今日は、もうひとりの助け主、聖霊のこの世に対する働き、「世にその誤りを認めさせる」という働きを中心に学びたいと思う。今日の箇所は「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです」(1節)で始まっている。キリストは「つまずき」について語っている。それはご自身を救い主であると信じる弟子たちが、イエスさまを信じているというのに、何でこんなことが自分の身にふりかかるの?と言って、つまずき、ご自身から離れてしまわないためである。キリストを信じた後に、予想内というよりも、予想外の出来事が起きて、気持ちが折れそうになることがある。15章18~27節では、キリストに従う弟子たちが、この世に憎まれ、迫害に遭うことが言われていた。あらかじめ、こうしたことを告げることによって、何か起こったとき、驚きをもって受け止めてしまうことなく、当然のことして受け止めてほしいわけである。

2~3節では、迫害の内容を具体的に描写している。一つは、ユダヤ教の会堂(シナゴグ)から追放されること。「人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう」(2節前半)。社会的追放である。中世の教会のある地方では、この社会的追放を「白の殉教」と呼んだ。もう一つは、「事実、あなたがたを殺す者がみな」と続くように、殺されてしまうことである。このように血を流して殺されてしまうことを「赤の殉教」と呼ぶことがあった。これが文字通りの殉教である。最初の殉教者は、使徒7章に記されているステパノである。血を流す側は殺人の罪を犯しているにすぎないのだが、2節後半にあるように、「あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分を神に奉仕しているのだと思う時が来ます」である。ユダヤ教のある文献にはこうある。「もし、ある人が邪悪な者の血を流すなら、その人は一つのいけにえを献げたと同じことです」。このように、神に逆らっているとみなされる者を殺すことは神聖な行為として位置づけられてしまっている。イスラム教、その他でも同じような思想が見られる。人を殺すことで神に奉仕していると勘違いしてしまっている。キリストは3節で、「彼らがこういうことを行うのは、父をもわたしをも知らないからです」と真実を語っておられる。神は唯一という正しい知識を持っているからといって、その人が神さまといのちのあるつながりを持っているとは限らない。神さまに逆らったことをしていながら、神に奉仕しているという勘違いほど、悲しいものはない。こうした誤りは聖霊が認めさせることを、キリストは後述する。

弟子たちは、キリストの一連のメッセージで心が悲しみでいっぱいになってしまったようである。「かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています」(6節)。彼らが悲しみに陥った一番の理由は、キリストが何度も、「わたしは去って行く」ということを語って来られたからである。それは十字架と復活を経て、父なる神のみもとに昇られるということなのだが、弟子たちは理解しようもない。

そこで、キリストは、先に14章で語った、もうひとりの助け主である聖霊に弟子たちの心を向けさせようとしている。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします」(7節)。以前にもお話したように、聖霊はキリストの臨在の霊である。聖霊を通してキリストは、からだに制限されることなく、全地で働くことができる。すべての弟子とともにいて、教え、導き、助けることができる。

聖霊は旧約の時代も存在していた。それは旧約の記述を見れば明らかで、創世記1章2節では、「神の霊は水の上を動いていた」とすでに言われている。また、キリストの公生涯のこの時までも、すでに聖霊は働いている。公生涯の始めには、御霊が鳩のように天から下ってキリストにとどまられたことが記されている(1章32節)。また、キリストには御霊が無限に与えられていることが記されている(3章34節)。では、教会時代の聖霊の働きの特徴は何かということだが、個々の信者すべてに働くということがあり、また、その目的は、十字架にかかり、よみがえられた、キリストの栄光を現すということにある(14節)。この時、キリストは十字架にもついておらず、もちろん、よみがえりもなく、キリストによる救いのみわざは完成していない。だから、弟子たちに聖霊が与えられるタイミングとしては、十字架と復活を経た後のことである。

キリストは8~11節において、聖霊のこの世に対する働きを教えている。「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」(8節)とある。「世にその誤りを認めさせる」の「世」とは「世人」と言ってよいだろう。「誤りを認めさせる」<エレンコー>の意味は、「間違いを宣告する、責め立てる」である。世の人々が信じていること、良かれと思ってしていることは間違いが多い。その誤りを認めさせるというのである。9節移行の説明を見ると、どうやら、聖霊は、キリストとの関係において、世にその誤りを認めさせるようである。聖霊が世に誤りを認めさせるものは三つ挙げられている。順次、見ていこう。

第一に、聖霊は罪について誤りを認めさせる。「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです」(9節)。キリストはわたしを信じることが神を信じること、わたしを見た者は神を見たのだということを証してきた。しかしパリサイ人をはじめとするユダヤ人たちは、キリストを預言者とも、救い主とも認めることなく、それどころかキリストを憎み、キリストを地獄に落ちる罪人とまでみなした。そして十字架刑に追いやった。しかし事実は、キリストにはひとつの罪もなかった。それどころか、キリストは神ご自身だった。神を信じない、拒むということが罪の本質である。彼らはキリストを拒んだことによって、神を拒む者たちであることが明らかにされた。ユダヤ人たちは神を信じ敬っているように見えて、事実は、まったくそうではなかったことが、キリストを信じないことによって明らかになった。彼らは神を憎んでいた。15章23節を見ると、キリストは、「わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいるのです」(15章23節)と言われている。神を憎んでいるという自覚は彼らになかったかもしれない。しかし、キリストへの態度でそれは明らかになった。彼らは光を嫌い、闇の中に、罪の中にとどまろうとしていた。8章でキリストは、ご自身を信じない彼らを、罪の奴隷だと責め立てた。同じように聖霊は、キリストを信じようとしないこの世に対して、罪について誤りを認めさせる。

第二に、聖霊は義について誤りを認めさせる。「また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたはもはや、わたしを見なくなるからです」(10節)。どういうことだろうか。この世はキリストを断罪し、十字架につけた。キリストは不義ある者とみなされたのである。しかし、キリストが不義ある者でなかったことは、復活とそれに続く昇天により証明された。「父のもとに行き」が昇天である。父なる神はキリストを御座に引き上げ、キリストは正しい方、義なる方であることを明らかにされた。十字架刑に服するのは極悪人とされていた。十字架刑に服するのは、不義に満ちているからであり、よみの深みに投げ込まれ、そこで永遠に苦しむ運命にあると考えられていた。ところがキリストはよみがえり、天に昇り、栄光の御座に着かれたのである。それはキリストが義であられることの証明である。不義はキリストを十字架につけたこの世の側にある。使徒の働き2章は、聖霊が義について誤りを認めさせた事例が記されている。ペンテコステの日、ペテロは群衆に対してメッセージを語った。彼のメッセージのポイントは、明らかに、復活と神の右の座に上げられた昇天だった。キリストは十字架につけられて終わりではなく、よみがえり、神の右の座に上げられたと。キリストは神の右の座から聖霊を注がれたのだと。ペテロはキリストの昇天を強調して、キリストの義を明らかにした後に、「神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」(2章36節)と彼らの不義を責めた。結果、数千人が悔い改めに導かれている。聖霊はこの世に対して、キリストとの関係において、義について誤りを認めさせる。

第三に、聖霊はさばきについて誤りを認めさせる。「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからである」(11節)。世のキリストへの裁きは完全に間違っていた。無実の、しかもまことの人となられたまことの神を死刑に定めるという狂った裁判は、人類史上、後にも先にもない。しかし、ここに驚くべき事実が記されている。この世はキリストを十字架につけて裁いた。しかし、裁かれたのは、「この世を支配する者」、すなわち悪魔であったというのである(12章31節、14章30節)。キリストを十字架につけようとする世人の背後には悪魔がいた。悪魔がキリストを十字架につけるように人々を扇動した。しかし十字架で断罪されたのは悪魔のほうであった。11節では、この世を支配する者、すなわち悪魔が「さばかれた」と、裁きが完了したかたちで言われているが、実際裁かれるのはこの後の十字架の場面であるが、悪魔への裁きはすでに確定しており、動かないものであったので、ここで「さばかれた」と先取りした表現になっている。たとえば最高裁で死刑判決が言い渡された者は、確実に死刑であり、もう死刑になったようなもの。私たちは、十字架と聞くと、そこでキリストが裁きを受けた、断罪されたとだけ考えがちである。しかし、十字架には両面がある。この世は神を断罪する。神はいらないと言わんばかりに。それがあの十字架である。けれども神は、十字架において、この世を支配する者である悪魔とこの世を断罪した。この世を断罪したということは、私たちは本来、十字架につかなければならない罪人であるということである。神は、「私は本来、十字架で裁かれなければならなかった罪人である」と素直に認める者の罪を赦し、義と認め、救いを与えてくださるのである。

後半は、現代の罪と義とさばきについての誤りを見てみよう。まず罪についてだが、そもそも現代は、罪そのものを認めない傾向にある。現代の心理学者、宗教家のほとんどが、人間の本質は善であると信じている。そのため、人に問題があっても、適切な環境を整え、プレッシャーを適度に調節し、また周囲の人々との関係に気をつけるように教え込むならば、人間のうちに備わっている善が現れてくると考えている。けれども聖書は、人は生まれながらにして罪人であると教えている。近年のセラピー(精神療法)は、罪を罪としないために、人が罪を抱えたまま生きていくことを助けることに努めている。しかし聖霊は神の前の罪の現実性をしっかり認めさせ、悔い改めて神に立ち返るように導く。

ある女性が怒りを胸に秘め、クリスチャンのカウンセラーのもとにやってきた。相談というのはこうである。彼女の夫は朝仕事に出かける前に、お昼の12時に昼食のために戻って来ると言った。彼女は美味しい昼食を準備し、美しくテーブルセッティングをし、自らも化粧し、素敵な洋服に着替え、後は夫の帰りを待つだけだった。ところが、約束の時間を過ぎても帰って来ない。腹が立った。用意していたスープも冷めていった。彼女はだんだん怒りが増していった。すると、夫から電話が入った。遅れてしまったけれども今すぐ帰るということだった。ただし、友だちも連れて来るとのこと。彼女はもう一人分の食器を出して、冷めたスープは電子レンジで温めた。夫は友達を連れて帰ってきた。そこまでは良かったが、お客はスープは好きではないと口にした。彼女はまた腹が立った。とどめは、夫は温めすぎたスープを一口の飲むと、「ああ、どうしてこんなに熱くしたんだ」、そして友達に「さあ、行こう」と声を掛け、彼女を残して出て行ってしまった。彼女の怒りは頂点に達することになる。クリスチャンカウンセラーはこの問題をどう解決しようとしたのだろうか。そのカウンセラーは次のように述べている。「この女性の怒りは何の役にも立っていませんでした。・・・私はこの夫を弁護しているわけではありません。彼の取った行動は間違いでした。私たちは皆、思いやりのない軽率な人々と付き合わなければならない時があります。・・・彼女に必要だったのは、その状態がら抜け出すことのできる道を教えてもらうことでした。彼女はただ自分の夫がどれほどひどいことをしたのかを並べ立てたかっただけです。けれども自分がどれほど間違っていたかに気づくことが必要でした。もちろん、夫のほうも悪かったのですが、しかし、彼女の惨めな気持ちというのは夫の行動が原因ではありませんでした。彼女の問題は彼女の心の中にあったのです。夫のとった行動は、彼女の心の中にあった激しい怒りというものの引き金を引いたにすぎませんでした」。私たちは相手が悪いと思うから腹が立つし、恨んだりする。相手の意地悪、不親切に原因があるんだと。私たちは周囲の言動に原因があると思い込んでしまうが、けれども真の問題はその人自身の心の中にある。引っ込まない怒り、恨みは罪である。それが神との関係を破壊し、その罪が不幸の原因となる。

気難しい上司に対して敵対感情をもっていた人がいた。彼は、上司の気難しい性格に問題がある、で押し通すことはしなかった。彼は自分の心と向き合い、上司に対する自分の憎しみ、怒りを罪と認めた。また、自分のうちには上司を赦したり、親切にしたりする徳もないことを認めた。彼はある日、心を注ぎだして神に助けを求めた。その日のこと、彼はその上司に怒鳴りつけられた。いつもだったら反抗心からむらむらっと湧き上がるのに、不思議と心は平静で、気がついたら上司に優しく接していたという。彼は自分の罪と正しく戦っていなかったなら、自分の心の状態を上司に責任転嫁して終わっていたことだろう。

次に、現代の義の誤りについて少し触れよう。現代の義の基準ははなはだ怪しい。現代は善と悪を対峙させることはせず、何でも許されるという方向に向かっている。善悪二元論ではなく、善悪一元化。つまり、善と悪の明確な区別を消す。そして人間の欲望を許容するようになっている。突き進むと、ソドムとゴモラのような世界になる。なりつつある。聖書における義の基準は厳しいので、嫌われている。

最後に、現代のさばきの誤りであるが、現代はさばきそのものを消し去る傾向にある。聖書は「罪から来る報酬は死です(死のさばきです)」(ローマ6章23節)と、罪には死のさばきがあることを明確に告げている。その死のさばきとは、肉体の死とともに、第二の死、すなわち永遠の滅びである。ところが多くの諸宗教が、またキリスト教の異端でも、このさばきを否定するものが多い。例えば、神道系の宗教は、さばかれなければならない罪の存在を認めない。また、この前、あるキリスト教の異端について調べる機会があったが、キリストを信じていなくとも、他の宗教を信じている人でも、誰でもかれでも、さばかれることなく救われると教えていた。私たちは一つの罪でも、その人を地獄に追いやるに十分だと認めなければならない。罪に対するさばきはある。キリストの十字架は、そのことを示している。キリストはあの十字架で世の罪のためにさばかれた。私たちの罪の身代わりとしてさばかれた。この事実を謙遜に信じるとき、その人に対するさばきは終了したものとみなされる。そして、永遠の滅びではなく永遠のいのちを受けるのである。

この世の罪、義、さばきの意味するところは、聖書のそれとかなり違っている。その違いというか誤りを認めさせるのが聖霊の働きである。以前、NHKで、ある著名な医師が良い医者の条件ということを語っていた。それは真実を語るということ。悪性腫瘍のことなども。それは残された人生をより良く生きてもらうためだそうである。患者の様子を見ながら、ストレートに語っていい場合は語るし、場合によっては小出しにしながら、相手に気づいてもらうようにして語っていくというのである。罪の指摘や義、さばきについて語ることもそうでないだろうか。私たちは聖霊とともに、聖霊の助けをいただきながら、罪について、義について、さばきにつて、この世に語っていく責任があるだろう。また、具体的な個々の事例について、聖霊が著者であるみことばから判断を仰いでいきたいと思う。13節において、「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたを真理に導き入れます」とある。聖書は、真理の御霊が弟子に書かしめたものである。よって、聖書信仰に立って、みことばに依拠することである。みことばによって、この世が罪、義、さばきについて語っていることを、正しく判別していきたいと思う。