本日と来主日は、ヨハネの福音書に記されている、キリストの十字架上のことばを学ぶことになる。キリストの十字架上のことばは七つあるが、ヨハネの福音書においては三つ記されている。十字架上の七つのことばとは、第一、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23章34節)。第二、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ23章43節)。第三、「女の方。そこに、あなたの息子がいます。そこにあなたの母がいます」(ヨハネ19章26,27節)。第四、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章45節)。第五、「わたしは渇く」(ヨハネ19章28節)。第六、「完了した」(ヨハネ19章30節)。第七、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」(ルカ23章46節)。

十字架上の七つのことばは、キリストの最期のことばとして有名となり、世々、語られてきた。十字架上のことばの内容は、とりなしの祈りであったり、ともにつけられた横にいる犯罪人へのことばであったり、十字架の下にいる者へのことばであったり、訴えであったり、ゆだねる祈りであったり、様々である。今朝は十字架上の第三のことばをご一緒に見ることになるが、伝統的には第二のことばとして受け止められてきたことばでもある(現代は第三のことばとして受け止められている)。

25節を見ると、十字架のそばには4人の女性が立っていたことが記されている。「・・・・イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻マリヤとマグダラのマリヤが立っていた」。一般の民が十字架の下に立っていいのだろうかと思うが、そのようなことが許されていた公開処刑であった。「母マリヤ」が立っている。傷だらけ血だらけでうめき苦しむ息子を間近で見上げている母親の心境は、いかばかりのものであっただろうか。胸に突き刺すような悲しみを覚えていただろう。失神してもおかしくないような場面である。残酷な場面によく耐えたと思う。少しでも息子のそばにいてやりたい、いや、そばにいたい、そういう一心の思いであっただろう。

母マリヤとともにいた女性たちについても見ていこう。記述の一番後ろから、「マグダラのマリヤ」「クロパの妻のマリヤ」「母の姉妹」の順で見ていこう。最初は「マグダラのマリヤ」である。参考までにルカ8章1~3節を開いて読んでみよう。キリストの宣教旅行に大勢の婦人たちがお供していたことがわかる。彼女たちは、足を洗ってあげたり、食事を作ったり、洗濯をしたり、キリストの日常生活を助けてきた。旅を支え続けてきた。この女性たちの筆頭に「マグダラのマリヤ」の名前が挙げられている。篤信の女性であるということがわかる。マグダラのマリヤは、他の女性たちとともにキリストの遺体につきそう奉仕もすることになる(20章)(マルコ16章)。こうした女性たちの精神は、現代にまで受け継がれている。多くの女性が目立たない奉仕をささげながら、キリストのからだなる教会に仕えることを通して、キリストに仕えている。なお「マグダラ」とは地名であり、彼女の出身地であろう。

十字架の下にいた女性で、マグダラのマリヤの前には、「クロパの妻のマリヤ」が挙げられている。彼女もマリヤであるが、彼女の場合は夫の名前で区別されている。彼女は、当時、信仰者の間でよく知られていた女性であったのだろう。参考にマタイ27章56節を開いて読んでみよう。クロパの妻マリヤとは、56節の「ヤコブとヨセフとの母マリヤ」である可能性が高いと思われている。

ヨハネの福音書で、十字架の下に立つ女性として、もう一人挙げられていた女性が「母の姉妹」であったが、それがマタイ27章56節に記されている「ゼベダイの子らの母」と思われる。ゼベダイの子とは、使徒ヨハネとヤコブである(ゼベダイの子らの母の名前はマルコ16章1節から「サロメ」であると思われている)。「母の姉妹」の「母」とはイエスの母マリヤであるわけだが、その姉妹がゼベダイの子らの母となれば、キリストとヨハネはいとこ関係にあるということになる。近い親戚関係にあるということになる。これで思い当たる記事が、マタイ20章20節以降に記されているゼベダイ子らの母の「親バカ事件」である。彼女はキリストにひれ伏して頼み込んだ。「私のこの二人の息子が、あなたの御国で、右と左に座れるようにしてください」と。親戚のコネを使って頼み込んだということだろうか。もし母の姉妹がゼベダイの子らの母だとすれば、ヨハネは今、自分の母とともに、また伯母とともに、十字架の下に立っているということになる。

母マリヤ以外の女性たちの考察はここまでとして、次に、母マリヤとヨハネに焦点を絞って見ていこう。十字架上で、キリストの視線は母マリヤと愛する弟子ヨハネに向けられた。そして語られた。「イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に、『女の方。そこに、あなたの息子がいます』と言われた。それからその弟子に、『そこに、あなたの母がいます』と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った」(26,27節)。臨終に際して、キリストは母の身を案じ、愛弟子にゆだねた。簡単に言うと、それだけのことである。けれども、ここにも、私たち信仰者が汲み取らなければならないメッセージがあるように思う。

そもそもなぜ、ヨハネにゆだねたのだろうか。マリヤはこの頃、未亡人になっていたと思われる。世話をする人は必要である。けれども、マリヤにはイエスの他に子どもたちがいたのである。生活の場や食生活は子どもたちが提供できただろう。けれども、ヨハネにゆだねた。ここにポイントがある。ヨハネはキリストといとこ関係にあるとすれば、マリヤはヨハネにとって伯母である。これが事実だとすれば、ヨハネにとってマリヤは肉親ではないけれども伯母ということで、引き取るのは自然といえば自然のようにも思える。けれども、順番から言えば、やはり、実の子どもたちが引き取るべきである。キリストの郷里ナザレで、村人がこう話している。「この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか」(マタイ13章55,56節)。四人の男兄弟、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダがいた。しかし、このキリストの兄弟たちについて、こう言われている。「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである」(ヨハネ7章5節)。キリストは、ご自身を信じていない兄弟たちに母をゆだねることはしなかった。愛弟子ヨハネにゆだねたのである。

十字架上のキリストの念頭にあったのは、新しい家族、神の家族の形成である。救い主を信じる者たちの共同体である。まず、そのためにキリストは十字架につかなければならなかった。十字架について救いのみわざを完了しなければならなかった。キリストは十字架の下にいるヨハネのためにも母マリヤのためにも、十字架の上で贖いの救いのみわざを成し遂げようとされていた。

キリストの呼びかけは「女の方」<ギュナイ>であった。この呼びかけは女性に対して尊敬を表す呼びかけであるが、この呼びかけは、ガリラヤのカナの婚礼の場面ですでに使われている。ヨハネ2章4節にはこうある。「女の方、わたしの時はまだ来ていません」。「わたしの時」とは、十字架の時である。そして、この十字架の時が到来し、再び、「女の方」と語りかけている。そして「そこに、あなたの息子がいます」と、ヨハネに託そうとしている。キリストはマリヤの今後の食生活のことも念頭にあっただろう。また、息子を失い悲しみにくれることを予感して、周囲による心温かい支えが必要であることも分かっていただろう。しかしながら、それだけの理由でヨハネにゆだねたわけではなかった。

キリストの時が来て、キリストが十字架についたことにより、今、マリヤとキリストの関係も新しくされる。つまり、肉の家族関係ではなく、明確に霊の家族関係に入るということである。先ほども述べたように、キリストはマリヤのためにも十字架についた。キリストは十字架の上でマリヤの罪の負債もその身に負い、ご自身のいのちによって償おうとされた。人間的には、マリヤを悲しみにくれさせたくはないと、十字架につかないこともできただろう。また、悲しみの剣を彼女の心から抜き去るために、十字架から降りることもできただろう。けれども、それはマリヤへの真の愛ではない。真の愛は十字架の上でマリヤのためにもいのちを捨てることである。マリヤも一人の罪人である。キリストは十字架につき、世の罪を取り除く神の子羊として犠牲となり、マリヤやヨハネやご自身を信じるすべての者を罪から救い出し、ご自身のいのちの絆で結ばれる新しいコミュニティを築こうとされた。

マリヤとヨハネは新しいコミュニティのシンボルとなっている。キリストの十字架は、神の家族の誕生の起点となった。十字架の下で、新しいコミュニティが築かれるのである。それは、キリストを神の救い主と信じ、神の子どもとされた者たちで構成される新しい共同体、神の家族である。

この十字架の場面で、キリストは十字架の上から家族形成のことばを語られた。「そこに、あなたの息子がいます」「そこに、あなたの母がいます」。このことばにより、十字架の下で、キリストにある新しい家族が生み出されたというのは、意味深い。

この箇所から、マリヤを母なる教会のシンボルと採る解釈もある。ヨハネをはじめキリストを信じた者は、キリストともに一人の母をもつ、すなわち母なる教会をもつ、というわけである。そこまでの読みが許されるかどうかわからないが、マリヤに女神のような不当な地位は与えないようにはしなければならない。初代教会において、マリヤは女神としてあがめられていたという記録はない。マリヤにキリストに次ぐ地位が与えられ、マリヤにとりなしの祈りがささげられていたという記録はない。福音書において、マリヤに関する記録はこれが最後である。そして新約の手紙において、マリヤを崇拝しなさい、あがめなさい、などという命令は一つもない。そうしたことは、古代から続いていた異教の女神崇拝の精神を取り込むことで、まことに不健全である。

先ほど、私は、「この十字架の場面で、十字架の上からキリストは家族形成のことばを語られた。『そこに、あなたの息子がいます』『そこに、あなたの母がいます』。このことばにより、十字架の下で、キリストにある新しい家族が生み出された」、といったことを述べた。キリストは今も、私たちに、「そこに、あなたの息子がいます」「そこに、あなたの母がいます」「そこに、あなたの兄弟がいます」「そこに、あなたの姉妹がいます」と語られているのではないだろうか。私たちはそのことを受けて、十字架の下で互いに兄弟姉妹と呼び合い、神の家族として生きていくのである。

何気ないことばだが、心に留めたいのは、「その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った」という記述である。ヨハネはキリストのことばに服従した。母として引き取った。「いやです、と断った」ではなかった。また、マリヤも従ったのである。従って始めて、神の家族を生きることになるのである。

この神の家族は、キリストの愛によって営まれるものである。マリヤを引き取った一番弟子のヨハネは、キリストの大切な命令を書き留めている。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13章34節)。ヨハネはこれを肝に銘じる弟子となる。ヨハネはさっそく、この十字架刑の瞬間から、この命令を実践するようになる。

私たちも、マリヤやヨハネのように、信仰によって、十字架の下に立とう。そして、十字架の上で血を流し、苦悶しておられるイエスを、救い主キリストとして仰ごう。その時に、先ず、神の子としての特権が十字架の下で与えられる。「しかし、この方を受け入れた人々、その名を信じた人々には神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」(1章12,13節)。神の子どもとされるという、この特権に与った人々で構成されるのが神の家族である。私たちは十字架の下で、神の子どもとされたという特権に喜びを覚えながら、「そこに、あなたの息子がいます」「そこに、あなたの母がいます」「そこに、あなたの兄弟姉妹がいます」という声を聞いていこう。(今日は父の日なので、「そこに、あなたの父がいます」ということも言えるだろう)。私たちは十字架の下で、キリストによって互いに神の家族とされた現実を生きていくように召されているのである。