今日の記事は、アブラハムが身内のために犠牲を払う物語である。その身内とはおいのロトである。おいのロトとの間には、かつていざこざがあった(13章)。しもべたち同士が土地を巡って争うようになってしまった。アブラハムはロトに対して、「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちの間に争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう」(13章8.9節)と言って、土地の選択権を年下のロトのほうに与えて、アブラハムとロトの群れは別れた。ロトは、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢が優先してしまい、神さまが忌み嫌うソドムの近くに天幕を張ってしまった(13章12,13節)。ロトはソドムの近くに天幕を張ったというだけで、境界線を越えてはいなかったが、心はすでにソドムの中に入っていたと言えるだろう。だからソドムの中に住むのも時間の問題だった(14章12節後半)。彼の誤った選択は、二つの災いを招く。最初の災いが今日の箇所に記されており、戦いに巻き込まれという人災である。彼は財産を奪われ、家族もろとも捕虜とされてしまう(14章11,12節前半)。もう一つは19章に記されている神の裁きによる天災である。おじにあたるアブラハムは、人災の時も天災の時も、二度に渡りロトを助けようとする。

では、今日の物語を見ていこう。中近東に大きな戦いが起こることになる。1節をご覧ください。「シヌアル」は後のバビロニヤで現在のイラク付近。「エラサル」は後のアッシリヤ付近。「エラム」とは現在のイラン付近。「ゴイム」の位置は不明だが人種的にはヒッタイト人(ヘテ人)。当時の中近東の覇者は「エラムの王ケドルラオメル」であった(4節参照)。当時は小国乱立の時代。ケドルラオメルをはじめとするこれらの4人の王の連合軍が、2節に記されているソドムをはじめとするヨルダン低地の5人の王の連合軍と戦うという図式である。5人の王の連合軍よりも、4人の王の連合軍のほうがはるかに強かった。5人の王は逃亡を余儀なくされた。5人の王の中にはソドムの王がいたわけだが、ソドムの王は逃亡する余裕すらないという印象である(10節)。王にしてこの有様なので、ソドムに住むロトたち住民も成すすべがない。

ソドムは前回学んだように、見た目はほんとうに良い地であった(13章10節)。「主の園のように」(エデンの園のように)、「エジプトの地のように」潤っていた。ロトは悪魔の誘惑に負けたとも言えるだろう。「さあ、この地をご覧なさい。素晴らしいところでしょう。これらすべてをあなたに差し上げましょう。これを選ばないのはもったいないことです。神がどう願っておられるかなんていうことは忘れてしまいなさい。この地を選んでしまえば、ソドムの栄華はあなたのものです。まずソドムに近づいてみましょう。大丈夫、中に入らなくても近づくだけならいいでしょう。あなたの幸運を祈っています」。幸運どころか、不幸が現実のものとなる。ケドルラオメルの連合軍に襲われて、財産を失い、自分たちは捕虜とされるという苦難を招く(12節)。

アブラハムはこの情報を入手して、どういう態度を取っただろうか。「これはロトに対する神さまの裁きだ。彼は欲にかられ、愚かにもヨルダンの低地を選んでしまった。しかも邪悪な町と知っていながら、ソドムの近くに天幕を張って、しまいには町中に入ってしまった。全くの不注意、身から出た錆、自業自得だ。ざまぁない。神よ、この裁きを感謝します。ほんとうにロトは愚か者です。私はあの愚か者と違うことを感謝します」。こうしてアブラハムは高みの見物を決め込んだだろうか。事を静観していただろうか。アブラハムは、そういう態度は取らなかった。「アブラハムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した」(14節)。「親類の者」と訳されていることばは、へブル語で「兄弟」と同じ意味のことばである。「兄弟を見捨ててはおけない」、そういう心境になった。アブラハムは創世記4章のカインのようではなかった。カインは弟のアベルを殺しておきながら、主に「あなたの弟アベルはどこにいるのか」と聞かれたときに、「知りません。私は自分の弟の番人なのでしょうか」と言ってのけた(4章9節)。「私の知ったことか」、アブラハムはそんな態度は取らなかった。ロトの救出のために犠牲を払おうとした。

皆さんにも血を分けた兄弟、親類がいるだろう。その兄弟が自分の不始末で困っているとする。「自分が選んだ道だ、自分が蒔いた種だ、自己責任だろう、私の知ったことか」で済ませてしまうのかということである。もちろん、その人のためにならない支援は慎むべきであるが、何もしないのだろうか。また私たちには、神の家族としてのクリスチャンがいる。やはり、私たちの身内と言えるだろう。ロトのようなクリスチャンもいるかもしれない。自らトラブルを招いたのでなくても、困難に直面している兄弟姉妹はいる。その人たちの憂える現状を見て、ただ黙って見ているのかということである。

これから救出作戦に出たアブラハムの動きを見ていこう。このアブラハムは13節で「へブル人」と言われている。聖書で最初に登場する表現である。ヘブル語では<イブリー>と発音するが、この語は「渡る、通り過ぎる」を意味する動詞<アーバル>に関係していると思われる。アブラハムはまさしく、向こうから渡ってきた遊牧民であった。牧羊生活を送って、今、カナンの地に住んでいたわけである。戦いは専門ではないような気がする。しかし、王たちの連合軍を打ち破るという力を発揮する。

アブラハムはロトの情報を得ると、14節にあるように、彼の家で生まれたしもべ318人を召集した。そして自らも4人の王の連合軍の追跡に加わった(15節)。そして勝利し、ヨルダン低地の諸国の財産だけではなく、ロトとロトの家族と、その全財産を取り戻す(16節)。私は昔から、たった318人でどうやって勝利できたのか不思議でならなかった。17節にあるように、単にロトたちを救出したというのではなく、「こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちを打ち破って」とあるように、強大な連合軍を破る大勝利である。どうしてこのような勝利を治めることができたのだろうか。14節の「しもべたち」<ハニーカウ>は聖書唯一の用例と言われる用語で、「訓練された従者」といった意味になる。彼らは武装して戦いに臨んだのだろう。しかし、それにしても少ない。15節冒頭には「夜になって」と、夜襲を試みたことがわかる。夜に襲って敵のスキを突いたわけである。作戦的にはうまくいったのだろうけれども、それでも戦うには少ない。24節では、アブラハムがソドムの王に対して、「・・・アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように」と、三人の名前を挙げている。この三人はアブラハムのしもべではない。カナンの土地の者である。13節を見ると、これらの三人はカナンの土地の者たちで、アブラハムの盟友であることがわかる。「マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラハムと盟約を結んでいた」。アブラハムは土地の人たちに信頼されていて、彼らと同盟関係にあったことがわかる。「マムレ」はエモリ人の族長で、エモリ人の王という言い方もされる人物である。彼らの援軍があったようである。それにしても、良く勝てたものだと思わされる。援護射撃があったとは言え、4人の王の連合軍に対して、戦闘の主体はアブラハムと従者318人の少人数という揺るがない事実がある。なぜ勝てたのか。この勝利は神の力によるものであった。それがはっきり分かるのが、戦いの後、アブラハムを祝福した、シャレムの王メルキゼデクのことばである。「彼はアブラムを祝福して言った。『祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ』」(19,20節)。ここで「あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神」と言われている。アブラハムは、天と地を造られた、いと高き神の力により戦い、勝利を得たのである。これで少数のアブラハムたちが勝利を得た真の秘訣が分かった。

士師記6~8章には、臆病な戦士ギデオン物語がある。ミデヤン軍を前にギデオンは完全におじけづいていた。私には無理ですと。敵の数は13万人は超えていた。考えてみれば、彼も300人の部下と戦うことを神に命じられている。ありえない少人数での戦いだった。やはり夜襲を試みている。その後、援軍もある。こうした戦いの元祖はアブラハムなのである。アブラハムの場合、ミデヤンがしたように、「おじけづいて、半日、どうするか悩んだ。勝利できるかどうか神にしるしを求めた」などという記録はない。アブラハムの信仰はギデオンに勝っているのではないだろうか。アブラハムは天と地を造られた、いと高き神に拠り頼んだのである。

18~20節のシャレムの王メルキゼデクについては、へブル人の手紙の講解メッセージで詳しく取り上げたので、ここでは簡単に触れさせていただく。彼は王であり、祭司であった。王が祭司を兼ねることは古代東方では珍しいことではない。「シャレム」とは、現在のエルサレムであると思われている。彼は「いと高き神の祭司」と呼ばれており、20節にあるように、アブラハムはこの後、彼に十分の一を献げるのである。そして、へブル人の手紙5~7章で、メルキゼデクは、イエス・キリストという大祭司の型として紹介されているのである。キリストは、「神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです」(へブル5章10節)と言われている。メルキゼデクは、カナンの偶像の神の祭司を務めていたのではないことがわかる。すなわち、アブラハムがカナン入りする前に、カナンという多神教の地に、後にエルサレムと呼ばれる地に、天と地を造られた唯一の神を信じる人物がすでに存在していたということになる。メルキゼデクの神秘性についての言及はここまでとしよう。

戦いの後の、アブラハムが取ったりっぱな行為を二つ見ていこう。それは私たちの模範となる行為である。最初の行為は、すべてのものの十分の一を祭司に与えたというものである。つまり、これは神への感謝のささげものである。戦いにおいて痛手を負うことなく、一切が守られ、そしてロトを救い出すことができた。それはすべて神のおかげだった。アブラハムのこの行為は、自分の力でやった、自分の手柄だ、自分のおかげだと、自分に栄光を帰す行為ではなく、すべては神の恵み、神の力だと神に栄光を帰す行為である。自分のしてきた行為を、手柄信者になって、すぐ自慢してしまう人たちが時おりいる。神への感謝を忘れる人たちがいる。神から栄光を横取りするような態度である。アブラハムにそれはない。十分の一をこのタイミングで献げることにおいて、彼の心の低さ、神を敬う態度が、感謝の姿勢とともに表わされている。

次にアブラハムがしたことは、苦労して奪い返してきたソドムの財産を受け取ることを拒んだということである(21~24節)。21節を見ると、ソドムの王から、戦いの報酬として、財産全部をあなたに差し上げましょうという美味しい話があったことがわかる。ソドムの王はヨルダン低地の5人の王の連合軍のリーダー的存在であったようである。アブラハムはソドムの王の手からは何ももらうつもりはなかった。「糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物からは何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラハムを富ませたのは私だ』と言わないためだ」(23節)。彼はこれを主にかけて誓った。くつひもどころか、金の延べ棒一本ぐらいいいではないかと思ってしまうが、そうではなかった。もし「アブラハムを富ませたのはわたしだ」となると、神の面目を潰すだけではなく、アブラハムはソドムの王の言う事を聞かなければならなくなり、信仰者として動きづらくなることが考えられた。一例を挙げよう。同社大学の創始者である新島譲がいる。彼の奥さんである会津出身の新島八重の物語はNHK大河ドラマで紹介された。譲がアメリカの神学校に在籍していた時の逸話である。政府の要人、森有礼がボストンを訪れ、譲に話を持ちかけた。譲は密航してアメリカに渡ったわけだが、密航してアメリカに渡ったあなたを日本の留学生として認める、そしてハーディー夫妻が支払ってきたアメリカでの教育費を全額、日本政府が支払う、というものだった。まことに美味しい話である。けれども、譲はこの話に乗らなかった。教育費を全額、日本政府に支払ってもらったら、譲のクリスチャンとしての動きは制限されることになるだろう。日本では、まだキリスト教禁制の時代。こんな時、政府から教育費をもらったら、神さまのためにしたいこともできずに終わってしまう。そして「新島譲を富ませたのは日本政府だ」ということになってしまう。譲は教育費の支払いの申し出を断った。びた一文もらわなかった。それは賢い選択だった。私たちは金銭の授受等において、主にあって知恵を働かせなければならない時がある。

アブラハムは、ソドムの王から何一つもらわなかったが、24節にあるように、従者たちの食べ物の分と、援軍として協力してくれた土地の人々の分け前だけを受け取ることにした。アブラハムは自分の報酬としては一切受け取っていない。アブラハムへの報いは、あくまでも神さまから来る。それは次節の15章1節からわかる。「これらの出来事の後、主のみことばがアブラハムに臨み、こう仰せられた。『アブラハムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい』」。アブラハムへの報酬は主から来る。命を張って、危険をかいくぐって多大な犠牲を払って、シャレムの王にすべての物の十分の一を与えて、ソドムの王からは報酬を全く受けずにと、アブラハムは大バカで、損だけしているように思えるかもしれない。だが、そうではない。神さまは彼の態度を評価している。

今日は、かつて関係がぎくしゃくした身内のために犠牲を払うアブラハムの姿を見た。彼は心もとないロトを見捨てなかった。彼は神の力に拠り頼んでおいのロトを救出した。そればかりか、ヨルダン低地の王たちにも感謝されるような勝利を治めた。しかし、アブラハムは自分の手柄とはしない。アブラハムはこの手柄を神にお返しし、十分の一を神に献げ、そして報酬を邪悪なソドムの王からは受け取らなかった。私たちが倣うべき姿がここにはある。私たちは人に誉められるような手柄を立てると、自分の力でやったかのように思い上がり、神に栄光を帰すことを忘れ、神に感謝することを忘れることがある。また苦しい時の神頼みで神に助けを祈るも、祈りがかなえられた時はケロッとして感謝を忘れたりもする。神さまに対してささげものをするどころか、自分の頑張りのご褒美としてこれくらいいいだろうと、本来受け取るべきでないものにまで手を出してしまう。アブラハムはこうした誘惑を退けた。アブラハムはすぐれた働きをしたが、アブラハムには、何の下心もない。ただ、無償の愛で、無償の奉仕をした。多大な犠牲を払ったにもかかわらず、それだからどうの、ということはなかった。それどころか、神さまが自分たちの働きを助け、守ってくださったということで、神への感謝をかたちで表すことを忘れなかった。

そして、アブラハムがロトを助けることはこれだけでは終わらない。アブラハムは後に、18章において、神の裁きにより滅亡することになるソドムの住民のために、必死のとりなしの祈りをすることになる。アブラハムの祈りは聞かれ、ロトのいのちは救われることになる。19章29節を開いて読んでみよう。「こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた」。アブラハムはどこまでも、どこまでも、ロトを助けようとするのである。私たちはアブラハムにならって、心に思い浮かぶ一人ひとりのために、神にあって何をしていくことができるだろうか。示されたことをしていこう。