前回の16章のメッセージの終わりで、この後のアブラハム物語の予告をした。アブラハムが女奴隷ハガルによってイシュマエルを産んだのは86歳の時で、彼の天然の力がギリギリ残っていた時であった。ところがアブラハムが約束の子イサクを生むことになるのは、100歳になってからである。ローマ人の手紙4章によれば、「自分のからだが死んだ状態」の時で、また「サラの胎の死んだ状態」の時であるということがわかる。もうアブラハムたちの天然の力は無くなり、子を生む能力は全くなくなり、からだの方は死んだも同然の状態の時であった。神はこの時期をわざわざ選んでイサクを産ませた。神さまはあえて、私たちが「私はもうおしまいです」という境地に達した時に、信仰を純化し、約束を成就させる。「私には力がありません。能力がありません。お金がありません。健康もありません。私はもうおしまいです」、だが、神はおしまいではないのである。人間がおしまいになった時に、神は約束成就のためにご自身の全能の力を働かせられる。

17章は15章のアブラハム契約の更新の記事で始まる。1節にあるように、神はご自身を「全能の神」として啓示される。なぜ「全能の神」としてご自身を啓示されたのだろうか。ここが重要なポイントである。今日の主題は「全能の神」である。アブラハムには子どもが与えられるという約束が与えられていた。しかし、この時、彼は99歳。アブラハムもサラも子どもの出産ということにおいて死せるからだ。天然の力はすでに無くなっておりゼロ。無能力になってしまった。このタイミングで、神は「全能の神」として現れた。神は私たちが自分の無能さを知り、人間的なものに拠り頼めなくなったときに、すなわち、肉の力に頼れなくなった時に、全能の力でご自身のみわざをされる。まだ自分には幾ばかりかの自信がある、可能性がある、そのように自分というものに幾分でも寄りかかっている時は、神は何もされない。

「全能の神」とはヘブル語で<エル・シャダイ>。<エル>は「力」という意味を持ち、「神」と訳されている。<シャダイ>は「胸」ということばから派生したのではないかという説がある。その胸とは、滋養物という満足を与えるもので満ちているという理解である。つまり、神の胸は私たちの必要を十分に満たす、という理解になる。神は力に満ち満ちており、その力は足りなかったり、枯れたり、尽きたりすることはない。そしてその力でできないということは何もない。へブル語の<シャダイ>はギリシャ語で<ヒカノス>と変換される。その意味は「全く十分な、十分に力のある」である。私たちの神は十分に力のある神なのである。十分に力のある神、そのお方が全能の神なのである。

神がアブラハムにご自身を<エル・シャダイ>と啓示された時期が、アブラハムの天然の力がゼロになった時であったことをお話した。またアブラハムが本物の信仰を発揮したのもこの時期であった。ジョージ・ミューラーのことばを紹介しよう。「信仰は可能性の領域においては働かない。可能性の領域は人間がやれるという点で神に栄光を帰さない。信仰は人間的力が終わるところで始まる」。私たちは、もうちょっと環境がこうであったら、もうちょっと能力が与えられていたら、もうちょっとお金があったら、もうちょっと健康であったらと、知らず知らずのうちに人間的力に拠り頼む傾向にある。だから神さまは、人間的力、人間的可能性を終わらせ、そして本物の信仰の世界へと私たちを導く。全能の神であるわたしを信ぜよ、とチャレンジを与える。

神がアブラハムに続いて言われたことばは、「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」であった。これは、神さまのどのような思いが込められているのだろうか。「全き」と訳されていることば<ターミーム>は聖書の完全用語の一つであるが、ここでは神との関係において考えるべきことばで、「誠実」や「真心」という意味をもつ。誠実に、真心から神に仕えること。それは献身と従順という姿勢において完全であることを意味するだろう。私たちは、従うと言ってもそれはどういうこと?と、頭にはてなマーク(?)がついたとしても、神さまのみこころには従うべきなのである。

この17章の契約は、15章の契約と比較すると、約束がより具体化していることがわかる。4節では「多くの国民の父となる」という新しい啓示がある。それゆえアブラハムは5節で改名を命じられている。「アブラム」から「アブラハム」へ。「アブラハム」の名前の意味は、「多くの国民の父」である。さらに、新しい啓示は6節後半で、「あなたから、王たちが出て来よう」と約束がある。アブラハムの家系は王の家系となる。これは、アブラハムの家系から王なるメシヤが出ることが暗示されていると言えるだろう。ヨハネの福音書で学んだように、メシヤとは王である。キリストは人としてはアブラハムの子孫となる。この「王たちが出て来よう」に関連して、15節を見ていただくと、妻の「サライ」が「サラ」に改名を命じられる。この「サラ」の意味は「王女」または「女王」である。

この契約のしるしとして神が求めたものは「割礼」である(9~14節)。割礼自体は、この時から始まったものではなく、これよりニ千年前の紀元前4000年に古代エジプトでも行われていたことがわかっている。これは考古学上の発見から述べているにすぎず、実際いつどこで始まったかはわからない。当時の中東では、成人の通過儀礼として、また結婚の際に行われていた。15章の契約の儀式も当時知られていた儀式を神さまが用いたということであったが、この時も、当時、一般的に知られていた儀礼を、神さまが契約のしるしとして用いたということである。この割礼は、「全き者であれ」と言われた神さまに対して、献身と従順の表明となったわけである。

割礼に関しては、後に、様々な誤解を生むことにもなる。新約時代になると、信仰をもったユダヤ人のパリサイ人たちは、救い主キリストを信じることプラス割礼を受けなければ救われないと強固に訴えた。使徒パウロはこの強弁に対して、ガラテヤ人への手紙などで、そのまちがいを正すことに力を注いでいる。もう一つの誤解は、割礼は幼児洗礼の型であるというもの。洗礼を受けた幼児はやがて信仰告白に導かれ救われる、その型が割礼であるというわけである。22~27節が割礼の場面であるが、アブラハムの家のすべての男子が受けた。この割礼は幼児洗礼の型なのだろうか。23節に「家で生まれたしもべ」とあるが、14章14節の時点で318人いたことがわかるので、子どもも含めると、この時、総勢700人ぐらいの男子が割礼を受けたと推定できる。この時、イシュマエルも割礼を受けている。イシュマエルは前回ガラテヤ人への手紙4章後半で学んだように、肉によって生まれた者の代表とされており、平たく述べると、救われる人々の側に入れられていない。彼は後に、母親とともにアブラハムの群れから離れる。割礼はあくまでも旧約時代の地上的契約のしるしにすぎない。パウロは、キリストを信じる信仰に割礼は必要でないとはっきり述べているし、割礼に代わるのが幼児洗礼だなどと、彼の手紙のどこでも論じていない。

この17章で、啓示がさらに具体的になったことがある。それは約束の子はサラが出産するということである。「わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう」(16節前半)。これまでは、子孫が与えられるという啓示は繰り返しあったし、養子縁組した者を子孫としてはならないといった啓示はあったが、約束の子をサラが産む、とはっきりとした啓示はなかった。しかし二人とも、肉の自信が全く失われたこの時になって、受け取り損ねがないような、信じられない内容の具体的啓示があった。約束の子はサラが産むのだと。アブラハムの反応を見てみよう。「アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。『百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても九十歳の女が子を産むことができようか』」(17節)。アブラハムは、驚きの顔や困惑の顔というよりも「笑った」のである。この笑いの意味については様々言われている。「信仰と不信仰の混合」「以外に思っての笑い、つまり驚きの笑い」「あまりの矛盾ゆえに思わずの笑い」「アブラハムは神を笑ったのではなく自分を笑った」、その他。この笑いをどう分析しようとも、自分もサラも死んだも同然のからだとなり、天然の力は無くなり、方法も失い、もう自分たちは子どもをもうけるなんていうのは完全に無理という心境が、この笑いのベースにあったことはまちがいない。それは次節の18節のアブラハムの返答、「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように」からもわかる。

この時がアブラハムの信仰のひとつの転換点になったことはまちがいない。アブラハムは子孫を与えられることを故郷ウルで神の召しがあった時から信じていた(12章)。そして約束の地に入り、自分から生まれ出てくるものが空の星のようになることを信じた(15章)。けれどもまだ肉の弱さがあったというか、肉の混ざった信仰だった。天然の力が残っていた彼は、女奴隷をはしためとして召し、子どもをもうけてしまった。それがイシュマエルだった。しかし、イシュマエルは約束の子ではなかった。彼の肉が生んだ子どもだった。そして、多くの年月を経て、人間的なものに全く寄り頼めなくなって、彼の信仰が純化される環境が整った。神はこの時を待っていた。

神さまは、アブラハムの信仰を純化し、揺るがぬものとすべく、再度、約束のことばを与えるとともに、男の子の名前まで名づけてしまう。「すると神は仰せられた。『いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の子孫のための永遠の契約とする』(19節)。さらに21節にあるように、来年の今ごろ生まれるとまで確約される。この後、アブラハムがイサクの誕生を疑ったという話は出て来ない。続くのは献身と従順のしるしの割礼である。彼は、不可能を可能とされる、全能の神を信じる信仰に立った。「イサク」の名前の意味は「彼は笑う」。アブラハムが笑った時が、信仰の転換点だった。以前は、神さまと自分自身を信じる信仰、神の力と自己の力を信じる信仰であったが、もう自分はおしまいだという境地に達し、ひたすらに神のみを信じる信仰に変わることになった。イサクという名前は、何の力も無くなっていたアブラハムにとって、神のご真実と神の御力のすばらしさを思い起こさせるものとなったはずである。

最後にローマ人への手紙4章16~22節を読もう。18節前半を見よう。「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました」。望みえない時に望みを抱いて信じるのが信仰である。望みえる時に信じるなんて誰にでもできる。不信者にでもできる。私たちは人間の可能性にではなく、神の可能性にかけるわけである。アブラハムは自分たちの現実をしっかりと認めていた。子どもっぽく現実から目をそらして、大丈夫、大丈夫とやっていたわけではない。人間的に望みがない現実を冷静に認めていた。その上で信仰を働かせた。それが19節の「・・・・認めても、その信仰は弱まりませんでした」からわかる。現実を認めても、信仰は弱まらなかった。そして、その信仰は弱まるどころか、20節で「・・・・反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し」と言われているとおりである。その強さは21節で、「堅く信じました」という表現で表されている。「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました」。私たちの神は約束されたことを成就する力があるのである。十分に力のある神なのである。私たちは自分と自分の力を信じるのではない。全能の神を信じるのである。私はもうおしまいです、という境地に達しても、おしまいにはならないのである。全能の神がそうさせるのである。私たちに必要なことは神の約束に立ち、望みえないときにも望みを抱いて信じる信仰なのである。