礼儀に反するのである。6節で、アブラハムはサラにパン菓子作りを依頼している。出血している女性にパン菓子作りを命じるわけがないという見方もできるかもしれないが、サラは女主人だからサラに言ったまでのことであって、実際作ったのはサラのしもべたちであった可能性が高いだろう。サラがなぜ顔を出さなかったのか、真実はわからないが、いずれにしろ、礼儀を欠くようなことではなかったことは事実であると思う。

10節の御使いのことばを聞こう。「するとひとりが言った。『わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。』サラはその人のうしろの天幕の入口で聞いていた」。サラによって約束の男の子が生まれるという約束はすで与えられていて、アブラハムはこれを信じていた。だから、ここで疑いの表情は見せない。まだ疑っていたのはサラのほうである。「それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで」(12節)。「サラは心の中で笑って」とある。サラのこの笑いは、文脈から疑いから来た笑いであることはまちがいない。しかも心の中での笑いである。しかし主は、心の中の笑いも、つぶやきも、不信の思いも、全部お見通しである。訪問客は9節で、「あなたの妻サラはどこにいますか」と聞いているが、こんなことを聞かなくとも、どこにいるかはわかっていただろう。聞いたのはサラを会話の中に巻き込み、出産の約束を心に留めさせるためであった。出産の約束に対するサラの反応は芳しくない。私も夫も年を取って全く希望はないのだから無理、気休めは言わないでほしいという反応である。この反応は、わかるにはわかる。二人とも天然の力はゼロで、からだは死んだも同然の状態になっていたのだから、サラの反応は人間的には自然である。しかし、それを容認される主ではない。17章ですでに男の子が与えられる約束を与えている。男の子の名前はイサクだと、命名までされている(17章19節)。アブラハムもサラも、信じることが求められている。神の国の民の基ならなければならない夫婦には、すこぶる別格の信仰が求められていた。

主は17節で、「主に不可能なことがあろうか」と断言される。17章1節で「わたしは全能の神である」とご自身を啓示してくださった主であるが、ここではサラを意識しながら、「主に不可能なことがあろうか」と言われる。この場面は、マリヤの受胎告知の場面に似ている(ルカ1章26節~)。御使いは処女マリヤの前に現れ、みごもって男の子を産むことを告げる。「ご覧なさい。あなたはみごもって男の子を産みます。名をイエスとつけなさい」(ルカ1章31節)と。サラの場合は、17章を見ればわかるように、あらかじめ予告的に男の子の出産が告げられていた(17章16節参照)。マリヤの場合はいきなりである。マリヤは当然驚きを表わす。すると御使いは彼女に、「神にとって不可能なことは一つもありません」と励ましを与える(ルカ1章37節)。サラの出産よりもマリヤの出産のほうが信じられない奇跡であった。なぜなら処女がみごもり出産するということなので。そのような記録は旧約聖書にもない。

マリヤは、御使いの「神にとって不可能なことは一つもありません」のことばに続いて、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1章38節)と素直に信じたが、サラはどうだったのだろうか。サラは、『私は笑いませんでした』と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。『いや、確かにあなたは笑った。』」(15節)。彼女は笑ったのを打ち消すのがやっとで、「あなたのおことばどおりこの身になりますように」という告白はない。だがへブル人の手紙11章11節にはこうある。「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力が与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたのです」。御使い来訪の体験が、彼女の信仰を目覚めさせたことはまちがいない。「いや、確かにあなたは笑った」の御使いの一言は、サラへのカウンターパンチとなって、「そんなことになるわけないでしょう」といった反抗心はヘナヘナとなってノックダウン、アブラハムとともに信じる方向性に向かったということではないだろうか。私は絶対やっていないと自分の犯罪を認めない被告人が、「いや、確かにあなたはこのことをした」と証拠を突きつけられて、ヘナヘナとなって態度を改め、この人にはかなわないと、服従するに至るのと似ているかもしれない。サラは砕かれ、信じようとする気持ちがピシッと伸び、このお方の約束は真実で、そうなるのだと信じるに至ったのだろう。

サラはマリヤとは別の意味で、信じるのが難しい状況にあったことは事実である。マリヤは処女であったが、幸いマリヤの胎は若かった。それに対してサラはそうではなかった。身ごもりは不可能な老体である。もともと不妊の胎であったところに、90歳という出産どころか自分の死を意識し出す年齢。さらに夫は自分よりも10歳年上。不妊、老体、主人はさらに老体と、トリプルパンチ。にもかかわらず、彼女もまた、「おことばどおりにこの身になりますように」という信仰に達したことは事実である。

私たちは今日の物語を、私たちとは関係ないとしてはならないだろう。私たちはこれから出産の予定はないかもしれない。しかし、そういうことではない。アブラハムとサラの神は私たちの神であり、働かせなければならない信仰は同じである。イスラエルの歴史を見ていくときに、例えば、エジプトを脱出してからの荒野の旅路を見ていくときに、彼らは男だけでも60万人いたが、荒野で、主の約束も、全能の力も信じられず、不信仰を繰り返していったことがわかる。神は私たちを荒野で養うことができるのかと疑った。神は荒野で渇きに苦しむ民に対して、岩から水を出させた。しかし今度は、パンを与えることができるのかと疑った。神は天からマナを降らせた。しかし、また疑い、今度は肉を与えることができるのかと疑った。神は十二分に肉を与える約束をしたが、モーセも半信半疑だった。神は天からうずらを大量に降らせることになるが、その前に、神はモーセにこう言われた。「<主の御手は短いだろうか>。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる」(民数記11章22節)。エレミヤは主の御手は短くないと告白している。「ああ、神、主よ。まことに、あなたは大きな力と<伸ばした御腕>とをもって天と地を造られました。あなたには何一つできないことはありません」(エレミヤ32章17節)。

以上のように、主の御手は短くはない。問題は、あくまでも人の側にある。イザヤはこう述べている。「見よ。<主の御手が短くて救えないのではない>。その耳が遠くて聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」(イザヤ59章1~2節)。ほんとうに主の御手は短くはない。問題があるのは私たちの側である。それは私たちの罪咎の問題であり、またアブラハムとサラもそうであったように不信の問題である。アブラハムとサラは人間的に頼れるものが何もなくなって、自分たちの天然の力もゼロとなって、最初にアブラハムの信仰が濁りなく純化され、遅ればせながらサラも、アブラハムと同様の信仰を持つに至った。三人の賓客を迎えたことで、アブラハムとサラ夫婦は、人の側での問題を完全に解決することになる。

もしかすると、皆さんの願いは救いの領域のことかもしれない。私は、求道を始めて間もなくして、神さまは私を救えるのかと思っていた時期がある。そんな大学一年生の時に、「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて海に入れ』と言っても、その通りになります。あなたがたが、信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます」(マタイ21章21,22節)のみことばを礼拝でいただいた。私は、「神は救ってくださると信じて祈り求めるものなら、僕は救われる」と受け取った。そして、その日の夕方に信じて祈り、信仰をもった。

また皆さんは、誰かの救いを願い祈っておられるかもしれない。そして、それは不可能の壁にぶつかっているような感覚になっているかもしれない。アブラハム夫婦は、約束を与えられてから、約束の子イサクの出産まで二十数年の年月がかかった。忍耐と信仰が必要だった。私たちもまた忍耐と、そして信仰が必要だろう。

また、皆さんの願いは生活に関する事柄かもしれない。それらが何であっても、みこころにかなうことであるならば主は成し遂げてくださるだろう。

老齢になったアブラハムとサラは、不可能を可能にするみわざを現すには最適な存在だった。私たちが死んだも同然の状態になっても残るもの、いや残せるもの、それが信仰である。人間はおしまいの状況になっても、信仰はおしまいにならない。というよりも、おしまいにさせてはならない。主なる神は全能なるお方、約束に対して真実なお方である。もし、主から約束のことばが与えられたのなら、口から否定的なことばを出してもいけないし、心の中で、サラのように否定的な表情をみせ、あきらめを言ってはいけない。たとい不信の笑いを浮かべてしまっても、それを不可能を笑う笑いに変えていきたいと思う。