伝道者の書は、「むなしい」ということばの連発ですが、皆さんは最近、何に空しさを覚えたでしょうか?著者は、4章では、社会生活の様々な面を観察しています。著者はその中で「孤独」について観察しています(7~12節)。「ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もない人がいる。それでも彼のいっさいの労苦には終わりがない。彼の目は富を求めて飽き足りることがない。そして、『私はだれのために労苦し、楽しみもなく自分を犠牲にしているのか』とも言わない。これもまた、むなしく、つらい仕事だ」(8節)。この人は自分の仕事を楽しんでいるのではありません。では、何のために仕事をしているのでしょうか。ただひたすらお金のためです。お金のためであったのなら、すべての人間的かかわりも犠牲にしてかまわないということで、この人は孤独になりました。人よりもお金を選びましだ。お金に執着するあまり、人間本来の愛情や友情を見失い、気づいてみたら孤独になっていたということは現代もあるでしょう。このような人へのアドバイスとして、9~12節で友をもつことが勧められています。孤独でいるより、仲間、友達といっしょにいたほうが良いと。そもそも人間は神と交わり、人と交わる存在として造られました。この人格的交わりにこそ、幸福の本質があります。私たちは本来、交わりが嬉しく、孤独はいやなのです。
 「どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ」(10節)。「仲間」と訳されていることばは、「二者を一つに結ぶ」の意です。「しかし、ひとりぼっちの人はかわいそうだ」。「かわいそうだ」と訳されていることばは、うめきのことばで、「ああ」と訳せます。孤独な人は「ああ」!何ともいえない悲哀感がそこにはただよっています。「わざわいだ」と訳すこともできます。この者は、この箇所を読むとき、やはり、私たちを友と呼んで下さるイエス・キリストを思い起こします。「あなたがたはわたしの友です」(ヨハネ15章14節)。余談ですが「仲間」の同義語に「親友」がありますが、原語のヘブル語で「親友」ということばは、「人+平安」で造られています。つまり、苦しんでいる時や困っている時に、助け、慰め、心に平安を与えてくれるのが親友というわけです。キリストは言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしが、あなたがを休ませてあげます。わたしは心優しくへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」(マタイ11:28~29)。
 また、キリストは言われました。「見よ。わたしは戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(黙示録3:16参照)。「食事」は親しい交わりのシンボルですが、キリストはそのような交わりを私たちと願っておられるのです。
 著者は「気まぐれな民衆」についても観察しています(13~16節)。「すべての民には果てしがない。彼が今あるすべての者の先頭に立っても、これから後の者たちは、彼を喜ばないだろう。これもまたむなしく、風を追うようなものだ」(16節)。ここでは、人気があった比較的若い民衆のリーダーの末路について言われています。ここからの教訓というのは、民衆からの評価、人の評価に望みをかけてはならないということです。民衆の心理は移り変わりが激しいのです。実に気まぐれで、それはあてにはなりません。風見鶏のようにクルクル変わります。それがよくわかるのが、民衆がキリストを王にしようとした時のことです。民衆は田舎のガリラヤ地方から来られたキリストを王としようとして、エルサレムに迎え入れようとしました。群衆のうちの大勢が、自分たちの上着を道に敷き、また木の枝を切って道に敷きました。その上をキリストがろばに乗り入場しました。群衆は「どうぞ、我らを救ってください」と大合唱でキリストを迎え入れました。けれども、キリストというお方は奇跡と戦いで敵どもをねじふせ、パンやお金をくれるご利益の王ではないと知ると、口が渇かないうちに、手のひらを返したように、180度態度を変えて「殺せ、十字架につけろ」と大合唱しました。そして十字架刑を楽しもうとしました。私たちは、この民衆を簡単に非難できません。私たちも同じく自己中心ですから。キリストの側近の弟子たちも、十字架刑を前に、キリストを見捨てました。けれども、キリストは、人間の自己中心ゆえのこの十字架刑を、私たちの罪からの救いの手段とされました。キリストは私たちの罪を全部被って、罪の罰を十字架で受けられました。そして、キリストは今も生きておられ、信じる者の友となってくださるのです。
 最後に、キリストのことばを読んで終わります。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ15:13)。このように語ってくださるキリストを友として受け入れ、キリストとの絆を、何よりも大切にして生きていきたいと思います。