20,21章は、キリストの復活の物語である。ヨハネの福音書は、福音書としては一番最後に執筆された福音書なので、他の福音書には記されていないエピソードや主のことばが意識されている。復活の記事もそうである。ヨハネの福音書独特の記事が記されている。そして、また、一つ一つの出来事に関して、丁寧に描かれている。今日は、復活の最初の記事から学ぼう。

「さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た」(1節)。日曜日の早朝、マグダラのマリヤは墓に駆けつけた。駆けつけたのは、彼女だけではない。2節後半を見ると、男弟子たちに対する空の墓の報告に際して、マリヤは「私たちには」と言っている。複数で墓に行ったのである。マリヤが主導的な役割を果たしていたということが考えられる。彼女は信仰の篤い女性だった。そして、ここでは、「朝早くまだ暗いうちに」と「暗い」という描写をしているのが独特である。ヨハネの福音書では、「やみ」とか「夜」とか表現で、霊的な暗さを表してきた。13章30節には、「ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった」とあった。夜はキリストに背いたユダの霊性を表しているようである。ここでの「暗いうちに」は、単に明け方の暗さの描写かもしれないが、死の闇、また、マリヤたちの霊的な無知を表しているのかもしれない。マリヤたちは、キリストの遺体と対面することだけを考えていた。こうした霊的無知は、男弟子たちも同じであった。

ペテロともう一人の弟子は、マリヤたちの報告を受けて墓に向かう。「ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた」(4節)。もう一人の弟子とは、2節で言われている「イエスが愛された、もうひとりの弟子」のことで、著者のヨハネのことであると思われるが、面白いと思うのは、どちらが先に墓に着いたかなどという細かいことを、わざわざ描写していることである。なぜヨハネのほうが早く着いたのか、様々なことが言われてきた。代表的な解釈は、ペテロはイエスさまを裏切ってしまったので、その恥の思いが足の動きを鈍らせたというようなもの。しかし、ここで、そのようなことを読者に意識させるために書かれたのではないと思う。また、単純に、ペテロよりヨハネのほうが足が速かったという解釈も成り立つだろう。しかし、どちらが足が速いか、そんな事実を知らせるために書かれたわけでもないと思う。私たちが知っておきたいことは、ヨハネは常にキリストのそば近くにいることを願う弟子で、キリストの存在に敏感だった、キリストを愛していた、ということである。足を急がせたのは、まちがいなくそのことがある。

最後の晩餐の席で、キリストの右側の席、御胸のそばの席に着いていたのはヨハネだった(13章23節)。また、十字架の場面で、使徒たちの中でヨハネが唯一、十字架の下に立っていた(19章26節)。21章に進むと、キリストがガリラヤ湖畔に現れ、岸辺に立っておられた時、初め、それが主であると誰も気づかなかったが、ヨハネが「主です」と言って、真っ先に気づき、ペテロに教えた(21章7節)。ヨハネはマグダラのマリヤと同じようにキリストを愛していたし、霊的知覚もすぐれていた。

5,6節を見ると、墓に先に着いたのはヨハネだったが、墓の中に先に入ったのはペテロであることがわかる。ペテロは後からドカドカとやってきて、躊躇せずに中に入ったのだろう。それにしても、ヨハネはなぜペテロに譲ったのかということだが、ペテロが年長者で、リーダー格であったことが挙げられると思う。

6節後半、7節は墓の中の不思議な描写である。「亜麻布が置いてあって、イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た」。「亜麻布」とは、包帯のような白布で、これで死体をぐるぐる巻きにした。頭部は、別の布で包んだ。「イエスの頭に巻かれた布切れ」を新改訳2017では、「イエスの頭を包んでいた布は」と訳している。「巻いていた」ではなく「包んでいた」である。こちらが原意に近い。布で頭をくるんでいたというか、包んでいた。「布切れ」と訳されていることばだが、ルカ19章20節では「ふろしき」と訳されている。使徒19章12節では「手ぬぐい」と訳されている。こうした大きいサイズの布で、頭をくるんでいたというか、包んでいた。

それがどうなってしまったかということだが、「亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た」。これを新改訳2017では、「離れたところに丸めてあった」と訳している。共同訳も「丸めてあった」と訳している。軽くたたんで置いたというニュアンスである。この訳から受け止めることができるのは、復活された後、ほどいた布を別々の場所に整理して置いて、墓から出て行かれたということである。別の可能性もある。「丸めてあった」の別訳を共同訳はこう記している。「包んだときのままで置いてあった」。これは、どういう解釈に立っているかというと、胴体を巻いていた布と、頭をくるんでいた布が、それぞれ少し離れて、体がスポッと消えた感じで、そのままの形で残っていたということである。文字通り、もぬけの殻という状態。新改訳第三版の「巻かれたままになっているのを見た」という訳も、この解釈を押している。果たして、肉体が蒸発するようにして、布だけ残して復活されたのか、はたまた、復活された後、布をほどいて、整理して置いてから墓から出て行かれたのか。いずれにしろ、ラザロの復活の場面で描写されているように、「すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた」(11章44節)とは違っていたということである。亜麻布と布切れは墓の中に残っている。しかも、それらの布はバラバラに乱雑に置かれていない。整然と置かれている。あまりにも不思議な光景である。

古代は、墓泥棒が流行っていた。そこで1世紀のことだが、ローマ皇帝アウグストによるものかティベリウスによるものかクラウデオによるものか、誰によるものかはわからないが、ローマ皇帝の勅令として墓泥棒禁止令が出された。この時は、墓泥棒が侵入しないように番兵がつけられていたわけだが、それでも侵入したとして、泥棒は時間が勝負なわけだから、ぐるぐる巻きの布をわざわざほどいたりするだろうか。仮にほどいたとして、わざわざ、たたんで片づけてから出て行くだろうか。もしくは、体が入っているように巻き直したりするような芸術的なことをしてから出て行くだろうか。

ヨハネは、この不思議な光景を見て、8節で「そして、見て、信じた」と言っているのである。ヨハネは、明らかにそこに、神のみわざを見た。神の指というか、神のみわざの痕跡を見た。だが、ヨハネの「信じた」というのは、キリストの復活を明確に信じたというのではなかったようである。9節で、「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったからである」とあるからである。ここでの信じ方は、最初のキリストのしるしである、水をぶどう主に変えた奇跡の際と同じ信じ方だったかもしれない。「イエスがこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで弟子たちはイエスを信じた」(2章11節)。弟子たちは奇蹟を通して、イエスがキリストであること、すなわち神の救い主であることを信じた。ここでも、墓の中の不思議な光景を見て、イエスさまは神の救い主であると改めて信じたけれども、イエスさまが復活したという明確な信仰までには至っていない信じ方であったと受け止めることができる。もっと積極的な見方をして、ヨハネはキリストの復活を信じたと受け止めたとしても、それが聖書の預言どおりのことであったと気づくまでには至ってなかったということは確かである。まだ霧がかかったままの信仰であった。しっかり、晴れてはいない。ここで、「信じた」のはヨハネであって、ペテロは入っていないようである。いずれ、彼らは理解が不十分なまま、もとの所に帰って行った。

11節からの後半は、再びマグダラのマリヤが登場する。マリヤはまた墓の所に戻って来ると、ただずんで泣いていた。マリヤはひたすら泣いていたことがわかる(11節、13節、15節)。マグダラのマリヤは、イエスさまが捕まえられて泣いただろう。そして十字架の下にも立っていたわけだが、十字架の下でひどく泣いて、死なれてからも、ずっと泣き続けていたはずである。そして、遺体に面することができるのがせめてもの慰めのはずだったのに、その遺体がない、愛する方の体がないということで、また別の意味での悲しみが込み上げてきた。ただ、ただ、泣いている。

彼女は泣きながら、墓の中をのぞき込むと、二人の御使いが、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとって座っているのが見えた(12節)。彼女はそれが御使いだとは分からない。いったい誰?という感じだっただろう。13節で彼女は、「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです」と言っている。彼女も、キリストの復活を信じてはいない。ただ、「だれかが私の主を取って行きました」という表現に、彼女の愛を感じる。

この彼女の愛は、続く、彼女が園の管理人と勘違いしたキリストとのやりとりからも感じることができる。彼女は人の気配を感じ、振り向いたようである(14節)。彼女は、後ろに立っている人物がキリストであるとは気づいていない。

「イエスは彼女に言われた。『まぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。』彼女は、それを園の管理人だと思って言った。『あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。』」(15節)。マリヤは、「だれを捜しているのですか」という質問に答えていない。答える必要を感じなかったのである。キリストは19章38~42節の埋葬物語からわかるように、アリマタヤヨセフ所有の園の墓に納められた。マリヤは、後ろに立っていた人物が園の管理人だと思った。園の管理人であるならば、墓に葬られたのは誰かなんて知っていて当然である。だから、誰々を捜しています、とは答えずに、単刀直入に、自分の願いを述べている。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります」。彼女は、園の管理人が運んだ可能性も視野に入れたわけであるが、彼女の愛を感じるのは、「そうすれば私が引き取ります」という表現である。「だれかが私の主を取って行きました」に続いて、「私が引き取ります」。彼女の絶対的な愛を感じる。「私が引き取ります」。

マリヤは、他の福音書を見ると、先に、「主はよみがえられました」という御使いたちのことばを聞いている。また、ヨハネが見たように、胴体を巻いた亜麻布と、頭をくるんだ布が、不思議なかたちで置かれていたのも見たはずである。そして今、白い衣を来た二人の御使いを見て、後ろには復活のキリストが立っているのを見た。しかし、彼女は、何も悟らずに、何も気づかずに、主の遺体を誰かが取って行ってしまったと泣いているだけである。そこで、信仰の欠けを責められることがあるが、「私の主」「私が引き取ります」というマリヤの熱い愛を見落としてはならないと思うのである。涙も、キリストへの愛から生まれている。この場面で、御使いたちも、キリストも、マリヤを責めてはいない。「なぜ泣いているのですか」と、愛情をもって優しく語りかけている。御使いたちとキリストが願っていたことは、マリヤの心の目が開かれることである。マリヤは悲しみにくれて、何も見えなくなっていた。彼女は信仰の夜明けが待ち望まれていた。キリストとの新たな関係が待ち望まれていた。

感動的な場面が16節で訪れる。「イエスは彼女に言われた。『マリヤ。』彼女は振り向いて、ヘブル語で、『ラボニ(すなわち、先生)』とイエスに言った」。イエスさまは彼女の名前を呼んだ。その声を聞いて、彼女は一瞬にして、園の管理人だと思っていた男性はイエスさまだと気づいた。当時はヘブル語の方言のアラム語が日常会話用語であったと思われるが、「ラボニ」(先生)と応答した。イエスさまもアラム語で呼びかけたとするならば、「マリアム」となる。キリストは生前、何度も「マリアム」と呼びかけてきただろう。その呼びかけが、彼女の心のドアを開けた。そして「ラボニ」と応答した。私たちは、ほんの一言で心の目が開かれるという経験をすることがあるが、マリヤの場合は、イエスさまの名指しの呼びかけであった。そして彼女は、ほんとうの意味で、復活の主との出会いを果たした。キリストは、私たちのことをも、名指しで呼びかけてくださるのではないだろうか。「マリヤ」のところに、自分の名前を入れて読んでみてください。私たちも主の呼びかけを信仰の耳で聞こう。今も生きておられるキリスト、私たちを知っていてくださるキリスト、名前を呼んでくださるキリスト、そのキリストの御声を聞き、喜び、愛し、ついて行こう。

マリヤはこの時、思わずキリストにすがりついていたようである。キリストは言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです」(17節前半)。「わたしにすがりついていてはいけません」を、共同訳は「わたしに触れてはいけない」と訳しているが、原文を見ると、触れること自体を禁止しているというよりも、触れ続けることへの禁止の命令として受け取れる。継続の禁止である。だから、「すがりついていてはいけません」は良い訳である。なぜ、いつまでもすがりついていてはいけないのか。それは、17節後半で述べているように、「わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る」ことになっている、ということである。すなわち、昇天である。キリストは、わたしは世を去って父のみもとに行くというメッセージを、十字架にかかる前日に繰り返しされていたが、それは昇天のことであったわけである。キリストは十字架にかけられる前日、「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです」(15章7節)とも語られている。キリストは天の父のみもとに上られることによって、もうひとりの助け主である聖霊を遣わし、聖霊を通して働き、全世界の人を祝福しようとされていた。それはキリストにとって、わたしの父があなたがたの父になる、わたしの神があなたがたの神になるという恵みが、全世界に広まる時代のことである。現在、キリストは聖霊を通して働き、キリストを信じるすべての人が神の子どもとされる恵みに与るのである。そして、すべての信者がマリヤのようにキリストと交わることが許されるのである。

マリヤはこの恵みの時代の到来のために、キリストを独り占めにしておくことはできなかったし、いつまでもすがりついていることは許されなかった。そして、キリストの昇天というのは、キリストを信じるすべての者が、やがて天の御国で永遠にキリストと交わるという、すばらしい時代をもたらすものであったのである。

今は、聖霊を通して、その前味を味わう時代である。私たちは祈りにおいて、「主よ」とか「イエスさま」と、キリストに呼びかける。だが、交わりは一方通行ではない。キリストは私たちの名を親しく知っておられ、愛情を込めて呼んでくださるお方、そして親しく交わってくださるお方である。私たちは、キリストの呼びかけを、心の耳で聞いて、キリストと親しく交わりたいと思う。

最後に、ヨハネの福音書10章2~4節を読んで終わろう。「しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。門番は彼のために開き、羊は彼の声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみなひき出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます」。私たちも、その名で呼んでくださる主の御声を心の耳で聞いて、ついて行こう。