今年度の当教会の標語は「一つの心、一つの道」である。神一本の心、神に従う生活が目標であるが、アブラハムの生涯を通して私たちはこのことを学び取ることができる。本日より、アブラハムの生涯の講解メッセージが始まるが、アブラハムの生涯を通して、各自が信仰の歩みについて様々思い巡らし、学んだことを自分の歩みに生かしたいと思う。

アブラハムは聖書で、信仰者の父という位置づけが与えられている。ユダヤ人の理解はもっと限定的であった。かつてユダヤ人たちはキリストを前にこう述べた。「私たちの父はアブラハムです」(ヨハネ8章39節)。ユダヤ人たちの認識は、アブラハムはユダヤ人の父祖ということであった。しかし使徒パウロは、ユダヤ人という民族の枠を取り払って、こう述べている。「アブラハムは私たちすべての者の父なのです」(ローマ4章16節)。「私たち」とは、ユダヤ人、異邦人問わず、「主を信じる者たち」ということだが、パウロはアブラハムを、主を信じる者たちの父祖として紹介している。アブラハムの前にも、アベルやエノクやノアなど、りっぱな信仰者は存在していたわけだが、アブラハムが父と言われるのには特別な理由がある。ご存じのように創世記は、アダムとエバ以後、地上に住む人々がだんだん堕落する様を描いている。この堕落の局面を挽回すべく最初に選ばれた人物がアブラハムだった。アブラハムが救いのみわざの起点となった。神はモーセに対して、「わたしは、あなたの父の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である」と、ご自身を啓示された(出エジプト3章6節)。アブラハムの名前が最初に呼ばれている。また、マタイの福音書の救い主の系図は、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」で始まっており、やはり、アブラハムの名前が最初に挙げられている。アブラハムが救いのみわざの起点であるからである。このアブラハムは私たちの模範となる信仰を発揮し、主と主の約束を信じる者となった。新約聖書では、アブラハムにならって主を信じ、救われた私たちは、アブラハムの子孫と呼ばれている。「アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい」(ガラテヤ3章6,7節)。

彼の名前の意味を説明しよう。彼が召された当時の名前は「アブラム」であった。「アブ」は今よく目にする虻のことではなく、「父」を意味する。「ラム」は羊ではなくて「愛」とか「高い」という意味である。覚えておきたいことは、彼の名前には「父」という意味が込められていることである。彼の名前に「父」が込められているのは、彼が信仰者の父とされることと無関係ではないだろう。

今朝は神さまがアブラハムを召した記述を学ぶが、神さまがアブラハムを召したのは、アブラハム一人を祝福し、アブラハム一人を救うためではなかったわけである。アブラハムを通して、神の祝福が、救いの恵みが、全世界に伝播していくためである。こうして彼は、全世界の信仰者の父となるのである。

アブラハムは今から約4000年前の人物であるが、彼が神の召しを受けた場所は生まれ故郷であったが、そこは「ウル」という地名で紹介されている(11章31節)。「ウル」がどこにあったのかということだが、これまでメソポタミア南部のウルが有力視されてきた(現代のイラク南部、ペルシャ湾に注ぐユーフラテス川下流域)。しかし近年、メソポタミア北部のウルも有力視されてきている(現代のシリア)。いずれ、ウルは偶像崇拝の地で、月の神を拝む中心地であった(月神ナンナ)。

アブラハムたちは、なぜこの地を旅立ったのだろうか。11章31節を見ると、アブラハムと一緒に故郷を旅立ったのは、妻のサライと、父親のテラ、そしておいのロトであったことがわかる。アブラハムがこのウルを旅立ったのは、食料や牧草の欠乏ではなかった。この地を旅立ったのは、偶像崇拝の地であったからと言われることもあるが、単純にそういうことではない。なぜなら、アブラハムが最終的に目指す約束の地カナンもりっぱな偶像崇拝の地であったからである。アブラハムが旅立ったのは、あくまでも神の命令があったかである。神さまの目的は、ご自身が定めた約束の地で神の民を形作るということにあった。

私たちも信仰の旅路に召された。私たち信仰者は、自分の好み、都合のことしか考えない人生に召されているわけではない。神の召しに従うとは犠牲を伴うことは確かである。自分の願わない環境で生活しなければならないかもしれない。快適な生き方と決別しなければならないかもしれない。親しい人たちと離れて生活しなければならないかもしれない。今の仕事、交友関係を後にするということかもしれない。犠牲の価を計算すると、不安になるかもしれない。しかし、一度計算したら、あとは神にゆだねて前進である。

アブラハムはウルを旅立つも、ハランで定住してしまう(31節後半)。ウルのメソポタミア北部説を採ると、ハランはウルの西150キロの地点である(横手から山形駅までの距離)。なぜ、中途の地点に住み着いてしまったのかと思うわけだが、住み心地が良かったのかもしれない。大所帯となって身動きが取れなくなってしまったかもしれない。老齢となった父テラの具合が悪くなって前に進めなくなったのかもしれない。テラはこのハランで亡くなっている(11章32節)。テラの容態がハランで思わしくなくなったことは事実である。また、アブラハムにとっては、一緒に旅をしている父親の意向というのは無視できなかったのではないかと思う。31節を改めて見ると、「アブラハムは」でなく「テラは」で始まっており、旅の主導権をテラが握っていた書き方がされている。歴史を調べると、テラたちが旅立った紀元前2000年頃は、民族大移動の時代であった。そのようなことで、テラにとって旅立ちということは、割と積極的に前向きにできた決断だったかもしれない。テラの旅立つ動機がどういうものであったかはわからないが、いずれ旅の一連の動きにおいて、父親の意向というものは大きかったと思われる。テラの信仰がどうであったかははっきりしない。実は、定住してしまったこのハランも、ウル同様、月の神を拝む中心地で、ここでは月の神はシンと呼ばれていた。アブラハムはもはや月の神を拝むことをしなかっただろうが、父のテラはこの地に来ても拝んでいた可能性はある。ヨシュア記24章2節にはこう記されている。「主はこう仰せられる。『あなたがたの先祖たち、アブラハムとナホルの父テラは、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた』」。ハランはユーフラテス川の東側の地域である。カナンの地から見ると、ユーフラテス川の向こうである。このように、「ユーフラテスの向こう」という表現は故郷のウルだけでなくハランも意識されていた可能性がある。いずれ、テラの信仰はあいまいであったと思われる。甥のロトも後に見るように、アブラハムほどの信仰姿勢はなかったことがわかる。

父親が亡くなった後、このハランで二度目の召しがあったようである。それが12章1~5節の記事である。1節の「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」という命令自体は、ウルでもあったものであろう。ハランが目指すべき最終目的地ではなかった。アブラハムはこの召しに応じたのである。私たちは生活が安定してきたり、反対に忙しくなってきたりすると、自分が神の働きのために召されているということを忘れやすくなる。神は再び、アブラハムに語られた。そして、それに応じた。もし応じなかったら、彼はただの人として終わっていただろう。応じた時の年齢は何歳だっただろうか。4節によれば「七十五歳」とある。75歳からの信仰の冒険である。正確に言うと、もう少し前である。ウルを旅立ったのは、その数年前であっただろう。いずれ、決して若くはない。自分は若くはないと思う私たちも、アブラハムから学ばなければならない。

アブラハムに対する神の命令、示されたみこころは、服従がたやすいというものばかりでなかったことは、彼の生涯から明らかである。最初からしてたやすくなかった。へブル11章8節にはこうある。「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで出て行きました」。どこに行くのかを明確に知らされていなかったが、アブラハムは従った。だが、アブラハムは闇雲に人生を生きようと思ったわけではない。世界の創造主であり、支配者であり、主権者であり、全能の神であり、未来もすべて定めておられる神に信頼し、人生をゆだねて歩もうとする賢さがあった。近年、人生を100年スパンで考え、計画を立てることが勧められたりする。それはそれで良い。しかし、次のみことばに聴くべきだろう。「聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう』という人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう』」(ヤコブ4章13~15節)。アブラハムも、この信仰を身に着けていった。主のみこころがどこにあるのか、先ずそれを優先的に考えるわけである。

今日のアブラハムの召しの物語から私たちが学び取らなければならない一つのことは、主なる神に服従しようとする姿勢である。私たちは、自分のことをどうでもいいつまらない存在とみなして終わってはならない。もしアブラハムが自分を小さいものとみなし、自分を粗末にしたり、面倒を嫌い、神のことばに従わないでいたらどうなっていただろうか。地上のすべての民族の祝福の基になれずに終わっていたことだろう。それだけでなく、彼自身、何のために生まれてきたのかわからない大損の人生で終わっただろう。私たちは、アブラハムに倣うべきである。私たちは、自分のいいように生きたいと言いたくなる。わがままを通したくなる。また、神さまのため、人のためといっても、自分は何もできない、何の方法もない、と言いたくなる。けれども、神がしようとされていることは何であるかを信仰の耳をもって聞き、それに従う時に、アブラハムに倣うものとなるのである。信仰の旅を始める年齢も、コースも、一人ひとり異なるだろう。だが原則は変わらない。人生色々で、神さまに求められることにも違いがあり、誰一人として同じ人生を生きない。だが原則は同じである。従うということに変わりはない。皆さんは今、これからの人生どうしよう、と悩んでおられることがあるはずである。仕事のこと、家族のこと、経済のこと、神さまを証しする生き方のこと。年齢とともに増えて来る責任や悩みもある。自分のためにだけ生きて人生を終わらせたいと思っても、そういうわけにはいかない。わがままに自分の意を通したいと思っても、そういうわけにはいかない。神さまのなさりたいご計画がある。私たちはアブラハムと同じく、神さまに従うように召されているのである。

アブラハムも人間なので失敗を犯すことになるが、全体としては理想的な人生となった。どういうことかと言うと、他者の祝福となる人生を生きたということである。それは、アブラハムに約束された2,3節の神のことばの成就である。「・・・・そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民として、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」。ここに、「祝福」ということばが5回も使われている。キーワードであることがわかる。

まずアブラハムが祝福されることが言われている。2節前半で「あなたを祝福し」とある。私たちも、自分が祝福されることを願っていいのである。それには目的がある。詩篇67編1,2節にはこうある。「どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです」。同7節にはこうある。「神が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように」。神さまがあがめられるために、私たちは自分の祝福を願っていいのである。私たちも、神の栄光を願って、ヤベツの祈りにあるように「わたしを大いに祝福してください」と祈りたい。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて、私が苦しむことのないようにしてくださいますように」(第一歴代誌4章10節)。

次は他者の祝福が言われている。2節後半に「あなたの名は祝福となる」とある。アブラハムが祝福の源となり、祝福の媒介者となるのである。アブラハムを通して祝福が他者にもたらされるのである。では、神さまの言われる祝福とは何なのだろうか。その中核は、神さまを信じて、神の国の民とされるということである。アブラハムはその礎を築くことになるわけである。2節前半で「あなたを大いなる国民とし」とあるが、アブラハムは神の国の民の父となるのである。神の国の民には地上のすべての民族が含まれることになる。3節後半では、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」と約束されている。一人が神に服従した結果、祝福が全世界、全民族に広がっていくというのである。全民族に神の国の民となる特権が与えられるのである。アブラハムがこの祝福の着火点になったようなものである。アブラハムが祝福の基となった。神はアブラハムという一人の器を通して、全世界の人を祝福しようとされた。これが私たちにもつながっている。ガラテヤ書3章8,9節ではこう言われている。「聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、『あなたによってすべての国民が祝福される』と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです」。このように、アブラハムに与えられた祝福は異邦人にも与えられるのである。神の国の民とされる特権は異邦人にも与えられるである。その条件は信仰である。

キリスト時代のユダヤ人たちは勘違いしていた。アブラハムの血筋をひく自分たちこそが神の国の民であると思っていた。異邦人はそうでないと。しかし、神の国の民とされる条件は、血筋ではない。信仰である。キリストはユダヤ人ニコデモに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることができません」(ヨハネ3章3節)。ユダヤ人ニコデモは、ユダヤ人であるというだけでは神の国に入れず、生まれ変わらなければならないと言われて面食らうことになる。では、どうやって人は新しく生まれることができるのだろうか。ヨハネの福音書の著者は告げている。「この方(キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」(ヨハネ1章12,13節)。キリストを信じて生まれ変わった者たちがアブラハムの子孫であり、神の国の民なのである。この祝福に一人でも多くの人が与って欲しいというのが神さまの願いなのである。

まだキリストを救い主として信じておられない方は、キリストを罪からの救い主として信じていただきたいと思う。

すでに信仰をもっておられる方々は、アブラハムに倣い、人々の祝福となる、人々に祝福を与える、祝福の媒介者となる、そのことに努めよう。最後に、そのことを教える聖書箇所を読んで終わろう。

第一ペテロ3章9,13~16節

悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。

あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。

むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちに

ある希望について説明を求める人々には、だれにでもいつでも弁明できる用意を

していなさい。ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しな

さい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。

 

これが祝福を与える人の姿である。今日はアブラハムが信仰の旅をスタートした記事から、神さまを信じ、神さまに従って信仰の旅を続けることの大切さ、そして、人々に神の祝福を与える器となるという目的意識をもって信仰生活を送ることの大切さ、この二つのことを学ばさせていただいた。私たちもアブラハムに倣う者たちとなろう。