本日で、ヨハネの福音書の講解メッセージは最後を迎える。今日の記事は、信仰を持ったといえども、ふがいない自分に悩み安定感に欠く信仰者のために非常に有益である。後で証するが、信仰をもって間もなく深く落ち込んでしまった私を立ち直らせてくれたのも、今日の記事である。ヨハネの福音書は、ペテロのふがいない失敗を伝えているだけではない。その立ち直りを描いているということに特徴がある。

ペテロのふがいなさは、18章のキリストのユダヤ側での裁判に記されていた。その描写は非常に特徴的で、キリストとペテロを対比する手法で描かれおり、キリストとペテロは大祭司の中庭という同じフィールドにいたが、キリストがユダヤの闇の帝王であるアンナスの前で堂々としていたのに対し、ペテロは門番のはしための前で縮こまってキリストを三度否定してしまった。ペテロは臆病になってキリストを否んだだけでなく、裁判を執行する側の人たちといっしょに、炭火に手をかざし暖まっていた。「寒かったので、しもべたちや役人たちは、炭火をおこし、そこに立って暖まっていた。ペテロも彼らといっしょに、立って暖まっていた」(18章18節)。「一方、シモン・ペテロは立って、暖まっていた」(18章25節)。キリストが厳しい尋問を受け、嘲弄され、打たれ、あるまじき扱いを受けていた時にである。描写がこのままで終わったら、ペテロがかわいそうというか、読んでいて救いがない。ペテロはキリストを三度否定した弟子として有名になり、そこだけ強調され、世々にわたって語り継がれているが、ヨハネはその後の物語を書き記してくれている。

キリストは三度目の顕現において、テベリヤ湖(ガリラヤ湖)の岸辺で、炭火をおこして、弟子たちを朝食に招いた(9節)。朝食の後、名指しで問答が始まる。炭火を前にして、三度ご自身を否定したペテロに対して、三度、「わたしを愛しますか」と問いかけるのである。

一度目の問いかけを見てみよう。「ヨハネの子シモン。あなたはこの人たち以上に、わたしを愛しますか」(15節a)。一見、ふつうの問いかけのようだが、意味深い問いかけになっている。呼びかけは「ヨハネの子シモン」。なぜか「ペテロ」とは言われていない。キリストは彼を弟子として召した時に、あえてペテロと名付けて、ずっとペテロと呼んできた(1章42節)。しかし、なぜか、ここの呼びかけは「ヨハネの子シモン」。21章を見ると、著者の表現はすべてペテロである(7,11,17,19~23節)。なぜかイエスさまの呼びかけだけが「ヨハネの子シモン」。弟子として召す前の本名で呼んでいる。あたかも、もう弟子ではないかのように。これから弟子にするかのように。彼を素のままにして、再度、弟子としての召命を与えようとしているようなおもむきを感じる。そして、ただ「わたしを愛しますか」と問いかけていない。「あなたはこの人たち以上に」という比較の問いかけになっている。これは、我の強い時のペテロが意識されていることはまちがいない。ペテロは最後の晩餐の後、「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」(マタイ26章33節)と豪語していた。つまりは、誰よりもあなたを愛していますよと。以前のペテロであれば、「あなたはこの人たち以上に、わたしを愛しますか」の問いかけに、「もちろんです。あなたへの愛と忠誠心は誰にも負けません」と答えていたかもしれない。しかし、彼は砕かれていた。片意地を張る姿はもうない。我の強い自己主張はない。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです」(15b)。

二度目の問いかけは、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか」(16節a)。ペテロの一度目の答えを聞いたイエスさまに、「この人たち以上に」というフレーズはもう必要なかった。ペテロは一度目と同じように答える。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです」(16節b)。

そして三度目が待っていた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか」(17節a)。実は、三度目の問いかけは、原語では愛の用語に変化がある。一度目と二度目の「愛しますか」の原語は、<アガパオー>という動詞(15,16節欄外註)。神の愛を表す<アガペー>の動詞が<アガパオー>。ところが、三度目の「愛しますか」は<フィレオー>(欄外註)。こちらは一般的な愛の用語。この用語の使い分けに関して、「高次の愛と低次の愛という区別をする必要はない。二つの動詞は同義的に用いられているとみなされる」という意見も良く聞くが、であるならば、なぜここで使い分けたのだろうか。聖書では神の愛を表現するのに、アガペー以外の愛の用語も使用していることは事実である。エロスの愛さえも神の愛を表わすのに適用されている。しかしながら、このヨハネの福音書では、アガペーの愛は神の愛を表す高次の愛として、意識的に位置付けられていることは確かである。イエスさまの愛の問いかけに対して、ペテロが答えた「私があなたを愛することは」という応答は、すべて<フィレオー>。イエスさまの一度目と二度目の問いかけ、「あなたはわたしを<アガパオー>なのか」に対して<フィレオー>で応答している。<フィレオー>での応答は、ペテロが砕かれて謙遜になった気持ちがそうさせたと思う。三度目のイエスさまの問いかけは、ペテロの次元に降りていって<フィレオー>で問いかけている。ペテロも<フィレオー>で応答している。ただし、この三度目の応答は、気持ち的には違う。「ペテロは、イエスが三度、『あなたはわたしを愛しますか』と言われたので、心を痛めてイエスに言った」(17節b)。三度問いかけられ、心にグサッと来た。では、「私はダメな人間です。あなたを愛しているとは言えません」と答えたのだろうか。いや、「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります」(17節b続き)と答えたのである。どうして裏切り者ペテロが、このように答えることができたのだろうか。

私は短大を卒業し、東京で就職した後、すぐ体を壊し、退職し、実家の福島で療養生活を送ることになった。神さまのためにがんばるぞ~という意気込みも完全に消えていた。自分のことが何の役にも立たない虫けらにしか思えなかった。自分はこれから何のために生きていけばいいんだろうと、私の自問自答が始まった。今日の物語も自問自答しながら読んだ。

私は、ここを読むたびに、「自分だったら、『私があなたを愛することはあなたがご存じです』などとは絶対に言えない。それにまた、どうしてペテロはこんな風に言えたのかもわからない」と思っていた。これは私の一つのなぞだったのである。かつて、「私あなたを愛しています」と言わんばかりに、「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」と、力を込めて言い張ったペテロ。しかし、すぐに「あんな男は知らない」とキリストを否定してしまった。しかも三度目は、「彼はのろいをかけて誓いはじめ、『私は、あなたがたの話しているその人は知りません』と言った。」とマルコの福音書14章71節には書いてある。キリストはこうしてペテロたちに見捨てられ、その後、十字架刑に処せられ、人々の罵声を浴びながら死んでいった。だから、もう大それたことは言えないはずだと思っていた。なのに、なぜ、「私があなたを愛することは、あなたがご存じです」などと言えたのか、私にはわからなかった。この時、ペテロからは力みも何も消えている。そして、素直な気持ちで答えている。だからなおわからない。私は思った。「なぜ自分の心を開いて、開け放って、無防備にして、透明にして、こんなにも素直な心で愛を表明できたのだろうか?『あなたがご存じです』なんて言えたのだろうか?僕にはわからない」。

私はそれまで、「あなたはわたしを愛しますか」というキリストの三度の問いかけを、何か、試験官の呼びかけのように受け取っていた。テストだ、尋問だ。三度裏切ったペテロを、三度試している。「今回はどうなんだい?」と。けれども、イザヤ43章4節の「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」という有名なみことばをいただいた後、ある日の夜、この箇所を読んでいて、突然わかった。キリストの「あなたはわたしを愛しますか」という問いは、実は「わたしはあなたを愛している」ということばの裏返しなんだと、突然、気がついた。

ペテロはキリストを裏切って心がズタズタになった。けれども、キリストは、そんな彼を赦し、愛しておられた。キリストは、一晩、漁をして何も捕れずに疲れきったペテロたちのために、朝の食事を用意してくださっていた。もうそれが愛の証である。ペテロは、自分の罪を赦し、自分をありのままに受けとめ愛していてくださっているキリストの愛を、ひしひしと感じていた。「わたしは赦され、愛されている」。キリストは皆さんのことも心から愛しておられる。その実感をもっていただきたい。

今お話したように、私は「あなたはわたしを愛しますか」という問いかけを改めて読んだ時に、「わたしはあなたを愛している」というメッセージが心に響いてきた。「わたしはあなたを愛している」。ああ、主キリストは、こんなに無価値で、弱くて、何もできなくて、罪深い者をも愛していてくださっている。その時、私は素直に、「私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と、ペテロと一緒に応答していた。心の中で。

キリストの愛、キリストの十字架の愛、それは大きい愛であることを覚えよう。現代の私たちは「十字架」に関して、いいイメージを持ちすぎている。病院のマークも、薬箱のマークも、消防車のマークも、工事現場でも、とにかく十字架が街にあふれるようになった。人はネックレスにつける。イヤリングにも使う。十字架を嫌っていない。ところが当時はどうだったか?ユダヤ人にとっては十字架は呪いだった。そしてローマ人にとっても十字架は最も嫌悪すべきものだった。十字架をクルスと発音するのだが、上品なローマ人にとって十字架を意味するクルスは、口にしてはならないものであった。目にも耳にも口にもしたくないものであった。だからローマ人はどうしても十字架の死を口にしなければならない場合、遠まわしの表現を用いた。それは日本語にすると、「不吉な木に架ける」というものであった。また、十字架と言わず、「あの木、あの木」と呼んだりした。十字架は忌まわしいもの。この十字架につくというのは、人としての最悪の死に方であった。人間のクズとみなされるものの死に方であった。キリストの50年前の時代を生きたある人物は、十字架刑を「最も残酷で忌まわしい刑罰」と言っている。この十字架にキリストはついてくださった。私たちは、人生は不条理だ、矛盾だらけだ、なんで自分はこんな目に会わなければならないのかと自己憐憫にも陥る。けれどもキリスト以上に矛盾を強いられた方はいない。何一つ罪を犯さなかったのに、十字架にかけられ刑罰を受けたわけだから。また、私たち罪人である人間は責任転嫁をしやすいようにできているが、キリストはその反対であったことを覚えたい。私たちの罪の総量はごみ処理場のごみの山どころでなく、計り知れず、そしてその汚れも比較にならない。それは想像を絶するおぞましい汚泥であるが、これらの私たちの忌まわしい罪を一身に負ってくださった。こちらから頼んだわけでもないのに。愛からそうしてくださった。そしてキリストは私たちが受けるべき刑罰を引き受けられた。キリストはポンコツ車が押しつぶされるようにして、裁きによってクラッシュされた。私たちの身代わりとなって絶命した。それは十字架にかけられてから、およそ6時間後のことであった。普通は1~2日もつ。この短さは私たち人間の罪を負うということの苛酷さを物語っている。この十字架の愛はまさしく、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」という愛の表れだったのである。

かつてのペテロは傲慢だった。自分の義、正しさ、立派さを主張していた。しかし、自分は罪のかたまりでしかないことがわかり、また、そんな自分をキリストが赦し、愛していてくださることが理屈抜きでわかった。キリストの愛がわかったからこそ、先の7節のエピソードもある。キリストにお会いしたい一心で舟から湖に飛び込んだ。これは、ペテロのキリストへの愛の表れである。しかも上着を身に着けるという謙譲の姿勢で飛び込んだ。ペテロは、大漁の魚を他の弟子たちに押しつけて、自分のことしか考えなかったのではない。11節を見ると、率先して網を陸地に引き上げていることがわかる。そしてペテロは、キリストの愛を感じながら岸辺で朝食をいただいた。

ペテロの三度の愛の応答に対して、キリストは三度、表現は少しずつ違うが、「わたしの羊を飼いなさい」と命じている(15,16,17節)。聖書は、旧約でも新約でも、信者を主なる神に飼われている羊にたとえている。ペテロはキリストの羊たちを託された。ペテロは、キリストの愛を知って初めて、この命令を受けた。

そして、18節において、キリストは思わぬことを口にされる。しかも「まことに、まことに、あなたに告げます」と、重大な真実を断言する口調で。読んでみよう。ここで言われていることはペテロの投獄と殉教を示唆している。ペテロはネロ皇帝のもとで十字架にはりつけにされ(逆さ十字架とも言われている)、殉教する。ヨハネがこの福音書を記した頃は、キリストの預言は成就していて、ペテロは殉教している。18節で気になる表現は、「あなたの行きたくない所に連れて行きます」という表現である。19節を見てわかるように、それが「神の栄光を現す」ことであり、それが「わたしに従いなさい」と、キリストに従うことなのである。行きたくない所に行くこと、やりたくないことをすること、それが求められることがあるということである。ペテロも、行きたくない、やりたくないと思いつつ、主に従った生涯であったことに慰めを覚えないだろうか。私たちは自分の人間的気持ちがどうであっても、主の愛を覚えて、主に従っていきたいと思う。

20節を見ると、途中から岸辺を歩いているシーンになっていることがわかる。「ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとをついて来るのを見た」。一人の弟子がペテロのあとからついて来たようである。「イエスが愛された弟子」「あの晩餐のときに、イエスの右側」にいた弟子である。この弟子は、この福音書の著者のヨハネと言っていいだろう。ペテロは、彼はどうなるのか気になって、キリストに質問している。「主よ。この人はどうですか」(21節)。「イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」(22節)。私は、このキリストのことばにも教えられた。私たちはどうしても人と比較したくなってくる。人のことが気になってくる。あの人はいい環境で暮らしているよな。能力もあって仕事に恵まれているよな。家族にも恵まれているよな。健康で病気知らずだよな。順風満帆の人生に見えるよな。それに引きかえ自分は・・・・。何で自分はこんなに弱いんだろう。何で自分はこんなことをしているんだろう。何でこんなことをしなければならないんだろう。私は、ここを読んで、人と比較なんてする必要がないし、すべきじゃないと思えるようになった。人がどうのではなくて、「あなたは、わたしに従いなさい」。それでいいのである。意味のない自己憐憫はやめよう。

最後に、23節についてもふれておきたい。「そこで、その弟子は死なないという評判が兄弟たちの間に行き渡った」ということで、自分について過大評価をされた著者は、それを訂正しようとしている。私はこの23節を読んだ時、わざわざ、こんなこと書かなくてもいいのに、と正直思った。でも今は違う。22節の「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても」というイエスさまのことばを聞いて、信者たちの間で誤解が生まれ、「あの弟子は死なないんだ」といううわさが広まってしまったわけだが、これは風評被害とは反対の性質のものである。聖人、超人扱いにされるうわさである。著者はこれを嫌った。健全である。現代では、自分を極端に権威づけたり、奇蹟ができるスーパーマンを装ったりするクリスチャンたちがいるが、著者にならうべきだろう。また現代では、某教派において、過去の信者たちを守護聖人として祭って、キリストに近い立場を与えて、祈りの対象にまでしているが、祭られた人たちは迷惑な思いをしているだろう。それらの守護聖人たちにご利益を期待して祈りをささげているわけだが、それがキリストの弟子のすることだろうか。また、著者はここで、イエスさまのことばそのものが誤解されていることにもこだわっていると思う。現代でも、イエスさまのことばは誤解され、捻じ曲げられて解釈されることが後を絶たない。だから私たちは、正しく伝える努力をしていきたいと思う。私たちは、人間があがめられることではなく、キリストとキリストのことばが愛され、あがめられることを心から願っていきたいと思う。