前回は、アブラハムが約束の地カナンに入っての最初の試練について学んだ。それは飢饉ということであった(12章10節)。飢饉において、アブラハムは神に十分に拠り頼んだとはいえない。むしろ、その反対である。アブラハムはエジプトに下るが、彼は肉的知恵で失敗した。神のあわれみがなければ妻は永久に取り上げられ、場合によっては、アブラハムは殺されても仕方がなかった。神はアブラハムに立ち直るチャンスを与えられた。アブラハムは約束の地に戻る。3~4節にあるように、以前に祭壇を築いたベテル(「神の家」の意)まで戻る。そこでアブラハムは祈り、再献身をした。今日の物語を読むと、アブラハムは、「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩編37編5節)という姿勢を持つに至ったことを読み取ることができる。

飢饉の試練の後、カナンの地で第二の試練が待っていた。それは飢饉という天災ではない。身内とのいざこざであり、またどこに行くべきかという問題であった。いざこざは、おいのロトの群れとの間に発生した(5~7節)。互いに所帯が大きくなっていた。住む場所は一緒。この頃、ロトがアブラハムの悩みの種となっていて、もう一緒にやっていけないという限界に達していた。アブラハムとロトのしもべたちの間では、家畜のために井戸を最初に使うのはこっちのはずだとか、牧草地を最初に占領したのはこっちのはずだとか、日増しにいざこざが増えていったようである。7節後半には、「また、そのころ、その地にはカナン人、ペリジ人が住んでいた」とあるが、よそ者たちが来て何を争っているのか、と見ていたことだろう。証にはならない。彼らがその争いに乗じて、さらに混乱を増すことも懸念される。

このいざこざ、争いに終止符を打つアブラハムの提案は驚くべきものであった(8,9節)。アブラハムは、居住地や遊牧地の選択権をロトに譲った。アブラハムは年長者ということで、おいのロトに対して激しい口調で、「連れてきてやったのに、年下の分際で何やっているんだ、いい加減にしろ!」などとやっていたらどうだろうか。二人の間に完全に溝ができてしまっただろう。実際、そういった親戚関係、兄弟関係を耳にするわけである。利権をめぐって争いになるわけである。アブラハムの提案は、あり得ないと思うばかりの、寛容、寛大なものであった。選択権をまずおいのロトに与えた。普通は、年長者でありリーダーの人物が最初に選ぶ権利がある。だが、アブラハムはその選択権を行使しなかった。彼のこの姿は、エジプト行きの時からすると、成長しているように思う。しっかりと神にゆだねている姿を見ることができる。神の選びにゆだねているということである。彼は自分で選び取るものよりも、神が彼のために選んでくださるものを、信頼をもって受け取ろうとしていた。彼の信仰は進歩した。彼のロトに対する寛大さというものは信仰から来たのである。私は神が選んでくださるものをいただくのでいいのだと。神は私に最善のものを備えてくださる、だから神の選びにまかせればいいのだと。アブラハムは第二の試練で大切な学科を学ぶ。神が与えてくださるカナンは肉の方法で維持していく必要がないということである。アブラハムは自分の力にまかせて、それをつかみ取らなくても良いのである。これは私たちも同じである。神が私たちに与えてくださるものは、神が必ず守られると信じていれば良いのである。下手な小細工に走ったり、私たちの血気の力を用いる必要がないということである。

アブラハムはロトに最初に選ばせ、ロトと別れた後、神はアブラハムに現れて言った(14~17節)。神が「さあ、見上げて、あなたがいるところから東西南北を見渡しなさい」(14節)と言われた地が、神の選びの地であった。他人から見れば、おいしい所はロトに取られてしまったかのように見える。しかし、神が選ばれたものは最善である。それを肉の方法によって守る必要はない。アブラハムが最初にすべきことは、ここが神さまの選びの地で、ここを神さまが下さるのだと、信仰をもって目を上げることだった。それをしたなら、その信仰をかたちに現すだけである。「立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから」(17節)。アブラハムは、神が「これがわたしが選んだもの、あなたに与えるもの、あなたの嗣業だ」と言われる約束の地を行き巡っただろう。

私たちも、人生は選びの連続であることを知っておく必要がある。飲食店に入ってメニューを見て、ご飯ものを選び、あとで麺類にすれば良かった程度のことであるなら、ほほえましい。洋服を買いに行って、安物買いの銭失いだったとか、いまいち自分に似合わなかった、あっちにすれば良かった、程度ならまだいい。けれども、どの神さまを選ぶか、どの人を選ぶか、どの職業を選ぶか、どの生き方を選ぶか、どの場所に住むか、今日何をすることを選ぶか、大きな買い物になるけれどもどうするか、大事な選びがいっぱいある。過去を振り返ってどうだっただろうか。自分の安易な判断、自分の好みで選んで失敗したことはないだろうか。神さま中心の判断ではなかったと後悔したことはないだろうか。自分の胸算用で、自分の欲で、自分のあせりで選んでしまい、失敗したということはないだろうか。18節を見ると、アブラハムはヘブロン(「交わり」の意)で祭壇を築く。それは、彼が神の選びをしっかりと信じ、受け止めた証である。この地は神さまが選んだ地で、この地を神さまは私に与えてくださるのだと。彼は確信と平安に満ち、祭壇の前で礼拝をささげ、祈り、神と豊かな交わりをもったことであろう。13章は祭壇での礼拝で始まり、祭壇での礼拝で終わっている。エジプトでの霊的不毛は後にしている。12章後半のエジプトでの失敗とは雲泥の差である。

次に、ロトの選びについて見ていくこととしたい。ロトは善良な人ではある。だが肉の力で選び取る人である。ロトは、自称クリスチャンとか、世的クリスチャンの型であるかのように言われる人物である。ロトは家系としては、アブラハムの弟ハランの息子である(11章27節)。ロトはおじアブラハムを慕い、アブラハムとともにウルを旅立った。アブラハムの群れもロトの群れもカナンに入って大きくなっていた。最初にお話ししたように双方の群れの間で争いが生じた。アブラハムとロトはベテルの高地に立った。ベテルはエルサレムの北に位置する。アブラハムはそこで寛大な提案をする。「全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう」(9節)。神さまにゆだねる信仰がなければ、このような提案はできない。ロトはおじの寛大な申し入れをチャンスとばかり、周囲を見渡した。「ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた」(10節)。ロトは南東方面に目をやった。ヨルダン川が広い谷間に沿って流れ、周囲は潤っていた。「主の園のように」と、ロトが見た光景は、エデンの園を思わせた。また「エジプトの地のように」とあるが、ロトはカナンに飢饉が訪れた時、水が潤い草木が茂っていたエジプトに、アブラハムとともに滞在した経験があった。彼はそのエジプトを思い起こし、目に映る地を愛着をもって見ただろう。「主の園のようだ、エジプトの地のようだ。ここを選べばいい」。彼は賢い選択をしたのだろうか。彼の選びの基準は、信仰からは出ていない。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢の選びであった。悪魔がエバを誘惑した時の一節、「そこで女が見ると、その木はまことに食べるによく、目に慕わしく、賢くするという木はいかにも好ましかった」(創世記3章6節)も思い出す。その木になっている実は、神の許しのない禁断の実であったわけである。

「それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り」(11節前半)ロトのこの選びが間違っていたことは後になり、明らかになる。最初は、やった~と、天にも昇る気持ちであったかもしれない。しかし、その地は滅ぼされる地であった。その悲惨さを知る一節がある。「その全土は、硫黄と塩によって焼け土となり、種も蒔けず、芽も出さず、草一本も生えなくなっており、主が怒りと憤りで、くつがえされたソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムの破滅のようである」(申命記29章23節)。潤っているどころか、不毛の焼け野原になってしまうのである。そして、その後、死海(塩の海)の底に沈んでしまうのである。これが、ロトが選び取った地である。ロトは賢い選択をしたと思ったことだろうが、愚かな選択でしかなかった。

ロトが選んだ地の一番の問題は13節が述べていることである。「ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対して非常な罪人であった。」(新改訳2017「ところが、ソドムの人々は邪悪で、主に対して甚だしく罪深い者たちであった」)。すべての人は罪人であるが、その程度が半端なくひどい人たちということである。この地の人々のひどい道徳状態のゆえに、神の裁きが自然災害となって、ヨルダンの低地は破滅に追いやられることになる(19章)。

ロトは、故郷を後にして、何百キロも旅をして、何のためにここに来たのか全くわからないような、すべてをフイにする選びをしてしまう。彼はやがて、妻も、すべての財産も失うことになる。信仰による選びができなかったからである。

これから、彼が落ちていくステップを五つに分けて見ていこう。第一に、ロトはソドムのほうを見た(10節)。これはただ、二つの眼球で見たということではなく、それを慕う心で見たということである。それは彼の心を満足させるもので、それを慕い求めた。

第二に、ロトはソドムの近くに天幕を張った(12節)。「ソドムの近くまで天幕を張った」とあるが、ロトの心はすでに、ソドムの中にあったと思う。近づいたのは入ったも同然。精神的にはすでに入っている。あるクリスチャンたちの会話がおもしろい。ある女性が男性に質問した。「ソドムの近くに天幕を張った時、あなたならどんなことを期待する?」答えはご想像どおりである。中に入ることである。

第三に、ロトはソドムの町に住む。「・・・ロトはソドムの町に住んでいた(14章12節)。近くまでのはずが、ちゃっかりソドムに住んでいるロトを見いだす。どういういきさつがあったのかはわからないが、これくらいまでならが、気づいて見たら・・・・というパターンである。

第四に、家族が堕落する。娘たちはソドムの男性と結婚する。妻もソドムの生活にどっぷり浸かり、神がソドムを滅ぼすと決められた時、御使いに、後ろを振り返らないで逃げなさいと命じられるも、置いて来た財産に後ろ髪を引かれ、振り返って、塩の柱となってしまう(19章26節)。ロトと二人の娘は命からがらほら穴に逃げ込むも、父親と娘たちの近親相姦で子どもが生まれるという末路が待っていた。生まれた子どもたちは、神の民の敵となるモアブ人、アモン人の先祖となった(19章30節~)。

ある男女がロトの家族に似ている現代の家族について話をしていた。その家族はキリストよりもこの世に関心を向けていたという。礼拝出席は形だけ。彼らの関心はそこにはなく、関心はお金。そしてクリスチャンたちとの交わりを余り好まなかった。収入のほとんどは自分たちの生活維持のために使っていた。両親は子どもたちには信仰よりも勉強と、アカデミックな私立学校に通わせていた。親がそうだから、子どもたちの関心はこの世のことだけに向かっていった。結果、子どもたちが信仰をもつことはなかった。

第五に、ほら穴で人生の幕を閉じる。「彼はふたりの娘といっしょにほら穴に住んだ」(19章30節)と、彼の居場所の記述はこれが最後。その後、ほら穴を後にしたのかもしれないが、聖書に、それ以上の記述はない。これは、森のクマさんのお話ではない。

ロトは、いったい何のために故郷を出てきたのか、何のための信仰の旅であったのか、嘆きしか出ないような結果に終わる。ほら穴に住むために故郷を出たのではないはずである。ロトは悲惨な人生で終わったけれども、永遠の滅びだけはまぬがれたようなので、それだけが救いである(第二ペテロ2章7,8節)。ロトは自分からソドムのほうを選び、自分からソドムに近づき、そしてソドムに入ってしまった。そして悲惨な結果が待っていた。これは蟻地獄といっしょである。淵まで来たら、入ってしまう。そして這い上がれなくなる。這い上がれたとしても、命以外はすべてを失うようなみじめな結果となる。ロトは這い上がれただけ良かったが、それは神のあわれみにすぎない。

私たちは、今日の記事から選びについて教えられた。神が選び取るものを選び取る大切さである。選びを神にゆだねる大切さである。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢で無理に選び取り失敗する話は良くある。神は必要なものは備えてくださるのだから、落ち着いて神と相談することである。二者択一どころか三者択一となり、どうしたらいいか迷ってしまうことも起きるかもしれない。いずれ、自分であせって選び取ってしまわないで、神が自分のために選び取ってくださるものを信頼して受け取る、そのような信仰から来る余裕を持ちたい。確かに、判断するのに時間的余裕はないという場合があるだろう。人に話を持ちかけられたりした場合など。それでもあせらないこと。神にお聞きすること。私たちは何事も神さまにお聞きしながら選び取る余裕と姿勢をもっていきたい。その時に、神が選んでくださったものを抱きしめるようにして喜ぶ幸いに与るのである。