「憎まれっ子世に憚る」という有名なことわざがある。憎まれるような人ほど、世にあって幅をきかせる、というわけである。別の言い方をすると、この世において受けの悪い人こそが、かえって世に影響を与えて成功する、というわけである。キリストというお方は、貧しい民衆には愛されたが、エリート層には憎まれた。その憎しみはユダヤ中に広がった。憎まれすぎて殺されてしまった。けれども、良い意味で、キリストは今も多大な影響を世に与え続けている。

前回は、キリストが私たちのことを友と呼んで愛してくださること、そして互いに愛し合わなければならないことを見た。ところが、今日の箇所は、この世には愛されないこと、憎まれることが書いてある。17節までは「愛」「愛する」ということばが8回登場しているが、今日の区分では「憎む」ということばが7回も登場している。愛から憎しみにテーマが移っている。キリストはこの世から憎まれ、キリストの弟子も憎まれるというのである。それは属している世界が違うから、というのがキリストの見方である。今日は、今から、世にあるクリスチャンのあり方ということで、四つのことを見ていこう。

まず第一に、キリストはこの世のものではないことを見よう。「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい」(18節)。キリストはなぜ憎まれるのだろうか。ある人たちは傲慢で、傲慢のゆえに憎まれるということが起きる。しかし、キリストは傲慢であっただろうか。その反対であった。天から下り、民衆と同じ目線で歩まれ、民衆に仕え、この日は弟子の足を洗うという奴隷のような奉仕をされ、そして、この後、奴隷や極悪人の刑罰である十字架刑に服し、私たちの身代わりとなって命を捨てられる。キリストは謙遜の極みだった。ある人たちは自己中心のゆえに憎まれることが起きる。キリストは自己中心であっただろうか。キリストは枕するところもないほどに、献身的に民衆に仕えた。そして十字架の上でご自分のいのちを捨てるほどに無私の愛を示されることになる。ある人たちは偽善的であるゆえに憎まれることが起きる。キリストは偽善的であっただろうか。その反対であり、偽善の罪は一番重いと言わんばかりに偽善を糾弾された。なのに、どうしてキリストは憎まれたのだろうか。大元の理由は、キリストはこの世のものではないということである。以前学んだ、8章23節を読んでみよう。「それでイエスは彼らに言われた。『あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません』」。キリストは、「わたしはこの世のものではありません」と言明している。また「下から・・・上から」という表現を使っている。ここを読むだけで、水と油の関係を思わせる。「下から」とは以前に説明したように、「堕落したこの世界から」ということであり、「神に反逆する世界から」とも言えよう。「上から」とは「天の御国から」である。「父なる神のみもとから」とも言えよう。下と上では価値観が反り合わない。

キリストはご自身の価値観を、ことばとわざで示された(22,24節)。キリストのことばとわざは、人の罪をえぐりだし、浮き彫りにする。人の罪を映し出す。それをされると人は頭に来る。ここで、興味深いお話をしよう。鏡のお話である。昔、ある宣教師がアフリカの奥地で開拓宣教していた時のことであった。宣教師の所在地にアフリカ人の女性が訪ねてきた。その宣教師の家の外にある木には、鏡がかかっていた。彼女はその鏡をちらっと覗き込んだ。鏡を見るのは初体験である。彼女は自分の顔を見て、飛び上がらんばかりに驚いた。顔に塗りたくったぞっとするような模様と、恐ろしい容貌に驚愕した。しかし彼女は、それが自分の顔であると分からなかった。彼女は宣教師に尋ねた。「その恐ろしい人は誰ですか?」宣教師は答えた。「ガラスがあなたの顔を映し出しているのですよ」。彼女はその鏡を自分の手に取ってみるまで、信じることができなかった。彼女は事実をようやく飲み込んだ時、宣教師に言った。「そのガラスをわたしに下さい。いくら出せばそれを売ってくれますか?」宣教師は売りたくなかったが、彼女が強くせがむので、争いごとになるのを避けるため、しまいには売った。彼女はその鏡を取ると、思わぬ言動に出た。まず、かみつくようにこう言った。「もう二度と、こいつにわたしの顔を造らせない」。そう言うと、その鏡を投げ捨て、砕いてしまった。彼女は自分の着色した顔を憎んだのではなく、それを映した鏡のほうを憎んだ。これと同じことが、人々の罪を映し出したキリストに起こった。つまりキリストは、憎まれ、砕かれた鏡と同じようになられたということである。

第二に、弟子はこの世のものでないことを見よう。「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです」(19節)。キリストの弟子は、この世ではなく、天の御国に属している。よって天の御国の価値観で生きる。この世の価値観で生きない。当然のことながら人と違った言動が生まれる。それを違和感をもって受け止められるわけである。自分と異なった人々を怪しむこと自体は、良くあることである。こうもり傘を例に挙げよう。こうもり傘は、今や世界でありふれたものの一つである。こうもり傘を差しているのを見て、不審に思う人はいない。イギリスでのこと、ヨハン・ハンウェイという人が、こうもり傘を紹介しようとして、それを差して歩いていた時、彼は石や泥を投げつけられたという。これからもわかるように、それが良いか悪いかではなく、ふつうの人と異なっている人、違ったかっこうをしている人、変わった考えを持っている人は、自動的に怪しまれる。動物の世界でも、次のような事例がある。羽の色の異なった一羽のめんどりを、羽の色がみな同じ色のめんどりの小屋に入れると、羽の色の違うものは、みんなにつつかれて死んでしまうという話がある。これと同じことが人間の世界でも起きる。この世は、型にはめるのが好きである。一般的である慣習に従わない者は、当然怪しまれる。

20節に「迫害」ということばがあるが、キリスト教がローマ帝国の国教となる4世紀まで、クリスチャンたちは大きな迫害を受けた。政府は皇帝礼拝を住民に押し付けた。住民は皇帝にひとつまみの香を焚き、「皇帝は主である」と言えば、どこへでも行って、好きな神を拝むことができた。だがそれがまさに、クリスチャンたちがしたくないことであった。国の決まりに従わないクリスチャンたちは、かたくなな者とされ、その慣習は難癖をつけられ、あることないことを言われ、迫害を受けた。

キリストの弟子がこの世から反発を受けるのは、ただ、周囲と違う価値観を持っているから、というだけではない。この世は、正しさを嫌うのである。この世の事例で言うと、ソクラテスがいる。人々は、ソクラテスをあぶのようにうるさい人であると言った。彼は人々に対して、自分自身をいつも吟味するように促した。人々はそれを嫌い、彼を憎み、殺してしまった。先ほど、鏡の話をしたが、クリスチャンの場合、みことばという鏡を世に差し出す。その時、ある程度の反発は避けられない。私たち自身、聖書を読んで反発を感じながら、最後には、みことばの前に屈服するという経験をしたと思う。みことばは、的確な罪の診断をする。人々はそれを嫌う。けれども、みことばを提示するのが私たちの仕事である。ふつうの医者は、患者から、私の病気を見つけてくださってありがとうございます、と感謝される。ところが、みことばによる罪の指摘の場合、そうはならない。へブル4章12節にはこうある。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えや計りごとを判別することができます」。みことばは、私たちの罪人としての本性を鮮明に映し出す。罪人の顔をくっきりと映し出す。人々は、みことばが告げる現実を受け入れたくなくて、みことばと、みことばを提示する人に反発してしまう。

ある男性は自家用車を購入することに反対した奥さんに対して、恨みがましく、苦々しい思いでいた。奥さんのほうは、そのお金を家具を買うことに充てたかった。その男性は、合理的には自分の考えのほうが正しいと思っていたし、妻の態度は悪いと思っていた。あるクリスチャンが彼に言った。「あなたが悩まされている胃痛は、その苦々しい思いが原因です。あなたの心が変えられなければいけませんよ」。その男性はクリスチャンの指摘に腹が立った。悪いのは妻のほうなのにと。クリスチャンは聖書を鏡として用い、その思いは罪だから悔い改めなければならないことを説いていった。はじめはその指摘は受け入れられなかったが、後にその男性は受け入れ、悔い改めることによって変えられた。奥さんが変わったわけではない。彼が変えられて平安をもった。私たちは、相手の人が耳にしたいと願っていることを、いつも語るわけではない。時にはうっとうしがられたり、拒絶されたりもする。反感も食らう。しかし、真理は真理として語らなければならない。

第三に、この世を支配する者の敵意について見よう。25節に「これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです」とある。『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』とは、25節の欄外注から分かるように、詩篇のみことばの成就ということだが、理由なしに憎むという不可思議さも、この憎しみにはあるということである。キリストとその弟子たちに対する否定的な反応の原因は霊的な次元からも捕えなければならない。ヨハネの福音書では、「この世を支配する者」という表現が度々登場する(14章30節、16章11節)。キリストは悪魔をこの世を支配する者と呼んでいるのである。悪魔はキリストを憎んでいる。その憎しみを世の人を通してぶつけてくる。ロイド・ジョンズは、このことを次のように述べている。「キリスト教の真理に対して人々が示す苦々しい反応ほど、ぞっとするものはない。彼らは、それを受け入れ信じることはできない、というだけでは満足せず、苦々しくなり、激しい憎悪を持つ。それは彼らが感じようと感じまいと、悪魔の働きである。なぜ憎悪が、怒りが、苦々しさが、なぜこのような敵意があるのか。神を激しく憎んでいる悪魔のせいである」。理由なしにとは、どうしてこれほどまでに?ということだろうが、答えは背後にいる悪魔のせいである。悪魔はキリストのすべてが憎い。だが、私たちはこの世の人たちから憎しみに類する否定的な感情を向けられても、憎しみで応答するように求められていない。「あなたの敵を愛しなさい」とキリストは命じられている。ヤコブは、ヤコブの手紙3章14,15節において、苦いねたみ、敵対心は、地に属し、悪霊に属するもの、悪魔的なものであると教え、それらはクリスチャンが持つべきものではないことを教えている。私たちは、世にあって世のものではなく、天の御国に属し、神に属し、キリストに属している。だから、憎しみに対して、憎しみで応答してはならない。パウロは語っている。「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません」(ローマ12章14節)。

最後に、世から選び出された者の使命について見よう。キリストは弟子たちについて、19節後半で、「わたしが世からあなたがたを選び出した」と言っている。私たちもこの世のものではない。悪魔のものでない。この世から選び出され、キリストによってこの世に遣わされた者たちである。参考に、17章14~18節のことばを読んでみよう。キリストのとりなしの祈りの一部分である。「・・・わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。・・・あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らをこの世に遣わしました」。私たちは、どうやら、この世から取り出され、使命を与えられているようである。その使命とはキリストについて証することである。今日の箇所では、そのことが26,27節で言われている。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです」。助け主である御霊といっしょにわたしを証するようにと言われている。「すなわち父から出る真理の御霊が来るとき」とは、使徒の働き2章に、その時のことが詳しく記されている。キリストは天に昇られ、御座から御霊を信じる者たちに注ぐことになる。使徒の働きという文書の副題は「御霊の働き」と言っても過言ではない。私たちも御霊の助けを受けて、キリストを証する。もちろん、キリストとは罪からの救い主なので、罪についても語らなければならない。しかし、この世は罪が語られることを好まない。あなたのその思い、あなたがしているそのことは罪である、と診断が下されることを望まない。今の社会科学や心理学には「罪」という語彙はない。「罪があなたの問題ではない」と言わんばかりである。現代は、聖書の罪の定義は時代遅れとみなしている。聖書が語っているような罪を指摘するのは、人を不安に陥れるだけだと言わんばかりである。世の学者たちがそういう態度である。しかし聖書が指摘している罪こそがすべての不幸の原因なのである。そして罪は永遠の死をもたらす。キリストは8章24節では、「わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです」と警告を与えた。認めたくないことばである。けれども、真実なのである。キリストが罪からの救い主であるということも真実である。十字架についた者がどうして救い主なのかとこの世は批判する。しかし、この罪の身代わりのみわざがなければ、私たちの救いはなかったわけである。

私たちは、この世に生きているが、「私は世にあって世の者ではない、天の御国に属している、キリストのものである」という帰属意識をしっかり持とう。だが、この世に憎まれることを恐れて、引きこもりクリスチャンでいることは望ましくない。たとい憎まれることがあっても、まず、キリストもそうであったことを覚えよう。そして私たちは、この世に遣わされた者たちとして、御霊とともに、御霊の助けをいただきながら、キリストを証していきたいと思う。仮に憎まれるようなことがあっても祝福で返し、この世に対して忍耐をもってキリストを宣べ伝えていこう。