今日の記事は、キリストが十字架上で最期を遂げる場面である。皆さんは、キリストの十字架に何を思うだろうか。十字架はもともとは、苦しみと恥のシンボルである。またユダヤ人にとっては呪いのシンボルである。けれどもキリストはそれを神の栄光と変え、いのちのシンボル、愛のシンボル、闇に打ち勝つシンボルと変えてしまわれた。十字架は口にもしたくないおぞましいものにすぎなかったが、キリストはそれを魅力あるものに変えてしまわれた。しかしながら、その魅力は、この世のそれとはまったく異なる。日本のわび、さびの精神も思い出す。品祖なもの、さびてしまっているようなものに美しさを見出さんとする精神が日本文化にはあるが、十字架はさびどころではない。もっとひどいものである。荒削りの十字架に死刑囚が血だらけで釘付けにされている。十字架に世の欲望を刺激するものはない。肉の欲、目の欲、快楽、そういったものとは無縁である。それらの欲は完全にそぎ落とされてしまっている。世的魅力はゼロである。にもかかわらず、私たちはそこに言い知れない天的な魅力を覚える。そこに、キリストがついたからである。そして、御国の扉を開いてくださったからである。

今日の箇所には十字架上の第五のことばと、第六のことばが記されている。双方とも、「完了した」ということばがキーワードになっている(28,30節)。著者ヨハネは、「完了した」ということばで、キリストの死とは自発的なものであり、それは救いのみわざを完了するためのものであったことを強調したいようである。

28節のキリストのことばに注目しよう。「わたしは渇く」。単純に「渇く」という訳でもいい。十字架上の死刑囚に渇きはつきものである。多量に出血し、全身から水分が失われていくために、猛烈な渇きに襲われると言う。そして、キリストの渇きの場合、肉体の渇きに合わせて、霊的な渇きを見出すべきではないかと思う。しかしながら、この「渇く」で不思議に思うのは、キリストがかつて、ご自身を、渇きをいやす救い主として表明されていたということである。「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる』」(7章37,38節)。渇きをいやすはずのお方が渇いている。しかし、この渇きは、罪人の代表となられたというところから来る渇き、罪人の身代わりとなられというところから来る渇きである。キリストは私たちの罪をご自身の罪とし、私たちの渇きを自らの渇きとして、十字架で死んでくださった。私たちが罪から救われ、もはや渇くことのないために。キリストは「わたしは渇く」の前に、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と(マタイ27章46節)と、十字架上の第四のことばを叫んでおられる。私たちの罪を負われたために、捨てられた感覚となり、本来なら私たちが叫ぶことになる叫びを叫ばれた。父なる神が遠い存在に感じる。霊的な渇きはこうしたことから生まれるだろう。詩篇42編の著者の神への渇きも思い起こす。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています」(1,2節)。かつて、この詩篇のメッセージの際に、私はこう申し述べた。「弱くて臆病な女鹿は乾いた地で谷川の水を慕い求めつつも、谷川から離れた場所にいて、野獣を恐れて近づけず、水を飲めないでいるのです。やせ細り、渇きはひどくなる一方です。全く哀れな女鹿です。この哀れな様を想像してみてください。絵に描くとどういうことになるでしょうか。孤独でみじめで弱々しく可哀そうな女鹿です。涸れた谷川にも近づけないでいるのです。」著者は神への渇きを、こうした哀れな女鹿で描写している。今、キリストも哀れな様である。父なる神から引き離されている感覚の中で、強い渇きを覚えている。詩篇42編の著者は10節で、敵対する者たちに囲まれていることも吐露している。「私に敵対する者どもは、私の骨々が打ち砕かれるほど、私をそしり、一日中、『おまえの神はどこにいるのか』と私に言っています」。キリストは十字架刑において、同じようなそしりを受けていた。「神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい」(マタイ27章43節)。つまりは、「おまえの神はどこにいるのか」というそしりである。渇きをいやすことばではない。むしろ、その逆である。

ヨハネは「わたしは渇く」という叫びを、単に、肉体的渇き、霊的渇きということだけで終わらせてはいない。ヨハネは救いのみわざが万事完了したことを印象づけるために、聖書の預言の成就と結び付けている。「聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた(28節)。キリストはどの聖書箇所を意識しておられたのだろうか。先ず、詩篇22編14,15節を開いて読もう。「私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます」。詩篇22編全体が十字架預言の箇所として有名である。1節は、十字架上の第四のことばの預言となっている。14節は精魂尽き果てた描写である。「水」や「ろう」という流動的な単語で、へなへなになってしまった様を言い表している。15節は死の渇きの描写である。口は渇いて素焼きのかけらのようになり、舌は上あごにはり付いていると言う。死の渇きは猛烈だった。キリストは、これらの預言をご存じであられた。キリストは死の渇きを覚えておられ、神にも人にも見捨てられたっていた感覚になっていたことは事実であるけれども、それだけの理由で「わたしは渇く」と言われたのではなく、聖書で預言されていた救い主としての自覚をもって「わたしは渇く」と言われたのである。キリストの念頭にあったと思われる詩篇の箇所はもう一つある。詩篇69編21節を読もう。「彼らは私の食物の代わりに、苦みを与え、私が渇いたときには酢を飲ませた」。この成就について、ヨハネ19章29節を見てみよう。兵士たちは、キリストの「わたしは渇く」ということばを聞いて、肉体的な渇きのことしか念頭になかったと思われるが、「酸いぶどう酒」を含ませた海綿を枝に巻きつけて、キリストの口もとに差し出した。「酸いぶどう酒」とは、いわゆる「ワインビネガー」である。実は、十字架につけられる前に、「没薬を混ぜたぶどう酒」も差し出されている。「そして、彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった」(マルコ15章23節)。「没薬を混ぜたぶどう酒」は、死刑囚の痛みをマヒさせるために提供された温情のしるしなのだが、キリストは人類のための十字架の苦しみを、ごまかしなくすべて受け止めるために、こちらは拒否した。そして息を引き取る寸前に差し出されたのが「酸いぶどう酒」である。死刑囚に「酸いぶどう酒」を差し出す習慣があったというわけではない。これは兵士たちの飲み物であったらしい。兵士たちは無意識的に預言を成就させた。これが、日本で言うと、結果的に末期の水となった。今は、臨終した直後に、箸に脱脂綿を巻いて、口もとを濡らすが、以前は、臨終の間際に、喉の渇きをいやすために行ったものである。キリストの場合は、末期のワインビネガーとなった。

ヨハネはこの行為において、意図的に「ヒソプ」ということばを出している(29節)。兵士たちが酸いぶどう酒を差し出すのに使った枝は「ヒソプ」だったと言うのである。ヒソプは贖いと関係する。ヒソプは出エジプトの場面で登場する。イスラエルの民はエジプトから脱出する前に、過越の羊としてほふった羊の血にヒソプを浸し、それを家の門に塗るように命じられた。その家は裁きを下す御使いから過ぎ越され、エジプトの災いから救い出された(出エジプト12章21~23節)。今、過越のいけにえをほふる日に、キリストは世の罪を取り除く神の子羊として、血を流し、贖いのみわざを完了しようとされていた。ヒソプは、キリストが世の罪を取り除く神の子羊であるという役割を浮き立たせている。ヒソプについては、ダビデも言及している。「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう」(詩篇51編7節)。ヒソプは罪を取り除くために用いられていたのである。ヒソプは一般に、シソ科の植物ではなかったかと言われているが、こうした兵士たちの所作にも、神の御手は働いていた。

「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した』と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった」(30節)。「完了した」ということばは、すでに28節で登場している。酸いぶどう酒を受けるというのは、救いのみわざを「完了した」しるしであった。「完了した」は「成し遂げられた」と訳しても良い。「完了した」<テレイオー>という動詞は、目的を意味する<テロス>から派生していて、「目的を達成する」ということばである。キリストは「目的を達成した」と言われたのである。十字架は失敗でも敗北でもなかったのである。キリストは目的達成のために、どうしても十字架にかからなければならなかったのである。そして目的を達成し、それを口で表明されたのである。キリストがまことの人となられ、地上で行って来られた一つひとつの事柄は、神のみこころを成し遂げるものであり、救い主としてのキリストの使命を全うするものであった。その使命とは贖いのみわざである。その総仕上げとしての十字架であった。そして万事完了して、すべてを成し遂げて、息を引き取られた。この世的には、キリストは十字架につけられて殺されたという見方しかできない。しかし、目的達成という意味では、自発的な行為であった。キリストはかつて言われた。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」(ヨハネ10章11節)。「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです」(同18節)。キリストは私たちのために自発的にいのちを捨て、すべてを成し遂げ、「完了した」と言ってくださった。キリストは私たちに神の教えを説いただけではなく、本来ならば、私たちが受けなければならない苦しみと裁きを、私たちに代わって、全身全霊で受け止めるべく、十字架に向かわれ、多大な苦しみを味わわれた。そして十字架の上で、ご自身のいのちを贖いの代価として差し出し、私たちを贖う働きを全うしてくださった。

実は「完了した」<テレイオー>には、「支払う」という意味も持ち合わせている。<テレイオー>は税金などを支払うときにも用いられた金銭取引用語の一つであった。キリストは私たちを贖うために支払ってくださったのである。どういうことだろうか。キリストは罪人を「罪の奴隷」として描写した。「「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」(8章34節)。昔、奴隷はお金で売買された。奴隷から自由の身となるには誰かに買い戻してもらう必要があった。自らお金を積んで、奴隷から自由の身となる者もいた。罪の奴隷状態から罪人を贖うためには、すなわち買い戻すためには、どれだけの価が必要だろうか。お金という金属も紙幣も、どんなに積んでも役に立たない。人の汚れたいのちも役に立たない。そこでキリストは、ご自身のきよいいのちをもって私たちを買い戻そうとしてくださった。キリストはご自身のいのちをもって支払いを完了してくださったのである。

ヨハネは、息を引き取られる様を、「霊をお渡しになった」と記している。ルカは、これを十字架上の第七のことばとして記している。「イエスは大声で叫んで、言われた。『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』こう言って、息を引き取られた」(ルカ23章46節)。これは父なる神への信頼の表明である。キリストは信頼をもってご自身の霊を父なる神にゆだね、下に下った。そして、驚くべきことが三日目に起こる。パウロはキリストの復活に関して、父なる神をこう呼んでいる。「キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方」(ローマ8章11節)。よみがえらせた方は父なる神である。私は何を言いたいのだろうか。キリストは十字架上で「完了した」と言われたが、ある方々は、救いのみわざは十字架と復活をもって完了ではないかと言われるわけである。確かにそうである。キリストがただ十字架について終わりであったのなら、私たちの信仰は空しいものでしかない。死人を信じていても救いの希望は生まれて来ない。復活は救いのみわざに欠かすことはできない。けれども、キリストは、十字架につき、息を引き取る前に「完了した」と言われた。なぜだろうか。つまり、キリストに与えられた目的、使命というのは十字架上で完了した、成し遂げられたのである。キリストの復活は、「イエスを死者の中からよみがえらせた方」、すなわち父なる神のお働きなのである。キリストは十字架の上で、ご自身の働きを全うし、後のことは、復活させてくださる父なる神の御手にゆだねきったのである。キリストの贖いのみわざの役割は、確かに十字架上で完了した、全うしたのである。

私たち人間はキリストと違って罪人であり、愚かなので、臨終のことばとして、「思い残すことはない。やるべきことは全部やり遂げた」と言う人はまれである。心残りを口にするか、そういう思いを抱いて息を引き取るケースが多いと言われる。しかし、キリストはそうではなかった。聖書を良く分からない批評家たちは、キリストは自分のなそうとする計画が狂って、十字架で無念の死を遂げたと主張する。けれども、真実はそうではない。十字架で満願の死を遂げられたのである。十字架がなければ私たちの救いはなかった。私たちはキリストの十字架上の第六のことば「完了した」に、「人類の救いのために、キリストが成し遂げられたことに何一つ付け加える必要がないのだ、あの十字架は完全な救いのみわざだったのだ」と安堵感を覚え、感謝が生まれるのである。