私たちは自立した存在として、自分で判断して事を行うわけだが、神さまを無視して、自分勝手な判断で、自分勝手な行動に出て、失敗してしまうことがある。それが社会常識にかなっていたとしても、神の意志を損なってしまうならば、結果として、後悔することになる。

これまでアブラハムは様々な試みを経てきたが、16章以降は、子どもに関する三度の試みに会う。今日がその一度目である。15章において、神は子どもを待ち望むアブラハムに対して、奴隷との養子縁組という方法ではなく、「ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない」(15章4節)と言われた。アブラハムは、こうして約束の子の誕生を待ち望むことになる。しかし、約束の子は中々与えられない。一月経ち、二月経ち、一年、二年と経過していくが、やはり子どもは与えられない。16章に入った時点で、アブラハムはほぼ85歳、サラが75歳(3節、12章4節、17章17節)。アブラハムはあせっていただろう。そして誘惑が訪れた。それはこれまでの誘惑の種類とは違っていた。これまでのことを振り返ると、飢饉という環境のストレスがあった。その後、親戚ロトとのいざこざがあった。中東の王たちの戦いに巻き込まれたロトを救出するために武装して戦うこともあった。ソドムの王からは莫大な財産を与えようとの誘惑もあった。そして今回の誘惑は子どもに関することで、しかもその誘惑は妻から来た。妻からというと、なんとなく断りにくいというか、耳を傾けてしまう。アダムが禁断の実を食べてしまったのも、妻を通しての誘惑だった。次のようなコメントがある。「誘惑というものは、鬼のような人間から差し出されたときは、それほど恐ろしくない。サラのように私たちの巡礼の旅の伴侶であって、・・・・私たちの愛の対象から差し出されたとき、いっそうの危険を帯びてくるのである」。アブラハムは、妻サラから来た誘惑に屈することになる(1,2節)。

サラの提案は、女奴隷のハガルを通して子どもをもうけ、その子の母親になるというものである。これは当時の社会慣習に倣おうとしたものである。メソポタミアでは結婚の第一の目的は子孫の確保にあり、子を産まない妻は女奴隷を主人に差し出した。生まれた子どもの母親には、女奴隷の主人がなる。女奴隷は子どもを産んでも、母親としての特権は主張できない。この慣習に倣おうとした。サラは、夫に他の女を差し出すなどということは、できればしたくなかっただろう。したくてやったのではないことはわかる。好き好んでやったのでないことはわかる。子を産まない妻は、夫に蔑まれたり、離縁されることもあった。夫アブラハムはそうではないとわかっていたが、彼女はどうしても子どもの母親になりたかった。不妊の自分にはこれしかないと、苦渋の選択であったと思う。

アブラハムにしても、サラの申し出をすんなり受け入れたわけではないだろう。もし、そうしようと思ったら、85歳を待たずに、すでに女奴隷によって子どもをもうけていたはずである。アブラハムはサラとの間に子どもをもうけることを願っていた。しかし、妻サラは不妊の女で悩み苦しんでいる。自分も年齢的に言って、もうちょっとで子どもをもうけることができない体になることがわかっていた。「今がギリギリだ。妻のためにも」ということで、サラの申し出を受け入れてしまった(3節)。これが悲劇を生むことになる。社会の慣習だ、世の習慣だ、世の常識だ、みんなやっている。しかし、それと神の御旨は別の話である。二人はもうしばらくの辛抱が必要であったが、辛抱が足りず、人間的な知恵に走った。

女奴隷ハガルは「エジプト人」と言われているが、アブラハムは飢饉の時にエジプトに滞在していた期間があった。その前は、エジプトとの境界のネゲブに滞在していた。その頃に女奴隷となったのであろう。エジプト人はハムの子孫である。アブラハムとサラはセムの子孫なので、血筋的にいっても、生まれてくる子どもは子孫にふさわしいとは思えない。「ハガル」の名前の意味は「逃げる」である。それは、この後、逃げることになるのと関係しているかどうかはわからない。

ハガルは身ごもると態度が変わる。女主人のサラを見下げるようになる(4節)。ハガルは女奴隷というよりも、サラのライバルになってしまっている。口と態度で女主人を侮り、蔑んだだろう。女同士の確執が始まった。サラは心傷つけられただけではなく、ハガルへのねたみ、嫉妬をもっただろう。サラは自己憐憫に陥り、こうした結果を招いた責任を自分で取るそぶりは見せず、アブラハムに非難の矛先を向ける(5節)。サラは「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです」と感情的に夫を責め、そして「主が、私とあなたとの間をおさばきになりますように」のことばが暗示しているように、間接的には神さまを非難している。それは2節前半の「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます」のことばに見られる。神への信頼が確かでないと、神さまと他人に非難の矛先を向けると言われるが、サラはその典型になってしまった。サラの言い分も酌量の余地はあると言えばある。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです」という非難だが、サラの提案を受けて、ハガルはサラの女奴隷からアブラハムのはしため(側室)となったため、ハガルの管理責任はサラからアブラハムに移っている。サラにしてみれば、あなたがちゃんと管理して教育しないから、ハガルはつけ上がったんですよ、というところであったと思う。女奴隷は子どもを産んでも、女奴隷であることはわきまえなければならなかった。ところが、その姿勢を失っていた。だから、ハガル本人にも問題がある。アブラハムに子どもは与えられたが、こうして家庭不和が生まれ、喜びのない家庭となってしまった。

アブラハムは妻に毎日責められて、いたたまれない気持ちになってしまったはずである。そして一見、無責任とも思える発言をしてしまう(6節前半)。「あなたの好きなようにしなさい」。アブラハムはどうなるか見えていて、こうした発言をしたはずである。当時、一度はしためとなり、子どもを生んだ女奴隷を捨てたりすることはしてはならなかった。それはしていない。やったことは、いじめである(6節後半)。「いじめる」を共同訳は「つらく当たる」と訳している。サラのほうがハガルより年上であったはずだが、姑が嫁をいじめるような状態であったと思う。ことばと態度でバンバンやったと思う。逃げ出したくなるほどに。アブラハムも片目をつむって見ていたと思う。

こうした行為にも、当時の慣習がからんでいるかもしれない。ハムラビ法典には、不妊の妻が夫に自分の女奴隷をそばめとして与えてから、子どもを産んだそのそばめに挑発的な態度をとられた時は、そのそばめを再び、自分の奴隷として扱うことができる、との判例が見られるそうである。「あなたの好きなようにしなさい」というのは、女奴隷の管理をあなたの手に戻すとこととして解釈でき、おそらく、こうしたことなり、ハガルの管理がアブラハムからサラに戻り、サラはハガルの扱いに関して、自分の奴隷として自分の好きなようにできたということであると思う。それで好きなようにいじめた。アブラハムからしてみれば、当時の慣習に従った措置ということであったかもしれないが、アブラハムもサラも、どっちもどっちの態度になってしまった。

その結果として、ハガルは家出をする(6節後半)。夜逃げであったかどうかはわからない。目指すは故郷エジプトである(7節)。アブラハムが仮にヘブロンに滞在していたとして、エジプトまでは110キロ以上の距離がある。徒歩で身ごもった女性の足で一週間はかかる距離と思われるが、大胆な決断をしたものである。サラもアブラハムも、ハガルがいないことに気づき、故郷に逃げ帰ろうとしていることぐらいは想像がついたと思うが、捜索したという記述はない。ちょっと周辺を捜すことはしただろうが、その程度で終わったのではないだろうか。サラは、ハガルがいなくなってせいせいしただろう。しかし、こんなことになるくらいなら、女奴隷を差し出して子どもを得ようなどと、最初から考えなければ良かったと思うが、これはアブラハムとサラの汚点である。

さて、見捨てられたハガルを見捨てないお方がいた。神さまである。主の使い、すなわち、御使いがハガルを見つけ、女主人のもとへ帰って、身を低くして仕えるように語りかけられる(7~9節)。そして驚くことに主の使いは、産まれてくるのは男の子であると告げ、命名までしてしまう。その名は「イシュマエル」(11節)。その意味は「神は聞かれる」。ハガルは、自分の苦しみの声を神は聞いてくださったと分かった。そして今度は、彼女が、現れてくださった主(主の使い)に名前をつける(13節)。その名は「エル・ロイ」。意味は「見られる神」。ハガルは荒野で神を現実的に体験した。「神は聞かれる」「見られる神」。聞かれる、見られる神。神は生きていて、聞いてくださる、見ていてくださる。ハガルは家出しなかったら、まことの神を体験的に知ることはなかった。神はすべてのことを益と変えてくださった。彼女は自分に現れてくださった主なる神に感謝し、サラのもとへ帰って、この荒野での体験を話し、つつましく仕える身となったであろう。

イシュマエルが無事誕生する(15節)。話はやっかいで、これで、めでたし、めでたし、で終わらせるわけにはいかない。「ハガルがアブラハムにイシュマエルを産んだとき、アブラハムは86歳であった」(16節)。約束の子イサクが生まれるのはアブラハムが100歳の時である。つまり神のご計画は、アブラハムが100歳になってから子どもを産むことであった。しかしアブラハムは自分勝手に、14年の時を縮めて、しかも女奴隷によって子どもを産んでしまったのである。アブラハムが神の約束を信じて、神さまが彼にひとり子を与えることを信じることができたまでは良かった。その後、今見てきたように、あせって失敗を犯す。その失敗は、後々まで尾を引くことになる。イシュマエルはイスラム教の教祖マホメットの先祖となる。

アブラハムの失敗は私たちの信仰生活に適用できる。私たちがすることの問題は、その目に見えるところが良いか悪いかではない。社会が是認する正しいことをやっているかどうかではない。法律に触れていなければ問題ないではない。それを神がよしとされるかどうかである。

さて、後半は、イシュマエルに焦点を置きながら話を進めたいと思う。イシュマエルについては、ハガルとともに、ガラテヤ人の手紙4章で引用されている。4章21節からであるが、23節だけを開いて読もう。「女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです」。ここでは、ハガルとサラが対比され、イシュマエルとイサクが対比されている。「自由の女」という表現は、5章1節に記されている「キリストは自由を得させるために、私たちを解放してくださいました」が意識されており、「自由」とは「救い」の同義語である。この救いは律法の行いにはよらず、神の恵みによって、約束を信じる信仰によって与えられるわけである。ガラテヤ人の手紙は、この真理を教える書である。ハガルは律法の代表である。律法は「自分がする」である。その結果、生まれるのが「肉の子ども」である。イシュマエルが肉の子どもである。29節では「かつて肉によって生まれた者」と表現されている。「肉」とは人間生来の性質で、場面によっては「人間的なもの」と訳すこともできる(ピリピ3章3節)。肉は神さまとは関係なく、自分勝手に動き出そうとする。そして自分の知恵や力や人間的手段に拠り頼もうとしてしまう。結果は憂えるものとなってしまう。これに対して、「自分がする」の律法と相対するのが神の恵みである。神の恵みは「神がしてくださる」。それを信じて生まれるのが約束の子どもである。この真理は次のように適用できるかもしれない。私たちが神を無視して、「自分でする」と、肉の知恵で、肉の力でしようとするときに、イシュマエル的なものを生んでしまうのだと。私たちが神に聞くこともせず、拠り頼みもせず、完全に自分で働いてしまうなら、肉の結果を生むことはまちがいない。それとは反対に、「神がしてくださる」と神の恵みに拠り頼み、神の約束が成るように、神のみこころが成るようにと、ゆだねて歩んでいくなら、神さまの時に、神さまのお望み通りの結果が生まれるだろう。

この後のアブラハムの物語の予告をして終わるが、アブラハムはイシュマエルを86歳の時に産んだのであるが、つまり、彼の天然の力がまだ残っていた時であった。ところがアブラハムがイサクを産むことになるのは100歳の時である。ローマ4章によれば、「自分のからだが死んだ状態」の時で、また「サラの胎の死んだ状態」の時であることがわかる。もうアブラハムたちは天然の力がなくなり、子を産む能力は完全になくなり、死んだも同然の状態となり、肉の力は働かせられなくなり、神の恵みにすがるしかない状態の時であった。神はこの時期をわざわざ選んでイサクを産ませる。これは私たちの励ましともなる。「肉の力で失敗を犯してきた。そして今は、自分の無能さを思い、死んだも同然だと思う日々。これまで何年も、十年以上も待ったが何も起こらない…」。しかし神の時というものがある。神さまはあえて、私たちが、「私はもうおしまいです。私は死んだも同然、私には為すすべもありません」という境地に達した時に、みわざを行い、約束の何かを与えてくださるのではないだろうか。「神さま、私は力がありません。能力がありません。お金もありません。健康もありません。不安とあせりがあり、先が見えません。私はもうおしまいです」。だが神はおしまいではないのである。神は恵みに富み、約束に対して真実な全能の神である。