伝道者の書5章においては、様々な教えがちりばめられていますが、最初にご利益宗教の空しさについて見ることができます。「神の宮へ行くときは、自分の足に気をつけよ。近寄って聞くことは、愚かな者がいけにえをささげるのにまさる。彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからだ」(1節)。神に従って敬虔な生活を送ることがなおざりにされていないかという問いかけがここに見られます。当教会はプロテスタント教会です。1517年、ドイツでマルチン・ルターという人物が宗教改革ののろしをあげました。それまでの教会は建造物、儀式は荘厳でりっぱでしたが、教皇をはじめとする聖職者、また信徒たちは堕落してしまっていました。汚職がはびこり、聖職は金で売買されていました。また教会は免罪符というものを発行しました。箱に金を投げ入れれば、チャリンという音とともに、たましいは地獄から天国に飛び移るというものです。もうこれはご利益宗教の域。ルターらは、こうした教会の堕落に抗議しました。プロテスタントということばは「抗議する」(プロテスト)ということばから生まれました。
 ご利益宗教の特徴は、神に聞き従うというよりも、神に自分の願いを押し付けるということにあります。特に日本ではこの傾向が強いと思います。今日の箇所では「神」という表現が良く使われますが、日本人は神という表現を誰に当てはめてきたでしょうか。文献を調べると、アマテラスオオミカミのように人間に当てはめています。また万葉集(八世紀)では、虎を神と呼んでいます。奈良前期の常陸国風土記では、蛇を神と呼んでいます。人間を超えた存在に、一度も神という表現を当てはめてきたことはありませんでした。つまり、人間の上に主権をふるう神を認めてきませんでした。神は日常生活の領域に縛り付けられ、人間の勝手な意志を代弁させられることになります。人間の上に立つことは暗黙のうちに許されず、人間の欲望を満たすしもべとして働かなければなりません。人間の勝手気ままな願望を朝から晩まで聞くのに忙しくしなければなりません。結局、日本人の神々は人間を頂点とする存在であり、それ以上ではないわけですから、人間至上主義の人間崇拝です。私は、日本人の宗教は基本的に人間崇拝であると思っています。それは自己崇拝と言ってもいいです。私に聞けというわけですから。聖書は自己崇拝を含んだ偶像崇拝の本質は「むさぼり」であると言っています。一節に「近寄って聞く」という表現がありますが、原意は「聞き従う」です。本来、神とは、私たちが聞き従うべき存在ではないでしょうか。そのお方は天地宇宙を造られた絶対者です。人間を超えた、人間を造られた大いなるお方です。このお方は私たちに絶対善を与え、命じるお方です。ご利益宗教は、基本的に拝む対象がどういう存在かは余り問いません。生まれてすぐ殺された赤ちゃんでも、暗殺された人でもかまいません。自分の願いが受け入れられればそれで良いのです。へりくだって従う気持ちで聞くというのではなく、願望をしゃべって終わりです。皆様に願いたいことは、神のことばである聖書に聞くということです。ぜひこの聖書を読み通していただきたい。神とは本来どのようなお方であるのか、神は私たちに何を願っておられるのか、という心をもって。