伝道者は人間のおごり高ぶりに気づいて、人間を獣になぞらえます(18節)。ヒューマニストたちは、人間の力に信頼して、社会の前進、道徳の前進、人間の幸福をはかろうとします。神は必要ではないと言っています。
 ある経済学者たちは、この世界の混乱の原因は、金銭上の不公平にあると推測します。彼らは言います。富の分配によって問題は解決すると。ですが、富の分配をめぐる搾取によって争いは絶えません。人間は欲深いのです。それに聖書は「たとい全世界をもうけても、まことのいのちを損じたら何の得がありましょう」と、幸福の核心をつきます。ある教育家たちは、世界の緊張の原因は知識の欠如にあり、もしすべての人を教育することさえできれば、平和が世界にもたらせると推測します。しかし、教育を受けている先進国で犯罪が多いのはどういうことでしょうか。また、歴史の中に進化論を持ち込む学者たちは、歴史が進めば、この世界はだんだん良くなっていくと推測します。しかし現実はその逆です。キリストも歴史が進んでいけば、世の中、愛が冷えていき、争いのうわさが絶えなくなると警告しています。現代人はコンピューター文明まで築き、自分たちの力、能力を過信し、自分たちを神々の地位にまで高めていますが、獣と等しいという有様に、自分たちの愚かしさに気づかなければなりません。私たちは自分のプライドにしがみついているのはやめ、自分は失敗を犯しやすい者であり、多くの過ちを犯してきたことを、神と人との前に素直に認める者でありたいのです。そうでないと情緒的欠陥をもつようになり、自惚れ人間になってしまいます。
 伝道者が人間を獣になぞらえている理由は他にもあり、それは獣同様に死の支配を受けているということにあります(19,20節)。ピューリッツアー賞を受賞したアーネスト・ベッカーは、その著書の中で、仲間の兵士が隣で死んでいくのを見ている兵士の心理をあばいています。「心底では、人は自分は死ぬとは考えてはいない。彼は自分の隣の兵士を哀れに思っているだけである」。頭では、自分はいつか死ぬとわかっていても、感覚的にはそうではないのです。人はあたかも、自分がいつまでも生きるかのような感覚に捉われているのです。
 結局、伝道者は、人間が神の前に降伏して歩む人生を願っているのです。死は確実に訪れます。与えられた時間、残された時間、神のみこころのうちを歩んでいきましょう。
「聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう』という人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう』。」(ヤコブ4章13~15節)