今日の箇所は、キリストの祈りのことばが記されている貴重な箇所である。13章31節から始まったキリストの告別説教の最後の記事ともなっている。新約聖書にはキリストが祈られたことを記す箇所は幾つかあるが、キリストの祈りのことばそのものが記されている箇所は多くはない。聖書のどこにキリストの祈りのことばが記されているのかということだが、今日の箇所以外に、ゲッセマネの園での祈りと主の祈りくらいしかないと言われたりするが、父なる神への呼びかけを祈りと理解するときに、福音書で何箇所か見ることができる。しかし、どれも短い。今日の箇所の前では、12章28節にある。「父よ。御名の栄光を現してください」。また、十字架上の七つのことばを観察すると、父なる神への呼びかけが三つあり、そのうちの一つは、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23章34節)と、とりなしの祈りとなっている。いずれにしろ、どれも短い祈りのことばであり、一章を費やしての長い祈りは、新約聖書中、ここだけである。だから、キリストの祈りを知る上で、貴重な箇所である。しかし、なぜか、新約聖書の中で有名なみことばをピックアップしてくださいというときに、ヨハネの福音書17章から取り上げられることは先ずない。また、あなたの好きなみことばはどこですかという質問に対して、この17章から選ぶ人も余りいない。個人的には3節のことばが気に入っている。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです」。永遠のいのちを求めている人は、このみことばと真剣に向き合っていただきたいと思う。実際のキリストの祈りを観察すると、わかりやすい表現のように見えて、深遠な祈りという印象を持つ。よって、親しみやすい祈りというのではない。ある種の高尚さを感じる。いずれにしろ、キリストの祈りを読むことができるというのは、何にも代えられない恵みである。キリストはこれらを、ことばに出して祈ってくださったので、私たちは読むことができる。しかも、こんな貴重な祈りをただで読むことができる。この祈りは5世紀頃から「大祭司の祈り」と言われているようになったが、そう言われる所以は、神と人との間に立ったとりなしが、祈りの中心になっているからである。この祈りは三部構成となっている。

第一部は、神の栄光を現すための祈りである(1~5節)。キリストが目を天に向けて話された第一声は「父よ。時が来ました」である(1節)。そして栄光について語られる。ヨハネの福音書では、「時」ということばが、これまでにも繰り返し使われ、一つのキーワードになっている。最初に「時」ということばが登場していたのは、キリストがマリヤに対話されたことばで、「女の方。わたしの時はまだ来ていません」(2章4節後半)。この「時」とは、十字架につくということが強く意識されている時であるということである。だから、十字架刑を直前にして、「父よ。時が来ました」と言っておられる。そして、私たちは、キリストのことばから、人間には惨めにしか見えない、恥辱にしかすぎない十字架刑も、神の栄光を現す手段なのだと知る。「あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください」(1節後半)。子の栄光を現すことが御父の栄光となる。二つの栄光は一つである。そして、この栄光のためにキリストは十字架に向かう。ヨハネの福音書では十字架と栄光が直結している。バッハの大作として知られている受難曲に、マタイ受難曲とヨハネ受難曲がある。ヨハネ受難曲の歌詞は、十字架と栄光という、ヨハネの福音書の特徴を反映している。受難曲の冒頭で、キリストの栄光が歌われるが、その歌詞は受難を通してのキリストの栄光である。

 

主よ、私たちの支配者である主よ! あなたの栄光が全地に満ちています。

あなたの受難を通して、お示し下さい。 まことの神の子であるあなたが、

あらゆる時に、 辱めのどん底の時でも、 父なる神によって栄光を与えられたことを!

 

十字架という受難は栄光の場であったのである。キリストは4節において、「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」と語っておられる。十字架にまだかかっておられなかったが、「わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」と、すでに受難を全うすることを確信しておられる。受難を通して栄光を現すことを確信しておられる。それは大きな犠牲を伴うものだった。それはこの世のナルシシストが求める自己栄光とは全く異なる。キリストはこの世の栄光は全く求めていない。だからこそ、恥辱と苦しみに満ちた十字架の道を迷うことなく選択された。それが神の栄光を現す道だったからである。この十字架のみわざは、2,3節で言われているように、私たちに永遠のいのちを与えるためのみわざだった。

私たちクリスチャンの人生も神の栄光のためにあるが、見た目にかっこいい人生が神の栄光を現すとは限らない。ただ、ひたすらに、みこころに服従しようとするその姿勢が大切なのだと知る。私たちもやがて、「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」(4節)と告白できる者たちでありたい。

第二部は、弟子たちのための祈りである(6~19節)。キリストは先ず6~8節において、弟子たちに神の御名を明らかにしたこと、すなわち弟子たちに神のみことばを与えたことを話しておられる。みことばを与えた目的は、8節で言われているように、イエスさまが神から遣わされた救い主キリストであると信じるためだった。そして彼らは信じた。「それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれらを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました」(8節)。キリストの取り巻きの多くの者がキリストから離れ去っていったが、彼らはキリストを信じた少数の者たちだった。キリストは9節にあるように、「わたしは彼らのためにお願いします」と、とりなし始める。キリストは10節で、弟子たちを高く買った表現をしていることに気づく。「わたしは彼らによって栄光を受けました」という発言は、弟子たちの行動を振り返るときに、謙遜な言い回しに思えてしまう。この第二部の祈りで、キリストは、「私の弟子たちはおバカさんで、物分かりが悪くて、しかも、この後すぐ、弱さから、わたしを見捨てて散り散りになって逃げてしまうんですよ、やれやれです」といった祈りはしていない。弟子たちの愚かさ、弱さを口にしておられない。そんなことは最初からわかっておられる。キリストは弟子たちについて、「あなたがわたしに下さったもの」ということを繰り返し語っておられる(6,9,10節)。キリストは、「あなたがわたしに下さったものはろくでもないです。お返ししますよ。もっとまともなものを下さい」とは言われていない。キリストは10章の羊のたとえで、信じるものたちを愚かで弱い羊にたとえた上で、「わたしのもの」という表現をとっている。「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています」(10章14節)。ほんとうに羊は愚かで弱い。そんなことは自明の理である。だから羊にたとえている。羊は羊でしかない。羊は愚かで弱くとも、羊飼いにとっては大切でかわいい「わたしのもの」であるわけである。羊飼いは羊のために命まで捨て、羊を守ろうとする。その羊飼いの心で祈っておられる。「大祭司の祈り」と言われているけれども、「羊飼いの祈り」という表現を取りたいくらいである。本当にお優しい心で祈っておられる。

羊のほうはと言うと、羊は愚かで弱くとも、自分の羊飼いが誰であるかわからないほど愚かではない。10章でお話したように、最低、自分の羊飼いが誰であるかは認識できる。自分の羊飼いの声を識別できる。「彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると、羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます」(10章4節)。弟子たちは、羊のように愚かで弱いけれども、キリストという羊飼いの声を聞き分けてきた。すなわち、みことばを通して、キリストを信じ、従ってきた。キリストは彼らのその姿勢を認めているのである。それが、「わたしは彼らによって栄光を受けました」という表現になったのである。

キリストはもうすぐ地上を去ってしまう。そこでキリストは、弟子たちのために三つのことを願い求めている。それを順次見て行こう。第一に、御名の中に保ってください(11~13節)。11節中頃に「聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください」とあるが、これは、彼らが滅びることなく、またバラバラになることもなく、守られて、共に神のいのちを生きることである。10章の羊のたとえで言うと、囲いの中にいて守られることである。

第二に、悪い者から守ってください(14~16節)。15節の「悪い者から守ってくださるように」の「悪い者」とは悪魔のことである。悪魔は弟子たちの信仰をつぶそうとする。そのことを意識しておられる。私たちは、主の祈りで、「試みに会わせず、悪から(悪い者から)お救いください」と祈るように教えられている。10章の羊のたとえで言うと、羊を狙う盗人、強盗、狼が存在しているので、それらから守られる必要があるということである。パウロはエペソ教会の長老たちに対して「狂暴な狼」という表現を使って、群れ全体に気を配るように、目をさましているようにと、注意を喚起している(使徒20章28~31節)。狼と言っても、羊の皮をかぶった狼ということかもしれない。羊は愚かで弱いので、悪い者からの守りが必要である。よく見ると、15節で、「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく」と言われている。私たちは、世との戦いでくたびれてくると、エリヤが祈ったように、「主よ。もう十分です。私のいのちを取って下さい」(第一列王19章4節)と祈りたくなる。だが、悪からの守りのほうが重視されている。この世でもうちょっと頑張って、神さまのための御用を果たしなさい、ということである。

第三に、真理によって聖め別ってください(17~19節)。「真理」とは、みことばである。「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です」(17節)。真理のみことばが私たちの信仰生活の土台である。「聖め別つ」<ハギアゾー>ということばについて説明しておこう。このことばの意味は「取り分ける」である。このことばは、人にも、キリストにも、父なる神にも使用されることばである。

<ハギアゾー>が人に対して適用される場合は、神さまの御用のために、この世から神さまの側に取り分けることを意味する。私たちクリスチャンの立場は、神さまの御用のために、この世から取り出され、神さまの側に取り分けられているということである。そして、神さまのもとから世に遣わされているということである(18節)。私たちは、神さまの御用のために、この世から神さまの側に取り分けられ、この世に遣わされている。世に遣わされた私たちの責任は、真理のみことばによって、自らをしっかりと神さまの側に立たせるということである。この世が何を言っているか、それに従うのではなくて、真理のみことばに従うということである。キリストご自身も、そのことを願って、ここで祈っておられる。

19節の「わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます」という不思議な表現にも目を留めよう。これはキリストがご自身を聖別するという宣言であるが、このような宣言はここ一箇所だけである。しかし、ご自身を聖別するとはどういうことだろうか。キリストは私たちと違って十分に聖め別っていて、最初から神さまの側に立っていて、これ以上、何を聖め別つのだろうかと思う私たちである。この聖別は、「彼らのため」という目的があることからすると、ヨハネの福音書の前後の流れから、十字架の上に自らを献げます、という決意表明に他ならない。十字架の祭壇にご自身を奉献するという決意である。このような貴い祈りを、主はささげてくださったのである。

<ハギアゾー>が父なる神に適用される場合もある。その場合、神をすべてのものから取り分けて、特別なものにする、ということになる。マタイ6章の主の祈りにおいて、<ハギアゾー>が使用されている。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように」(9節)の「あがめられますように」が<ハギアゾー>である。新改訳2017では「御名が聖なるものとされますように」と訳している。「御名をあがめる」とは、<ハギアゾー>の用法からわかるように、神さまをすべてのものから取り分けて、このお方だけを特別なものにする、ということなのである。他の神々や人間といっしょにされたら困るのである。

第三部は、世人が信じるための祈りである(20~26節)。最後の区分は、「教会のための祈り」というタイトルがつけられることが一般的だが、良く見ると、「世が信じるためなのです」(21節後半)、「この世が知るためです」(23節後半)と、弟子たちによって世人が信じるようになることが意識されている。キリストは10章の羊のたとえで、「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、一つの牧者となるのです」(16節)と言われている。キリストは、この世でさ迷っている、まだ囲いに属していない羊のことをも気にかけておられる。では、どのようにしたら世人が信じるようになるのだろうか。それは弟子たちが一つになることである(21,22,23節)。この一つとなることが宣教の土台なのだと言う。宣教の方策ということが語られることが多いが、キリストは、私たちが一つになることを重視しておられる。そこで、どういう意味での「一つ」ということなのかが問われる。この一致を三つのことばで説明させていただく。

この一致とは、第一に、霊的な一致である。とりあえず、形や組織が一つになってしまえばいいということではないようである。21節前半で、「父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らが一つとなるためです」とある。「あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように」と、御父と御子の深い交わりに似た霊的一致の願いである。続いて21節の中頃で、「また、彼らも私たちにおるようになるためです」とある。ヨハネは第一ヨハネ1章2節で、「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」と語っているが、このような霊的交わりに招かれているということである。つまり、私たちクリスチャンの相互の交わりというのは、神との交わり、キリストを行き交し合う交わりであるということである。目に見えるところは人同士の交わりにすぎないが、神とも交わっている、キリストとも交わっているという交わり。お茶を味わうことも嬉しいが、霊的味わいを味わうことが、クリスチャンの交わりとなる。「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」これが、「彼らも私たちにおるようになるためです」の実現である。こうした交わりが霊的一致を証している。

このような霊的一致は、第二に、真理による一致である。先にキリストは17節で言われた。「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です」。霊的一致とは、真理による一致である。真理のみことばを真理のみことばとしているのか。キリストに関する真理をすべて信じているのか。聖書に平然と誤りを認め、キリストについての真理を損なう人たちと一つになることが、ここでの一致ではない。真理に偽りを混ぜることは許されない。世界規模のキリスト教団体の一つに世界教会協議会(WCC)がある。エキュメニカル運動と言って、教会の一致運動を行っている。プロテスタントの一部や聖公会、ギリシャ正教などが加盟し、カトリックはオブザーバーとなっている。聖書信仰を持たないグループの一致運動である。カトリックもエキュメニカル運動を積極的に推進している。彼らは活動の根拠の一つとして、このヨハネ17章の祈りを挙げている。しかし、彼らの説く一致は、キリストが説く一致とは異なっている。偽りの混入を許しているからである。金魚が入っている金魚鉢に一滴の毒を入れたらどうなるだろうか。一滴ぐらいなら、とはならない。その一滴が金魚鉢全体の水を毒し、金魚が死んでしまうからである。私たちの場合は、聖書信仰に立った一致、すなわち、真理による一致でなければならない。

そしてこの一致とは、第三に、愛による一致である。26節で言われている。「そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたが愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです」。一致はキリストにあって互いに愛し合うということで表される。そこにキリストの臨在がある。この姿が世への証となる。キリストは先に言われた。「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(13章35節)。

今日はキリストの祈りを学んできたが、祈りの最後のことばは、ご自身の臨在の言及で終わっている。「わたしが彼らの中にいるためです」と、私たちの中におられることを願っていることがわかる。キリストの告別説教の区分は本日の箇所までだが、告別を語りつつ、告別とは反対の「わたしが彼らの中にいるため」ということばで終わっている。キリストは聖霊を通して、信じる者たちの中にいてくださる。私たちも、この主の臨在を慕い求めているだろうか。「地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。」「私にとっては、あなたの近くにいることが、しあわせなのです」(詩篇73編後半参照)と。また、このような主の臨在がある交わりを願っているだろうか。そのために私たちに願われていることは、一つになることである。そのためには、私たちは真理のみことばを尊びたいと思う。また互いに、神の愛、キリストの愛を生きることに努めたいと思う。これらのことを通し、主なる神の臨在はその群れに浸透し、現され、主は世に証されることになるのである。