今日は「勝利」ということを心に留めることになるが、私は個人的には勝利とは縁遠い生活を送ってきた。運動会で一等を獲ったこともなければ、何の試合に出てもひたすら負けた。ゲームもだめ。ジャンケンすら弱い。勝利を味わうという感覚が分からない。しかし聖書は、誰であっても、キリストにありて勝利者になれると言うのである。

さて、キリストの告別説教も山場を迎えた。告別の辞を聞いて弟子たちは悲しんだ。また、キリストの謎めいたことばに困惑してしまった。それが続いている。イエスさまはどこへ行ってしまわれるのだろうかと。以前、弟子たちはこのような疑問をぶつけた。ペテロはこう尋ねている。「シモン・ペテロがイエスに言った。『主よ。どこにおいでになるのですか。』イエスは答えられた。『わたしが行く所に、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます』」(13章36節)。弟子のトマスも尋ねている。「トマスはイエスに言った。『主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう』」(14章5節)。キリストはこの後、ご自分がやがて父なる神のみもとに行くのだということをそれとなく語り続ける。でも、その意味が今一つわからない。弟子たちの頭に、はてなマークがついたままの状態で、キリストは今日の箇所でも謎めいたことばを語られる。「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくすると、わたしを見ます」(16節)。弟子たちの頭に、はてなマークがまたまた点灯し、「しばらく…しばらく…って何のことをおっしゃっているんだ?」と互いに疑問をぶつけ合うことになる(17~18節)。「私たちには主の言われることがわからない」と言うのならば、率直に質問すればよいのに、それをしていない。なぜだろうか。彼らは、もうすぐイエスさまは去ってしまうという認識のもとで、悲しみにくれていたわけである(6節)。悲しみにくれていた状態で、去られた後どうなってしまうのかということを聞くのを恐れるという心境にあったのだろう。キリストは弟子たちの心を察し、19節で、「イエスは、彼らが質問したがっていることを知って、彼らに言われた」と、彼らの疑問に対して応答しているようであるが、よく見ると、「しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる」とはどういう意味なのか、具体的に答えておられないし、「またしばらくするとわたしを見る」の意味についても具体的に答えておられない。なぜ答えられないのか。その理由は12節にある。「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたは、それに耐える力がありません」。続く13節からわかるように、彼らは聖霊の時代を待つ必要があった。すなわち、真理の御霊が来られ、すべての真理に導き入れてくださる日を待ち望む必要があった。

では、「しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる」とは何を意味しているのだろうか。それは、明らかに十字架を示唆している。「しばらく」ということばが、16~19節の間に7回登場するが、原語<ミクロン>は、短い時間を意味し、「間もなく」といった別訳になる。キリストは明日、十字架につけられることになる。そして、「またしばらくするとわたしを見る」は復活を示唆している。しかし、キリストは、十字架も復活もことばにされない。弟子たちは、十字架と復活は父なる神の壮大な贖いの計画に位置づけられるなどと話されても、話についていけないはずである。20章で見ることになるが、弟子たちは、キリストが復活したという情報を得ても信じなかったし、また復活されたキリストを目の前にしても、すぐには信じられなかった。それなら、なおさら、今は無理である。

キリストは、今の時点で具体的なことを話しても理解できないことをご存じであられたので、そのことは口にされず、彼らが悲しみにくれている、その悲しみに焦点を置いて、20節以降、あなたがたの悲しみは今に喜びに変わる、と励まされるのである。告別の悲しみは喜びに変わるというのである。20~24節までのキリストのことばの中に、喜びということばが6回も登場する。20節で、「あなたがたの悲しみは喜びに変わります」という表現があるが、悲しみが喜びに変わるという約束は素敵である。21節ではそれを、生みの苦しみ、陣痛の後の喜びにたとえている。23節では、その喜びは失われないことが言われている。「その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません」(23節後半)。この喜びの実現はキリストが復活する日曜日に実現する。20章20節にそのことが記されている。見てみよう。「こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ」。この時までの辛抱だった。

16章に戻ろう。キリストは23,24節で、聖霊の時代の喜びについても言われている。ここでは、聖霊の時代、キリストの御名による祈りがもたらす喜びを伝えている。「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです」(24節)。「満ち満ちたものとなる」<プレイロー>は、「一杯になる」を意味し、盃に溢れる寸前まで並々と注がれることをイメージしていただいてよい。私たちはキリストの御名で祈るならば、祈りが聞かれ、この喜びに与ることができる。私たちもキリストの御名で祈り、祈りが聞かれる喜びをこれからも体験していこう。

24節までが、今日の前半の区分だが、この区分で知っていただきたい一つのことは、悲しんでいる弟子たちに対して、キリストが喜びを強調していることである。悲しみは喜びに変わる、その喜びを奪い去る者はない、喜びが満ち満ちたものとなる。ご自身が去っていくのに、悲しみが喜びに変わるという、逆転劇を語っておられる。

キリストは今日の記事の後半25節以降では、弟子たちに平安と勇気を与えるメッセージをされている。33節を中心にお話したいのだが、その手前のわかりにくい箇所を説明させていただく。25節でたとえということばが登場している。「これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはや、たとえで話さないで、父についてはっきり告げる時が来ます」。思えば、キリストの講話はたとえ話が多い(29節参照)。たとえ話と言うと、分かりにくいことを分かりやすくするための手法だと思うわけだが、キリストの場合は決してそうではなく、聞く耳のある者にしか真理を悟れないようにするための手段なのである。たとえ話で、わざとわかりにくくする。だから、弟子たちも悟れず、しばし混乱が生じた。けれども、やがて聖霊の時代が来ると、聖霊を通してはっきりと理解できる時が来る。霧が晴れたように、そうなのだ、そうだったのだ、と分かる時が来る。新約聖書という書物は、そのようにはっきり分かった弟子たちが執筆した書物である。ところが29節で、弟子たちは、今すべてが分かったかのように、「ああ、今あなたははっきりとお話になって、何一つたとえ話はなさいません」と、今、すでに自分たちは、はっきりと告げられ、はっきりと分かった物分かりの良い弟子であるかのようなそぶりを見せてしまう。だが、前節の「わたしは世を去って父のみもとに行きます」ということばの意味を理解しているとは思えない。

30節でも、一見すると、立派な告白をしている。「いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちは、あなたがたが神から来られたことを信じます」。弟子たちは、「だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました」と言っているが、弟子たちの、これまでの疑問は解消したのだろうか。弟子たちは、キリストの十字架、復活、昇天を理解したのだろうか。「しばらく」の意味が分かったのだろうか。分かっているとは思えない。にもかかわらず、このような告白ができたのは、「いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで」ということばにカギがある。キリストはいっさいののことをご存じであられる。キリストの19節からのメッセージは、19節冒頭にあるように、「イエスは、彼らが質問したがっていることを知って」始められたのであって、実際に弟子たちからの質問があったわけではない。けれども、キリストはすべてを知る神であられるので、彼らの心を読み取り、先回りして彼らの心のうちにあることに対処しようとされた。彼らが質問として口に出さずとも、キリストはすべてをご存じであられた。彼らの悲しみも十分に理解していた。そして応答してくださった。この小さな体験が、「だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました」という告白になった。また、「これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます」と告白しているが、心を読み取り、すべてを知るという能力は、まさに神のしるし、メシヤのしるしなのだと分かった。彼らの「これで、私たちが神から来られたことを信じます」という告白は、「あなたを神の救い主として信じます」という信仰告白である。

その信仰告白は正しい。ところが、キリストは、弟子たちを誉めようとはなさらない。「イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いやすでに来ています」(31,32節前半)。「あなたがたは今、信じているのですか」。でも、自惚れないように、ということである。信じているわたしをひとり残す時が目の前に来ていると事実をはっきり告げることにより、自分たちが、弱い、未熟な者たちでしかないことを知らしめようとしている。現実に、この日の夜の間に、弟子たちは、キリストを捕縛に来た人たちを目にした時、キリストをひとり残して逃げ去ってしまうことになる。キリストは彼らがご自分から離れてしまうことを予告しているわけだが、彼らを責めているふしはない。彼らが離れ去ることによって、救い主としてのご自分の務めはご破算になってしまうとか、非業の死を遂げて、歴史の闇に葬られることになるといったことも言われていない。父なる神がいっしょにいてくださるから大丈夫だということを語っておられる。「しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです」(32節後半)。こうしてキリストは、あくまでも彼らを励ますことに専念される。

では、今日の中心聖句を味わおう。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(33節)。「あなたがたは、世にあっては患難があります」の「患難」とは、「苦しみ」を意味することばが使われているが、ここでは迫害の苦しみを意味する。ここでのキリストのことばは、二種類のキリスト者たちに語られていると言って良い。一つは、世との摩擦を嫌い、臆病になって引きこもろうとするキリスト者たちに対してである。実際、弟子たちはキリストの十字架の後、臆病になって、部屋に引きこもることになる。「・・・ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。『平安があなたがたにあるように』」(20章19節)。この世で信仰のゆえにくたびれることを経験すると、この世から引きこもって、昔の修道士のような生き方を選択したくもなるだろう。けれども、私たちは、この世に召されている。この喧噪な世界で証するように召されている。引きこもるのではなく、「勇敢でありなさい」と言われている。

もう一つは、33節は、世との摩擦を嫌い、この世に同調しようとするキリスト者たちに対して語られていると言ってよい。ここで言われている「患難」は、この世に同調している時は起きない。キリストに従うときに起きる。世はキリストに従う者を憎む。その結果としての患難である(15章18,19節)。そこで誘惑が来る。この世と調子を合わせてしまおうかと。長いものに巻かれて生きようかと。妥協は楽だと。気がつくと、世の欲を肯定して生きるところまで行きついてしまう。ヨハネは、ヨハネの手紙第一で書いている。「世をも、世にあるものをも愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに、御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものです。世と世の欲は滅び去ります」(2章15~17節)。現代では、世の欲を肯定するご利益的キリスト教が人気を博していることも問題である。こうした世的キリスト教は、自分の欲のために神を利用しようとする教えにすぎない。神から何らかの利益を引き出せればそれでよいのである。しかし真の霊性のあるところに利益という概念はない。私たちはなぜキリストを信じているのだろうか。ご利益信仰のレベルで信じているのではないと言うかもしれない。では、天国に行きたいからだろうか。理由はそれだけだろうか。天国とは、世の欲とは関係はなく、この世が憎むキリストが王として支配する世界である。この世の延長の世界では決してない。そのことを勘違いしているなら、天国に入りたいから信じるというのも、ある意味、ご利益信仰でしかない。私たちがキリストを信じているのは、幸いはこのお方にしかないと信じているからではないだろうか。私たちは、この世を愛するか、キリストを愛するか、どちらを愛するかを試みられている。キリストを愛することを選ぶならば、続く「勇敢でありなさい」ということばに耳を傾けたいと思う。

キリストが「勇敢でありなさい」と私たちを励ますことができるのは、「わたしはすでに世に勝ったからです」という勝利の事実のゆえである。敗戦が確定しているのに、特攻隊員に自爆を命じている上官とは異なる。ここで、キリストが言われている「世」とは何かを整理しておこう。それは悪魔の支配下にある罪の世界のことを指す。この世は罪に支配されている、死に支配されている、悪魔に支配されている。悪魔はキリストによって、「この世を支配する者」と呼ばれている(14章30節、16章11節)。「この世を支配する者」である悪魔と悪魔にコントロールされていた世の勢力はキリストを十字架につけ、滅ぼそうとする。しかしキリストは、十字架と復活により、罪と死と悪魔に対して勝利者となられるのである。そして勝利の御座に上られるのである。それが父のみもとに行くということなのである。「わたしはすでに世に勝ったのです」という宣言は、十字架にかけられる前であったが、勝利は確定していたので、先取りした表現になっている(16章11節参照)。キリストはこの世に対して勝利者である。そしてキリストを信じる者たちも同じく勝利者である。この事実を、ヨハネの手紙第一から見ておこう。第一ヨハネ2章13,14節~「・・・あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。・・・・そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです」。第一ヨハネ5章4,5節~「なぜなら、神によって生まれた者は世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」。4節の「世に勝つからです」の「勝つ」は現在形で、継続の意味がある。つまり私たちは、世に勝ち続けるという勝利の人生を、キリストにありて送り続けることができるというのである。私たちの信じる主イエスは、世に対する勝利者である。だから、続いて、「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です」と、キリストを信じる信仰それ自体が勝利であると言われている。キリストは、罪と死と悪魔を滅ぼした勝利者である。このお方を信じる信仰そのものが勝利なのである。

この世は人生の勝ち組、負け組というようなことを気にする。勝ち組の条件は、有名大学を出ている、有名な大企業に勤めている、年収が多い、結婚して家庭が安定している、友人も多くて、趣味も充実している、貯蓄も多い、そんなところである。人がうらやむような生活を手にしていることが勝ち組ということらしい。詩篇49編20節では、「人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣(家畜)に等しい」という警告があるが、私たちは、いったい、何が本当の勝ち組なのか、聖書を通して確信していたいと思う。信仰をもっているのに、持っていないかのように、みじめ感に浸りうなだれていたり、世の人の反対を恐れてこの世の価値観に迎合したり、世の欲に溺れているだけなら、ただの敗北者である。

弟子たちは、この後、数時間もしないうちに、キリストひとりを残して逃げ去ってしまう。そして、人を恐れて、部屋に閉じこもってしまう。敗残者たちの集まりのようだった。けれども、キリストの復活後、信仰は勝利という、その信仰に立ち、聖霊が与えられ、勇敢な者たちに変えられた。キリストからの平安が、彼らの足を地に着かせた。彼らの多くは殉教したが、敗北者となったのではない。今、彼らは、天にて勝利の冠を頂いているだろう。私たちも弱い者たちである。世の逆風を恐れる。世の欲にも弱い。だからこそ、「キリストは勝利者です」と告白し、堅く信仰に立ち、キリストからの平安と聖霊の助けをいただいて、うつむいていないで、天を仰いで、勝利者らしく歩んで行こう。キリストは言われる。「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである」(黙示録3章21節)。