ある方が「夢をあきらめないで」とキャッチコピーが書いてあった缶飲料水を、写メで送ってくださった。「夢をあきらめないで」。もし、その夢が神さまから来るものであれば、あきらめることはないのである。神さまはアブラハムに一つの夢、希望を与えられた。子孫に関することであった。アブラハムには一人の子どももいなかったが、子孫繁栄の約束が与えられた。それを信仰をもってつかみ取ることが求められた。神さまは今日の箇所で、恐れや不安のあるアブラハムに対して、希望の約束を更新されている。

今日の箇所で、神さまの語りかけは、「アブラムよ。恐れるな」(1節中頃)で始まっている。どうしてなのだろうか。1節前半を見ると、「これらの出来事の後」とある。直近の「これらの出来事」とは14章の戦いである。現代のイラン、イラク付近の4人の王の連合軍と、ソドムをはじめとするヨルダン低地の5人の王の連合軍の戦いがあった。戦いは圧倒的に4人の王の連合軍が優勢だった。ヨルダン低地のソドムに住んでいたアブラハムのおいのロトはこの戦いに巻き込まれて、家族とともに捕虜とされ、財産も奪われてしまった。ソドムは邪悪な人々が住む町であったが、ロトは自分からこの町を選び、住んでいた。アブラハムはロトを救出するためにこの戦いに参戦し、4人の王の連合軍を打ち破り、勝利を治める。ソドムの王は奪い返してもらった財産を報酬としてアブラハムに与えようとするが、アブラハムはそれを拒む。何一つ受け取りませんと(14章22,23節)。アブラハムがソドムの王の申し出を拒んだ理由は、神の栄光を人に与えないためである。アブラハムへの報酬は、15章1節の後半で、神のことばとして、「あなたの受ける報いは非常に大きい」とあるように、人からではなく主なる神から来るのである。

アブラハムの恐れだが、ソドムの王の申し出を拒んだことにより、ソドムの王の機嫌を損ねたと思ったかもしれない。ソドムをはじめとするヨルダン低地の人々は、神さまの前に非常に邪悪な罪人だった。よそ者のくせに生意気だとアブラハムに敵対心を向けることも考えられる。また先に敗れた4人の王たちはどうだろうか。強国を治める人たちである。その中の一人のケドルラオメルは中東の覇者であった。彼らが仕返しに来ることも考えられる。アブラハムは先の戦いで、中東で一目置かれる部族になってしまったことはまちがいない。周囲を敵に回すことになってしまったといっても過言ではない。アブラハムはやがて中東の覇者になるかもしれない、彼は危険な存在だ、ほおってはおけないと。アブラハムは戦いに勝利できたのは良かったが、不安材料が生まれてしまったわけである。アブラハムにしてみれば、戦いたくて戦ったわけではない。おいのロトの救出のためである。以上見てきたように、アブラハムは戦い終えた後、今後、襲撃に遭うかもしれない、未来はどんな危険が待っているのかと、恐れを抱いたことは十分考えられる。

神さまは不安と恐れを抱くアブラハムに対して、幻のうちに語りかけられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい」(1節)。「盾」とは敵の攻撃を防護するための武具である。神さまは「わたしはあなたの盾である」と、アブラハムを守ることを約束してくださっている。アブラハムは敵の攻撃を受けて損害を受け、ボロボロになることから守られるだけではなく、「あなたの受ける報いは非常に大きい」と、豊かな報いまで約束された。

アブラハムは「報い」ということばに反応することになる(2~3節)。彼は、「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません」とことばで始めている。アブラハムは、報いということばを受けて、解けないでいる疑問を神さまにぶつけた。彼は故郷ウルで神さまの召しを受けたとき、あなたを大いなる国民としよう、という約束を受けた(12章1~3節)。アブラハムは「大いなる国民となる」という約束を信じた。当然のことながら、それは子孫繁栄の約束である。だが、いまだに子どもがいない。アブラハムが、子どもがいないことを気にかけていたということが、彼の応答からわかる。「あなたの受ける報いは非常に大きい」と言われても、わたしには子どもさえいませんよ、どのようにしてその約束は実現するのですか?と疑問を投げかけたわけである。私たちは未来が見えないし、神さまが成そうとしておられることがはっきりとわからないので、なぜですか?いつですか?どのように?という疑問のことばが口をついで出ることになる。私たちは「今」という時間の限界性の中にしか生きられないので、どうしても神さまに尋ねたくなる。人によっては、イライラして不機嫌になって尋ねたくなるかもしれないが、信頼をもって尋ねたい。こういう神との対話というものは信仰の訓練となるわけである。そして、神の時に、神の方法でなされる神のみこころというものは、大概、人の思いを超えているものなのである。

アブラハムのジレンマということをもう少し考えてみよう。アブラハムが途中の滞在地であるハランを旅立った時は75歳であった(12章4節)。70歳を日本では「古稀」という。「ふるい」という漢字と「まれ」という漢字で造られている。意味は「古来より稀である」ということである。何が古来より稀であるのか。70歳まで生きるのは古来より稀であるということである。今は稀ではないので、70歳で古稀という呼び方はふさわしくないと思っているが、いずれ、70歳を過ぎて子どもをつくるというのは聞かない話である。アブラハムはこの時、ハランを出てから5年以上は経過していたはずである。つまり、80歳は過ぎていた。「米寿」まで、もう数年で手の届く年齢に達していた可能性がある。アブラハムは約束の地カナンに入ってからも子孫繁栄の約束が与えられていた(13章14~17節)。けれども、いまだに子ども一人与えられていない。アブラハムは自問自答していたと思われる。「私も妻も高齢。加えて妻は不妊の女。神さまはどうやって跡取りをくださるのか…」。神さまの方法とはどういうものなのだろうかと、あれやこれやと考えてみただろう。あれかな~、これかな~、と堂々巡りでいたかもしれない。

アブラハムは子どもができない場合の選択肢として心の中にあった一つのことを口にしている。「私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。…ご覧ください。あなたが子孫を下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるのでしょう」(2節後半、3節)。アブラハムは突拍子もないことを言っているのではない。古代において、子どもができない場合、相続権を「家の奴隷」に与えることはされていた。アブラハムはここで、社会一般常識的なことを言っている。でも、神さまの考えは他にあった。「ダマスコのエリエゼル」だが、アブラハムの家を管理するマネージャーというか管理人であったと思われる。有能で、しかも信頼のおける人物であったのだろう。彼と養子縁組をして子孫を残すという選択肢である。

アブラハムの問いかけに対して、その答えは神さまとしては当然といえば当然の答えなのだけれども、人間としては信じるのに難しいものであった。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない」(4節)。これまでアブラハムに子孫を与えるという約束はあったが、「あなた自身から生まれ出て来る者」が子孫となるという啓示はなかった。だから、アブラハムは家の奴隷と養子縁組をして子孫を残すという選択肢は捨てなかった。しかし、ここで、その選択肢は捨てなければならなかった。残る選択肢は、あと二つある。何だろうか。一つは、女奴隷との間にできた子どもに跡を継がせるということ。これも当時、常識的に行われていたことで、不妊の妻が夫にはしためを差し出して、子どもをもうけることをしていた。後に、妻のサラはこれをしてしまう。アブラハムも受諾してしまうことになる。女奴隷ハガルを通して子孫を確保しようとした(16章)。

残る選択肢の最後が、妻のサラとの間に子どもをもうける、である。神さまのみこころは、あくまでもサラとの間にできる子どもを子孫とするということであった。それがはっきり啓示されるのが、17章に進んでから。17章16節を先読みしてみよう。「彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう」。これはアブラハムが99歳になった時であるが、ここに来て初めて、サラとの間に男の子が与えられるというはっきりした啓示がある。今日の15章の段階ではそこまではない。人間的には、最初からアブラハムに対して、サラとの間に生まれる男の子こそが子孫だ、とはっきり啓示してくだされば良かったのにと思ってしまうがそうではなかった。啓示は漸進的であった。少しずつ具体化されていった。最初は子孫を与えるという約束にすぎなかった。そして15章に来て、「あなた自身から生まれ出る者」が跡継ぎになるのだと、奴隷との養子縁組という選択肢は否定された。しかし、「あなた自身から生まれ出る者」という表現からは、はしためを通して子孫を残す選択肢は残されていた。残されていたといっても神さまの中にはない選択肢である。アブラハムは中々、子どもが与えられないものだから、社会的に許されていた選択肢も考えていくのだが、やがて、医学的にアブラハムもサラも完全に子どもを産めない年齢に達してから、あなたがたの間に生まれる子どもこそが子孫なのだよと、受け取り損なうことのない、はっきりした啓示がある。この神の啓示の漸進性(一気にではなく、だんだん示されること、徐々に具体的に示されること)、そして子孫が与えられる時期の遅さ、そしてその方法、どれもこれも、アブラハムの信仰を試すものとなった。神さまは、幾年月も経過して、人間的には全く望みがなくなってから、不可能に思える約束をはっきりと示し、それを実現してくださることになる。私たちからすれば、最初から分かりやすく示して、パッ、パッ、パッとやってくだされば悩まなくて済むのに思いがちだが、神さまのなさることは概してそうではないので、右往左往してしまうことになる。アブラハムもそうであった。

しかしながら、アブラハムのすばらしい点は、神さまから啓示があった時に、先ず、信仰をもって、その約束を信じるという姿勢である。神さまが、いつ、どのようにその約束を実現してくださるのかわからなくても、先ず信じるという姿勢である。5,6節を読んでみよう。「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。』さらに仰せられた。『あなたの子孫はこのようになる。』彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(5,6節)。「見上げてごらん、夜の星を」という歌があるが、神さまがアブラハムに星空を見上げさせる感動的な場面である。神さまは自然界のパノラマを、ご自身の約束を確証するための例証として用いられる。アブラハムは星空を見上げるたびに、神さまの約束に心を浸したことだろう。満天の星は美しいということだけではなく、アブラハムに生きる希望の力を与えるものとなったにちがいない。神さまはこの時、「星を数えることができるなら、それを数えなさい」と言われているが、私も星空を仰ぐのは好きで、良く星の数を数える。ただし、流れ星の数である。天空にとどまっている星の数を数えていたら、数え終わらないうちに夜が明けるだろう。

6節で「彼を主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とある。迷うことなく信じたアブラハムを神さまは義と認められる。この一節は、新約聖書の六箇所で引用されているという重要なみことばである。「信仰義認」というキリスト教のかなめであり柱である教義を教えるのに引用されている。よって、この箇所は次回詳しく取り扱うことにする。

今日は神の約束ということそのものに目を留めよう。アブラハムに対して15章で与えられた約束は、1節の「アブラハムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい」とともに、5節の「あなたの子孫はこのようになる」という子孫繁栄の約束である。私たちには、神の約束は原則的にはみことばを通して与えられる。私たちは、罪の赦しがあること、永遠のいのちが与えられること、神の子どもとされること、天の御国に救い入れられること、こうした約束を、みことばを通して信じた。そして、「恐れるな、わたしはあなたとともにいる」といった約束を、繰り返し繰り返し聞いてきた。さらに、家族の救いや、自分のこれから歩むべき道のことや、悩みの解決について、みことばと祈りを通して与えられた約束というものがあるだろう。あらためて、こうした約束と向き合ってみよう。ほんとうに、そうした約束を信じ切っているのかと。また、つかみ損ねている約束はないだろうかと。

皆さんは、アブラハムを一言でどのように表現されるだろうか。信仰の父、信仰の旅人、信仰の冒険者、神の友、様々な表現ができるわけだが、今朝は、「神の約束を信じた人」と表現したいと思っている。神の約束を単純に信じきれないと前に進めないし、感情もぐちゃぐちゃになり、ジェットコースターのようにアップダウンすることになる。約束を信じきれないと、道も踏み外すことにもなる。私たちも人間なので、具体的にどうしたらいいかわからなくなり迷うことがあるし、恐れに囚われることもある。だが、神の約束が私たちを励ます。そしてそれが希望の力となる。もしアブラハムが環境だけに目を留めていたらどうなっていただろうか。渡り者にすぎない自分は、いつどうなるか、どうされるかわからないと、終始オドオドしていただろう。また社会の情報を集めて、統計や当時の常識にだけこだわっていたらどうだろうか。イサクが生まれたかどうかもわからない。そして、つまらない人生で終わっただろう。さらに、自分の心の波風、心の渦だけ見ていたらどうだろうか。まちがいなく、足をすくわれ、沈む人生で終わっただろう。アブラハムは神の約束を信じたのである。神の約束が希望の力となり、その人を前に向かせるのである。そして、その約束は必ず実現するのである。