今日の記事はキリストの十字架刑が確定する場面である。「十字架刑確定」というタイトルも考えたが、ローマ総督ピラトの心の動きに焦点を当てたいと思い、「ピラトの苦悶」とさせていただいた。ピラトは前回見たように、官邸に連行されたキリストを審問したときに、彼は「私は、あの人に罪を認めません」という見解を表明した(18章38節後半)。今日の記事でも、キリストに罪を認めない発言が繰り返される(4,6節)。にもかかわらず、十字架刑を確定させてしまう。

キリストを釈放したいピラトは、前回見たように、最初に、当時の過越の祭りの習わしに従って、一人の囚人の釈放をすることを提案する(18章39~40節)。過越しの祭りの習わしを用いてキリストを釈放しようというピラトの試みは、失敗に終わる。ユダヤ人たちは政治犯の匂いのする強盗バラバの釈放を要求する。

ピラトは次に、死に至らない刑罰をキリストに与え、侮辱し、ユダヤ人たちを満足させようとする(1~5節)。1節で「そこで、ピラトはイエスを捕えて、むち打ちにした」とあるが、他の福音書では十字架刑が確定した後にむち打ちとなっているが、ヨハネの福音書では十字架刑確定前である。この違いについて、次のような解決が可能である。ローマの刑罰には軽いものから重いものまで様々な段階があった。軽い刑罰は、刑罰を与えるとともに、もうこれ以上罪を犯すなよという警告の意味もあった。そして釈放であった。むち打ちも、軽い刑罰と重い刑罰の二種類があったようである。キリストが受けた重い刑罰は、十字架刑確定後に執行されたむち打ちである。それは死に至る者もいたと言われるむち打ちである。ヨハネは、前者の軽い刑罰としてのむち打ちのみを記述したと思われる。キリストはむち打ちの後、いばらの冠をかぶせられ、王侯貴族が着た紫色の着物を着せられる(2節)。いばらのとげは最大30センチの長さがあると言われている。頭部の神経は悲鳴を上げたはずである。そして兵士たちの侮辱行為が待っていた(3節)。茶化して、平手打ちという行為であった。これが済むと、ピラトはユダヤ人たちの前で、「あの人に何の罪も認められない」(4節)と言っている。ピラトは、その後、キリストをユダヤ人たちの前に引き出す。「それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに『さあ、この人です』と言った」(5節)。これには目的があった。キリストに突き付けられた訴状は、「ユダヤ人の王だと自称している」ということであるが、キリストに王の身なりをさせ、侮辱し、懲らしめて、その惨めな様をユダヤ人たちに見せて、「もう、これで十分だろう。釈放してやろうじゃないか」ということであった。だが、これで満足するユダヤ人たちではなかったわけである。

5節で、惨めな姿のキリストを引き出した場面で、ピラトは「さあ、この人です」と言っている。この短いことばは、後に有名になる。このことばのラテン語、「エッケ・ホモ」が有名になる。日本語にすると、「見よ、この人を」。「エッケ・ホモ」という裁判の場面のキリスト教絵画がたくさん描かれることになる。皆さんも目にしているはずである。今、私たちは、「さあ、この人です」と言われたキリストに視線を注ごう。傷つき、血を流し、茨の冠をかぶった惨めな姿がそこにある。紫色の着物はまとっているものの、その人物はユダヤ人たちからすれば、自称ユダヤ人の王でしかない。しかし、事実、ユダヤ人の王であり、すべての人の王であられた。全地であがめられるべき栄光の王であられた。そして、それはまことの人となられたまことの神であられた。だが、このような姿に甘んじられているのは私たちへの愛からであった。神の栄光はこの惨めな姿の下に隠されていた。「さあ、この人です」とピラトが言った時、キリストに目を注いだ人たちは、キリストに神の子としての何かを見ようとしただろうか。キリストに慈しみのまなざしは注いだのだろうか。残念ながら、注いだのは、卑しめるまなざしと、憎しみのまなざしでしかなかった。そして「十字架につけろ。十字架につけろ。」と叫んだ(6節前半)。

ピラトが思いついたなだめの行為、キリストに軽い刑罰を与えて惨めな王の姿で人々の前にさらし、これでユダヤ人たちの怒りをなだめようという作戦は失敗に終わる。しかし、この作戦自体を容認するわけにはいかない。ピラトがキリストに行ったむち打ちと侮辱行為は許されるものではない。それは全くの不敬な行為でしかなかった。ピラトは、ユダヤ人たちの十字架につけようとする意志は強固だと知ると、彼らに向かってこう言い放つ。「ピラトは彼らに言った。『あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人に罪は認めません』」(6節後半)。ここでピラトの複雑な心境を垣間見ることができる。自分が無罪と判断した人物を死罪とまではしたくはない、という気持ちは持ちつつも、「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい」と、無責任な態度を見せている。もう面倒なことにかかわり合いたくない、自分たちで始末しなさい、好きなように処刑しなさい、ということである。

ユダヤ人たちからの応答がある。「ユダヤ人たちは彼に答えた。『私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります』」(7節)。これはレビ記24章16節の「主の御名を冒瀆する者は必ず殺されなければならない」に基づいている(5章18節,10章36節参照)。7節のユダヤ人たちのことばを聞いたピラトの反応は考察を要する。「ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた」(8節)。この「ますます恐れた」という反応をどう理解したらいいのだろうか。ヒントはピラトがローマ人であるということと、ローマ人が「神の子」と聞いて、どう反応するのかということである。当時のローマ人は神的人物を恐れた。徳があり、知恵があり、奇蹟を行う力があるような人物は神々のような存在であると恐れられた。ピラトは「ますます…」と言っているが、「ますます」の前に恐れた事実があったわけである。キリストが官邸に入って来た時に、官邸の空気は変わっただろう。ピラトはキリストに対面した時に、その言い知れない聖なる雰囲気に、先ず恐れを抱き、おいそれと裁いてはいけないと思ったはずである。マタイ27章19節にはピラトの妻に関する興味深い記録が挿入されている。「また、ピラトが裁判の席に着いていたとき、彼の妻が彼のもとに人をやって言わせた。『あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しい目に会いましたから』」。ピラトの妻は、神々の一人のような人物への対処を間違えたら不幸な目に会う、神罰が下る、そのような恐れを抱いたはずである。それで夫に忠告した。このエピソードは時間的にはこの後のことかもしれないが、「神の子」ということばを聞いて、ますます恐れることになった意味を解き明かす一つのカギとなる。「イエスは神々の息子の一人なのか。そうだとしたら、ぞんざいに扱うことはできない。わが身に災いがふりかかることになるから」。ピラトはこの恐れから、官邸に入って、「あなたはどこの人ですか」と聞いている(9節前半)。新改訳2017は「あなたはどこから来たのか」と訳している。つまり、「神の子だというあなたは、どこの世界から来たのですか」と聞きたかったのである。ガリラヤのナザレ出身であることはすでに調べはついていた。出身地そのものを聞きたかったわけではない。キリストはかつてユダヤ人たちに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです」(ヨハネ8章23節)。キリストは天から来られた。キリストはピラトに対して、18章36節で「わたしの国はこの世のものではありません」と、すでに別の表現で答えを与えている。キリストはピラトの審問のたぐいの質問に関して、もう何も答えられない。「しかし、イエスは彼に何の答えもされなかった」(9節後半)。この裁判は裁判とは名ばかりで、ピラトは裁判官としての資質を完全に失っていたので、これ以上答える意味はないからである。また、キリストが裁判官ピラトの前で沈黙していたもう一つの理由は、裁きを完全に父なる神にゆだねていたからである。「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」(イザヤ53章7節)。裁判の真の権威者は父なる神である。このお方の権威を認める時に、罪人の前での沈黙の時が訪れると言えるだろう。

10.11節で、ピラトとキリストの間で、権威についてことばのやり取りがある。キリストがジタバタせず、口を開かないという、被告人としてあり得ない姿に、ピラトは業を煮やし、10節で「私には裁判官として、釈放する権威と、十字架につける権威があることを知らないのか」と、つい口走ってしまう。ピラトは自分の権威を誇り、自分の思うがままにふるまえるように思っているが、彼は自分の権威の出どころを知らなかった。真の権威者は神であることを知らなかった。ピラトこそ、何も知らない。そんな彼を11節でキリストはたしなめる。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたはわたしに対して何の権威もありません」(11節前半)。ピラトの権威は上から与えられている。つまり、その権威は神から与えられているものなのである。だから、権威を正しく行使する責任が彼にはある。彼は神に対して責任を負っているのである。だが今見たように、神の子に侮辱的な罰を与えたり、「あなたがたがこの人を引取り、十字架につけなさい」と責任放棄の発言してみたり、神から与えられた権威を正しく行使しておらず、神の前に罪を犯している。

11節後半の「ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きい罪があるのです」という発言だが、これは二人の裁判官の罪の指摘となっている。一人は、今述べたように、ローマ側の裁判官であるピラトである。彼はキリストを裁く資格など全くない。そして、ピラトよりもっと大きい罪がある者とは、「わたしをあなたに引き渡した者」、この「者」とは単数形なので、ある人物を思い描くことができる。それは、ユダヤ側の裁判官、大祭司カヤパである。カヤパが死刑の判決を下し、ピラトに引き渡した。ここでキリストが、自分を裁く裁判官たちの罪を指摘していることは心に留めたいことである。立場は逆転している。裁判の席で、キリストは裁判官たちの罪を宣告している。カヤパの罪のほうが、もっと大きいと言われているのは、カヤパはキリストの処刑しか頭になく、キリスト殺害計画の首謀者であるのに対して、ピラトはキリストを釈放することを試みる意志が一応あったからである。いずれ二人とも大罪人として歴史に名を遺すことになる。二千年経った今も、二人の罪は語り継がれている。

ピラトはキリストと対話する過程の中で、何一つ罪を認められないどころか、正しい神的人物であるということを覚えさせられるばかりであった。彼はキリストを釈放しようと努力をする(12節前半)。ピラトはユダヤ人たちを説得しようとしたのだろう。けれども、かなわず、最終的に、彼は十字架刑を宣告してしまうことになる。この誤った判決は、ピラトの二つの恐れが絡んでいるだろう。一つは、自分のローマ総督としての地位が失われることへの恐れである。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです」(12節後半)。ユダヤ人たちから、ユダヤ人の王と自称する者を釈放することはローマ皇帝に背くことだ、と糾弾された。ユダヤ人たちがこの件をローマ皇帝に訴えたら、自分の首は飛ぶという恐れである。時の皇帝ティベリオは「疑い深い暴君」と呼ばれていた。自分の味方でないと判断した者は重罪に処す皇帝である。

もう一つの理由は、これに絡んで、ユダヤ人暴動の恐れである。ローマ総督の職務としては、地方に遣わされた官僚として、その地方の安寧秩序を保つということがあるが、今、ユダヤ人の王をめぐって、前代未聞の暴動が起きそうになっていた。彼に、この暴動を治める手腕はなかった。マタイ27章24節にはこうある。「そこで、ピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て・・・」。ピラトの官邸には大勢の群衆が集まっていた。時は、過越しの祭りということで、エルサレムには十万人以上の人々が集まっていただろう。キリストの親派も大勢いたわけだが、サンヘドリンという国家の中枢機関の画策は功を奏し始めていた。サンヘドリンの構成メンバーを輩出するサドカイ派、パリサイ派、またヘロデ党、そしてこうした人たちに傾倒する人たちを全部合わせれば、二万人は下らなかったと思われる。彼らは一般民衆も巻き込んでいっただろう。刻一刻一刻と不穏分子の数は増えていき、エルサレムはサンヘドリン側につく群衆で溢れ返っていった。こうした人数を抑え込む力はピラトにはない。警備のために駐留していたローマ兵は千人もいればいいほうだったかもしれない。シリヤ辺りに援軍を頼んでいた可能性があるかもしれないが、多勢に無勢であることはまちがいない。暴動を治めきれなかったら、それこそローマ皇帝に責任を取らせられることになる。

キリストの死を求める暴徒の群れ、扇動する指導者たち、狂ったように叫ぶ群衆。群衆は揺れ動きながら、「十字架につけよ。十字架につけよ。」と怒号を上げ続ける。ピラトは暴徒を鎮圧するには余りに弱く、傍観するしかなかった。そして「この人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではない」という最後の一押しが効いて、自分の良心に背く決断を下す。ユダヤ人たちの圧力に屈した彼は、ナザレ人イエスに死刑宣告を下すべく、13節にあるように裁判の席に着く。その時刻は14節から金曜日の「第六時ごろ」である。「第六時ごろ」とは、新改訳2017では欄外註で「正午ごろ」と表記している。これは「第六時ごろ」をユダヤ時間と判断した表記である。新改訳第三版までは、他の福音書はユダヤ時間だけれども、ヨハネの福音書だけはローマ時間の可能性が高いという理解であったため、欄外註に「正午ごろ」という表記はなかった。「第六時ごろ」はユダヤ時間と判断すると「正午ごろ」だが、ローマ時間と判断すると「午前6時ごろ」となる。詳細は省くが、すべての福音書をユダヤ時間で判断するのが妥当だろう(共同訳も同じ)。ただし、十字架裁判において、他の福音書との時間のずれの問題は残る。マルコ15章25節を見よ。「彼らがイエスを十字架につけたのは、午前9時であった」。「午前9時」はユダヤ時間から割り出したもので、直訳は欄外註の「第三時」。私たちは、ヨハネの福音書の記載と三時間のずれに気づくわけだが、これに関しては様々言われているが、古代人と現代人の時間認識の違いは知っておく必要はあるだろう。例えば、江戸時代は、現代の二時間を一刻としていた。ユダヤではおよそ三時間を一区切りとしていた。つまり、古代人は時間認識がアバウトであるということである。腕時計を見て、時間を正確に知ろうとする現代人とは違う。辺りを眺めて感で「~時ごろ」と判断する(本題から反れるので、時間に関してはここまでとする)。

14節を見ると、ピラトは判決を宣告する前に、ユダヤ人たちがいやがる皮肉を言うのを忘れていないことがわかる。「さあ、あなたがたの王です」(14節後半)。この皮肉にユダヤ人たちは激怒して狂い叫ぶ。「彼らは激しく叫んだ。『除け。除け。十字架につけろ』(15節a)。ピラトは今一度皮肉を込めて、ユダヤ人たちを思い切り侮辱する思いで、「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか」と言い放つ(15節b)。これを受けてのユダヤ人たちのことばは、ユダヤ人にとっては、神の前で大きな不信仰のことばとなる。「祭司長たちは答えた。『カイザルのほかには、私たちに王はありません』」(15節c)。これは全くの詭弁である。ユダヤ人たちが待ち望んでいた王とは、ダビデのすえから生まれるメシアなる王。彼らにとって王と言えるのは、ダビデの家系から生まれる王でしかなかったはずである。異邦人の王ではありえない。けれども彼らは、「カイザルのほかには、王はありません」と、冒瀆的な発言をしてしまう。ヨハネはこの発言の重大さを示すべく、発言した者たちを「祭司長たち」と明記している。彼らは、神殿に仕え、聖書を聖典とする、ユダヤ教のトップの人たちである。王なるメシアを誰よりも待ち望まなければならない立場の人たちである。にもかかわらず、冒瀆的発言をして、まことの王であるキリストを抹殺しようとした。神さまは、この罪を刈り取らせることになる。このヨハネの福音書が記された頃は、エルサレムの神殿はローマ軍によって攻め滅ばされ、跡形もなくなってしまった。それは明確に、不信仰なユダヤ人たちに対する神の裁きだった。

ピラトは十字架刑を言い渡して、彼はその後、どうなったのだろうか。ピラトはこの後も数年間、ユダヤの総督の地位にあったようである(紀元36年まで)。その後は、伝承では自殺したというものもあれば、彼を任命したローマ皇帝ティベリウスによって処刑されたというものまである。処刑の前に改心したという物語もあるが、真実は定かではない。ピラトの妻の名前はプロクラと言われているが、ギリシャ正教会では、10月28日をピラトの妻プロクラの祭日としている。伝承では彼女は回心したことになっている。真実は定かではないが、彼女が回心した可能性はある。聖書に書いていないことは、これ以上、詮索はやめよう。

今日、私たちは、ピラトの心の揺れ動きを見てきた。ピラトは、記録上は、決して評判のいい総督ではなかった。ユダヤで残酷なこともしたようである。しかしながら、この時、ユダヤの権力筋に圧力をかけられつつも、心に火花のように残っている良心に従い、キリスト・イエスを釈放することを試みる。しかし、固い決意をもってというわけではなく、キリストに対して丁重な扱いをするまでにも至らない。むち打ちと侮辱を許す。また、この男がどうなってしまっても構わない、もう面倒なことにかかわり合いたくない、という思いも顔を出す。しかし、また、キリストは正しい神的人物だから助けないと身に災いが及ぶかもしれないという思いも沸き起こり、二つの選択の板挟みとなる。結果は今見て来た通りである。暴動になりそうな群衆の様子を見て無力感に襲われ、そして、キリストを釈放するならカイザルの味方ではないということばに撃沈し、保身に走り、無責任な裁判で終わってしまうことになる。死刑判決を下してしまう。ユダヤ人たちに対して皮肉を言うのが精いっぱいだった。彼は結局、ユダヤ人たちを恐れ、ローマ皇帝を恐れ、イエス・キリストを見捨てることになってしまうのである。彼は正義の裁判官としての姿勢が中途半端だっただけでなく、キリストに対する姿勢も中途半端だった。中途半端は良くない。中途半端は中途半端で終わらず、必ず悪の力に押し切られることになる。「あの男なんて知らない」と三度否定して裏切ったペテロも私たちは知っているが、ピラトは「あの人には罪を認めません」と三度肯定した事実がある。改めて18章38節,19章4節,6節を見よ。三度も「あの人には罪を認めません」と言っておきながら、それとは矛盾した行為に出た。ペテロに続いて、ピラトも撃沈である。ペテロは悔い改めたが、ピラトはどうだったのだろうか。悔い改めてくれたことを願う。私たちもピラトの人間模様に自分たちを重ね合わせてみなければならない。また、私たちは、ユダヤ人たちのようではなく、「さあ、この人です」と言われたキリストを、恐れ敬う思いをもって正しく見なければならない。そして、「この人こそ救い主です」と、キリストを指し示していきたいと思う。