聖書は、私たちの恐れを取り扱っている書でもある。お気づきになった方もいると思うが、聖書は「恐れるな」の種類のみことばが非常に多い。私たちは、人を恐れ、未来を恐れ、目に見えないものを恐れ、と恐れ多い人生を歩んでしまう。今日の箇所は、そんな私たちの恐れを取り扱ってくれる。

今日は復活の物語の二回目である。前回はマグダラのマリヤたちの前に、復活の主が現れたことを見た。それは週の初めの日、すなわち、日曜日の早朝であった(1節)。今日の箇所は、同日の夕方の記事である(19節前半)。弟子たちはエルサレムの一室に閉じこもっていた。この時、弟子たちはマグダラのマリヤたちから、墓は空であり、よみがえられたキリストと出会ったという報告を受けていた。また、ペテロと主の愛する弟子(ヨハネ)が墓を確認しに行ったので、その報告も受けていた。色々な情報を耳にする中で、弟子たちの頭の中はまだ混乱していた。墓は空っぽ?亜麻布だけが残っている?イエスさまに会った?いったいイエスさまはどうなってしまったのか?もう一つは恐れに囚われていたということである。「ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが」(19節中頃)。彼らの心中穏やかでない感情は十字架刑前からずっと続いていた。キリストはそれを察し、最後の晩餐の席では、「あなたがたは心を騒がしてはなりません」(14章1節)、その他、様々な励ましのことばを語ってこられた。そして今、主は捕らえられ、十字架につけられ、死亡が確認され、墓に葬られてしまった。ユダヤ人たちの敵対の目は、今度は当然のことながら弟子たちに向けられるわけである。弟子たちは、ユダヤ人たちを恐れて引きこもっていた。

「戸がしめてあったが」の別訳をみると、「かぎをかけられていた」とある(欄外註)。ドアはロックされていたということである。誰かが勝手に戸を開けて入って来ないように。にもかかわらず、「イエスが来られ、彼らの中に立って」という驚くべきことが起こる。キリストの復活のからだは、以前の肉のからだではないという証である。朽ちもしなければ、物体に左右されたりするからだではないということである。

キリストの第一声は「平安があなたがたにあるように」(19節後半)。ヘブル語では「シャローム」。これは、「こんにちは」とか「さようなら」といった一般的なあいさつのことばであるが、この場面では、そうしたことを超えているということが文脈からわかる。キリストは「平安があなたがたにあるように」ということばを21節でも述べておられるが、ただのあいさつであれば、二度繰り返す必要はない。旧約聖書において「平安があなたがたにあるように」というのは、神からの祝福と密接に結びついていた。また、このことばは、メシヤが与える救い、平安ということを表していた。イザヤ9章6節はキリスト預言の箇所であるが、そこでは、来るべきメシヤが「平和の君」と呼ばれている(参照:ゼカリヤ9章10節)。今、まさに平和の君が参上した。そしてメシヤの平安を与えようとされたが、キリストはこの時、彼らの恐れということを強く意識されていたことはまちがいない。

弟子たちはこの瞬間、すぐには喜べなかった。目の前の人物がイエスさまだと認識できなかったので。イエスさまはこうなることをご存じで、20節前半にあるように、「こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された」。弟子たちは、本当にイエスさまなんだと分かって喜んだ。「弟子たちは、主を見て喜んだ」(20節後半)。イエスさまは十字架刑前にこう語られた。「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度、あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません」(16章20節)。まさしく、その喜びが現実のものとなった。

キリストは喜んだ弟子たちに対して、「平安があなたがたにあるように」と、もう一度言われる(21節前半)。続いて「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」と言われている。キリストが「平安があなたがたにあるように」と言われたのは、彼らの恐れを消すこととともに、彼らをこの世に派遣するためであることがわかる。平安をもって世に出て行きなさいと。

弟子たちは、恐れて、部屋に閉じこもり、世に出て行けるような状況ではまったくなかった。彼らに最も必要なものは何だったのだろうか。宣教の方策、知恵、潤沢な資金・・・それらのどれでもなかった。「ユダヤ人を恐れて戸がしめてあった」という状態が打破されなければならなかった。彼らには、よみがえられたキリストから来る喜びと平安が必要だった。「彼らは世間がこわかったのです。人がこわかったのです。おじ恐れております彼らに、死にさえも打ち勝ち給うたメシヤの平安と喜びを授けるから、さあ、出て行きなさい、とメシヤは呼びかけておられるわけであります」(榊原康夫)。世間が恐い、人が恐いというのは良くわかる。私たちにも生けるキリストの臨在から来る喜びと平安が必要であると本当に思う。人を恐れる、臆病、引きこもり、そういうことがクリスチャンの本来の特徴であると聖書は言っていない。キリストが与える喜びと平安、それを持って世に出て行くのがクリスチャンである。キリストはすでに言われていた。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい(恐れるな)。わたしはすでに世に勝ったのです」(16章33節)。「わたしはすでに世に勝ったのです」と言われる主から与えられる平安、これが私たちの力なのである。

キリストはこの後、聖霊を口にされる。「そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』(22節)。キリストは十字架にかけられる前に、すでに聖霊を遣わす約束をされていた。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです」(ヨハネ15章26,27節)。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去っていかなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします」(16章7節)。このもうひとりの助け主である聖霊が世に出ていく力なのである。ご存じのように約束の聖霊の降臨は、キリストが天に昇られてからペンテコステの日に成就する(使徒2章)。キリストはペンテコステの日に天の御座から聖霊を注ぎ、聖霊の時代、宣教の時代、教会の時代が始まる。ところが、まだ天に昇られていないこの時に、聖霊を与えるというのはどういうことなのかという議論が繰り広げられてきた。難解な箇所の一つである。この議論にエネルギーと時間を費やすのは生産的ではない。私は、以前、主の復活は聖霊の時代をもたらすということを述べた。今日の箇所は、まさに、そのことを表している。約束の御霊の注ぎは確かにペンテコステの時である。そして宣教が革新的に始まる。教会の時代が始まる。今日の箇所は、その予備的な段階と言えるだろう。22節は確かに難解であるが、大切なことは、単純に、聖霊を受けることは必要だということである。人を恐れ、おじまどう私たち。そして私たちには、人を生まれ変わらせる力があるわけではない。キリストの御霊なる聖霊を欠いて、私たちは何もできないのである。部屋に閉じこもって、縮こまっているしかないのである。キリストの栄光を現すことはできないのである。私たちはキリストを信じた時に、誰でも聖霊を受けている。先ず、そのことを信じよう。そして私たちは、もっともっと聖霊に拠り頼み、聖霊の支配を受けることを願っていこう。

22節の「彼らに息を吹きかけて」で思い出すみことばが、創世記2章7節の「神である主は土地のちりで人を形作り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」である。神さまが人を形作った時に吹き込まれたいのちの息とは、人を人たらしめる霊のことである。それは人であるならば誰でも持っている霊である。だが、22節の場合の息は聖霊である。聖霊は、キリストにある新しい人として生まれ変わらせ、キリストの働きをさせる霊である。

「彼らに息を吹きかけて」で思い出す、こんな実話もある。ある冒険家が、人々から偉大な人物だ、救い主だと賞賛されている、秘密組織のリーダーと面談をする中で、その人の正体は、悪魔に仕える魔術師、偽メシヤだと見破った。その時、自分の正体を見破られたその人物は、息を吹きかけてきたというのである。キリストのまねごとである。息を吹きかけたのは、相手のたましいを悪しき霊で支配してしまうためである。だが、キリストが与えるのは悪霊ではない。聖霊である。それは闇の霊ではない、光の霊である。偽りの霊ではなく真理の霊である。人を滅びに追いやる霊ではなくいのちの霊であり、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みの霊である。

続く23節に目を落とそう。「聖霊を受けなさい」に続けて主が語られたことばである。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」。実は、この箇所も議論されてきた難解な箇所である。古代教会では、この罪の赦しということを洗礼と結び付けていた。洗礼を授けられた者は罪を赦される(赦されている)。後に、カトリックはこの23節を、「ゆるしの秘跡」と結び付けるようになる。カトリックには7つの秘跡があり、そのうちの一つが「ゆるしの秘跡」である。「カトリック要理」118問において、「ゆるしの秘跡」について、こう説明されている。「ゆるしの秘跡とは、洗礼以後に犯した罪を、教会の司祭を通してゆるし、罪人を神と教会に和解させる秘跡です」。この「ゆるし」には罪の告白が必要なわけだが、ヨハネ20章23節を示しながら、127問で、こう説明している。「イエズス・キリストはゆるしの秘跡において罪をゆるし、またとどめる権能を教会の司祭に与えられましたので、司祭は信者の罪とその心の状態を知る必要があります。そのために信者は司祭に告白しなければなりません」。以上からわかるように、カトリックでは洗礼を受けた信者のために、司祭が、このヨハネ20章23節の職務を担うのだということである。キリストは司祭にこの権能を与えているというのである。確かに聖書において、教会形成のために、教会の健康のために、罪の問題を取り扱うべきこと、罪の告白を聞くべきこと等、教えられている。しかしながら、教会の司祭にだけ与えられた権能であると、聖書は語っていない。よって、プロテスタントは、このカトリックの秘跡は認めていない。この23節は、「聖霊を受けなさい」と聖霊を受けた教会のメンバーであるならば、誰でも耳を傾けるべきである教えである。もちろん、群れの指導者は特に心に留めるべきだろう。

23節のみことばで、「赦され」と「残ります」は受動態(受け身形)であるが、このことに少しこだわりたいと思う。実は、この受け身は、ユダヤ的言い回しであり、神さまが罪を赦し、神さまが罪をそのまま残すのだけれども、神さまということばを表に出すのは畏れ多いということで、神さまの名を出さずに、神さまによって赦される、神さまによって残される、という真実を語っている。だから、罪を赦す、赦さないの権威の源は神さまにあるということである。そのことを忘れてはならない。その上で、教会は神の代理人として機能するというわけである。つまり地上の教会は、罪の問題に関して、天の法廷の裁きの代理人としての権威を持っているということである。教会は聖書を通して何が罪であり罪でないかを定め、教会は悔い改めない者に対しては赦さず、救いの外に置くかぎを持っている。また悔い改めた者に対しては、赦して、救いの中に置くかぎを持っている。別の表現をとると、その人が天の御国の外に置かれてしまうか、天の御国に入れるかというかぎを、教会は持っているということである(マタイ18章15~35節参照)。

そして、この23節の赦される対象だが、カトリックの解釈のように、洗礼を受けた信者のことだけが対象になっているようには思えない。未信者のことも対象になっているのではないだろうか。私は求道時代、イエスさまを罪からの救い主と信じた時に、自分の罪が赦されたと信じた。教会が聖書を通して、そう教えてくれたからである。「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです」(エペソ1章7節)。23節のみことばは、部屋に閉じこもっていた弟子たちを世に遣わすという宣教の文脈で言われていることを見逃してはならないと思う。私たちも、罪の赦しの福音を携えて、この世に出て行くわけである。罪を赦す働きに携わるわけである。何が罪なのかわからず混乱している方がいる。また罪責感で苦しんいる方がいる。私たちは何が罪かを示し、悔い改めに導き、またキリストにあって赦しを宣言するのである。

今日は、週の初めの日の夕方、一室に閉じこもっていた弟子たちに、復活の主が顕現された記事から学んだ。「ユダヤ人を恐れて戸がしめてあった」が先ず印象的である。しかし、キリストの出現に続いて、平安、聖霊という、恐れを打ち破る表現がそれに続いていた。それと並行して、閉じこもりから、遣わされて出て行く、罪を赦す働きに携わるという流れを見ることができた。私たちは改めてこの弟子たちの体験を追体験したいと思う。時に、私たちは、主はよみがえられておられないかのような、悲哀と恐れの中に沈み込んでしまうことがある。また、聖霊が与えられていることさえ忘れることがある。人を恐れて、この世を恐れて、引きこもりたくなってしまうことがある。信仰のダウン、霊的ダウンである。世に打ち勝たれた復活の主の臨在を仰ぎ、喜びを取り戻そう。「平安があなたがたにあるように」という声を、しっかり聞こう。そして聖霊が与えられているという確信に立ち、強くされ、世に遣わされた者たちとして、罪の赦しの福音を宣べ伝えて行こう。